つつじ色のリボン(卅と一夜の短篇第13回)
梅の花の散らぬ頃だ。一之瀬が目を覚ますとすでに日が傾いていた。ここ幾日かの春らしい陽気は桃や桜をほころばせるが、目蓋には重くのしかかる。窓から射し込む温暖な西日を浴びて、彼はうたた寝から覚めたのだ。
一之瀬は部屋の片づけをしていた。卒業後は内地の大学へ通い始める。故郷を離れるのだ。不在の間、要るもの、要らぬもの、また不用意に見られては困るものなぞを選別しようと、箪笥をヒックリ返していた。
彼があさる引き出しの、奥にある筒形のものは卒業証書入れだ。小学校のだから、ちょうど六年まえに貰ったやつだ。その下にある卒業写真を手に取って、梨地調の赤い表装を開いてみた。
僻地住まいの一之瀬は、小学校の同期の数が十人に満たない。写真にある顔のほとんどが、そのまま中学の級友と一致する。高校ではだいぶ増えたが、それがどうということもない。
写真に写った男どもは幾らか幼く見える。今ではほりも深く、顎ひげも生えるようになった彼らだが、写真にあるのはヒヨッ子で、坊主頭でなかったならば雌雄の判別も難しかろう。しかし女の変わったところは髪型くらいのもので、だれも今と変わらぬ目鼻だちをしている。女のほうが性徴期は早いと習いはしたが、なるほどこうして見れば一目瞭然だ。
しかし、ただのひとり、今の顔と比べられないのがいる。えり奈さんだ。ハテ、彼女は一体どうしたろう。一之瀬はえり奈さんの顔をジッと見つめた。彼女は優しげなほほ笑みを向けている。そういえば、右の頬にだけ笑くぼのできる人だった。
ページをめくれば種じゅの行事で撮った写真が並んでいる。運動会、文化祭、地区対抗の駅伝大会、大きな舞台で歌っているのは音楽発表会か。年の始めにやる凧あげ大会の写真があった。隅のほうに積雪の残る校庭で、男どもは股下数センチメートルの短パン姿だ。よくもマァ寒ざむしい恰好で走りまわっていたものだ。女が着けている吊りスカートに黒のタイツが羨ましいかぎりで。
その表彰式の写真がある。一之瀬は毎年欠かさず、よく飛んだで賞を貰っていた。しかし写真に写るのは彼ではない。校長から表彰状を受け取るのは二宮だ。……このときばかりは受賞を逃したのか。おぼろげな記憶をたどりながら、一之瀬はさらに箪笥をあさってみた。
すると底のほうから出てきたのは、薄青や黄緑、また桃色の画用紙が合わせて五枚。月桂樹らしき枝葉の枠の中に賛辞が云ぬんと印刷されている。よく飛んだで賞の表彰状だ。しかしあるのは一年から五年まで。確かに六年のときのやつは手もとにない。おそらく二宮の家の欄間にでも飾られているのだろう。一之瀬は当時を思い返してみた。
一之瀬のつくる凧は一辺が〇・九五メートル角の菱形をしたやつで、一・五メートル長の細い尾を二本もっていた。小学一年の頃、つくりかたを父に教わった。大きさに似合わずよく飛ぶ凧で、風がなくとも二、三歩あるけばフワリと空に舞いあがった。……よく飛んだで賞を五年連続で獲ったのだ。飛ばぬはずがない。ではなぜ六度めを逃したのか。
一之瀬は思い起こした。……そうだ。墜落してしまったのだ。あのとき絡まった凧糸は、ついに最後までほどけなかった。彼の眼前に、当時の光景が鮮明によみがえる。
梅の花の咲かぬ頃だ。一之瀬は人の少ない正門のほうで凧をはなった。風のない日だったが、凧はそんなことはお構いなしだ。彼が手にした糸巻はアレアレといったふうにして痩せ細っていった。
凧の引きは鯖の引きに似ている。気を抜けば釣り竿をクックッと持っていかれる感じだ。地上には風がなくとも、上空ではいつも吹きすさんでいるのだ。すでに小さく見える凧を見失わぬよう、一之瀬は目を逸らさずに操縦していた。
しかし、ここで彼は尿意をもよおした。事前に入れるものは入れ、出すものは出し、靴紐はシッカと結んで怠らなかった一之瀬だったが、寒かろうと三好先生に勧められた緑茶がいけなかった。持ち場を離れるのが不本意だった一之瀬は、しかし失禁の羞恥に耐えうるほどの男でもなかった。我慢強い男ではあるが膀胱はそれを許さない。ひと学年下の四辻に凧を預け、一之瀬は便所に駆け込むほかなかった。
戻ってみればすでに凧は墜ちていた。糸は雁字がらめに絡まっている。四辻がなん度も謝るので、一之瀬は後日、幾らかの駄菓子をオゴリにして貰うことで手打ちとした。
問題はほかにあった。墜落のきっかけは、ほかの凧に接触したことだったのだ。見慣れた自分の凧とともに、小さな凧が墜ちている。小花柄の千代紙を張った、垢抜けた凧だった。えり奈さんのものだとすぐに判った。
えり奈さんは泣きながら、また四辻と同じように、一之瀬に対して謝った。女が泣くのを見るとあまり良い気分にはならない。一之瀬は絡まった糸をほどくのに集中した。そのうち三好先生も加勢してくれたが、結局、彼の凧は再び空にあがることはなく、それでよく飛んだで賞を逃したのだ。
別にだれが悪いということはなかった。
その後、えり奈さんはどうしたろうか。一之瀬は彼女のおもかげを探してみた。しかし、仕舞い込んでいた記憶はもう出しきったようで、箪笥はすでに空ッポだ。底に敷かれた新聞紙の記事がよく読めた。
ほかになにか仕舞っておくとすれば、押し入れくらいのものだ。下の段に積まれたダンボール箱を、ここ数年開けたためしがない。
引っ張り出してみれば、出るわでるわ、幼い日の品じな。安物のデジタル腕時計、液晶が割れている。紙粘土でつくった貯金箱、振ってみたが空だった。貝殻や角のまるまったガラスの破片は、いつかの遠足で拾ったものか。巻き物らしき筒がある。まさか、埋蔵金の在り処が記されていようはずがない。巻き物には色鮮やかな留め紐がついている。つつじ色のリボンだ。一之瀬はこれに見覚えがあった。このリボンはえり奈さんから貰ったやつだ。
梅の花の咲く頃だ。社会科で郷土史を学んでいた時期だった。巻き物はその一環でつくった歴史年表だ。
巻き物をつくる日の朝、一之瀬はいつもより早く家を出た。なんとはなしのことだった。教室に着いてみれば、すでにえり奈さんがいた。彼はそこで知ったのだが、彼女はいつも一番乗りらしかった。
そういえば、えり奈さんは二宮らほかの女とは性質の違うのを一之瀬は感じていた。おとなびた体つきをしていたというのもあるが。……そうだ。喋りかたがほかと違ったのだ。彼女は内地からきた転校生だった。六年生になるのに合わせて一之瀬の学校へやってきたのだ。
彼女のことがフツフツを沸きあがってくる。
勉学に対する姿勢も違っていた。遅刻、居眠りなぞ見たためしがない。アァ、思い出した。将来は薬剤師になりたいと言っていた。当時の一之瀬には、ヤクザイシがなに者かさえ知らなかった。
巻き物の留め紐をほどくにつれて、煙のように掴みどころのなかったえり奈さんが、段だんと、目に見えるかたちを成してきた。
えり奈さんは夏場でも袖の長い制服を着ていた。肌の少し弱いとのことだったが、水泳の授業は普通にやっていたからたぶん嘘だろう。女は肌を焼くのを嫌い、日焼け止めを擦り込むのを好む。この点については、えり奈さんはほかと同じ性質だった。
えり奈さんは快活な人でもあった。小学六年ともなれば男女の違いを意識して、互いを避けることもよくある年頃だが、彼女は気にしていないらしく、男女構わずによく話した。えり奈さんに関するあれこれは、巻き物をつくった日に、一之瀬が早くに登校して彼女と話したから知ったことだった。
彼女と巻き物づくりの話になって、一之瀬はまずいことに気がついた。準備すべき留め紐を家に忘れてしまっていたのだ。担任は優しい三好先生だったから、今になれば可笑しいと一之瀬は解る。しかし当時、おとなは絶対神だと信じていた未熟な彼だったから、留め紐を忘れたことは衝撃的な失態に感じられた。人生が頓挫したかのように狼狽していた、そのときだった。
「わたし、長めに持ってきたから。半分あげる」
そう言われて、えり奈さんから貰ったのがこのリボンだ。
当時、鮮やかな赤を除く暖色や薄い色――例えばオレンジやバイオレット、ときにパープルやイエローも含まれる――は女色と呼ばれ、男どもから忌避されていた。ピンクはその最たるものだ。男は赤、青、緑、黒を是としていたのだ。
えり奈さんの差し出したリボンの色は、それはもうショッキングなピンクだった。一之瀬は気恥ずかしさに耐えながら、それを受け取ったのだった。
今になって当時を思えばどうだろう。……手の平に乗せられたリボン。少しばかり触れた指先。右の頬にだけ笑くぼをつくった、優しげなまなざし。この留め紐と同じく、鮮やかで、また恥じらいがちな、幼い頃の記憶。
この部屋にはこれ以上、彼女の残した香りはない。一之瀬はえり奈さんの残り香を求め、階下に降りてきた。床の間は父母の寝て起きてしている部屋で、客が来ればそれの応接に使うところだ。彼がここで過ごすのは説教を喰らうときくらいのもので。しかし、ここには彼女の香りがある。一之瀬は障子戸を開けてみた。
その向こうは庭になっている。猫の額ほどに小さなものだが、母はそれをいじるのが好きでよく整っている。敷居をまたぎ、縁側に出てみると、そこで彼は思い出した。えり奈さんの香りがするのはここだ。この狭い縁側だ。障子戸の隙間をつたって、床の間にまで流れてきていたのだ。一之瀬は縁側の柱に背をもたれ、思い返してみた。……そうだ。えり奈さんは、この家を訪ねたことがあった。
梅の実の熟れる頃だ。一之瀬は夏風邪をこじらせて学校を休んでいた。二日でほぼ快復していたものの、せっかくだということで三日休んだ。父母は仕事で家を空け、一之瀬は気がねなく自由を満喫した。
つゆ雨がようやくあがり、その日はカンカンに晴れていた。ちょうど今くらいに西日が射して、縁側がほどよく日かげになった頃だった。玄関の戸をたたく音がして、だれかしらと考えた矢先、知った声がしたのだ。彼の名を呼ぶのはえり奈さんだった。
コッソリ玄関のほうを覗いてみれば、呼びかけをしながら、えり奈さんはスリガラスの向こうで体を左右に揺すっている。居留守も悪かろうし、仮病を隠す必要もなかろう。一之瀬は玄関の引き戸を開けた。
えり奈さんは快活ないつもの調子だった。様子を見にきただけと言う彼女だったが、すぐ追い返すのもなんとなく悪いように思われて、あがっていくよう一之瀬は勧めた。客人なのだから床の間に通すのが良かろう。いかんせん、小学生の彼の自室は女に見せられる様相ではなかった。
いよいよ夏が始ままって、ミンミンゼミが鳴きだした。えり奈さんがスカートの裾を持ちあげてハタハタと扇ぐので、彼女を風のよく通る縁側に通し、また、一之瀬は居間にあった扇風機を引っ張ってきた。
そこで棒アイスを食べながら、彼女となにを話したろうか。男であれば河原へでも出ていって石を投げたり、家ではテレビゲームなぞに興じるものだが、女がする遊びというものを一之瀬は知らなかった。学校の昼休みでさえ、男どもが場所を構わず走りまわっていた間、女は一体、どこでなにをしていたろうか。記憶はおぼろげだ。
学校の制服はいつも冬物ブラウスの姿だったえり奈さんは、しかしこの日ばかりは、潮風に当たるのが絵になりそうな、いかにも夏らしい恰好だった。……そうだ。それはハッキリと覚えている。日に焼けていない上腕が、白い袖から覗いていた。床に拡がったスカートからスラリと脚が伸びていた。色白だが健康的な脚だ。細長い足指が見える。えり奈さんは裸足だ。爪がツヤツヤしている。視線をあげれば、開いた襟もとに鎖骨がうねる。ジットリ汗ばみ、髪のへばりついた首すじ。薄紅の唇。白桃のような頬……。
一之瀬はそれ以上、見ないようにした。
思えば、当時ふたりの家は学校を挟んで反対方向にあったはずだ。えり奈さんが私服だった理由は知らない。
一之瀬は庭のほうを見やった。あのときは実をたわわにしていた梅の木が、今は花が満開だ。
部屋に戻れば、机の上に巻き物がある。つつじ色のリボンは少し短くて、蝶結びにするには難しい。これは凧あげ大会の詫びのつもりだったろうか。それとも彼女なら、だれにでもリボンを与えたろうか。
えり奈さんは六年生にあがると同時に越してきて、小学校を卒業するのと同時にまた越していった。詳しい行き先を一之瀬は知らない。
散らかったままの部屋で、一之瀬はフイと息をついた。女というのは不思議なものだ。いつの間におとなになるのだろう。男どもがなんとなく過ごしていたあの頃に、女はなにを考えていたろうか。当時のえり奈さんを、一之瀬はいまだに知れないのだった。
完