3. 砦の老婆
「ひゃっひゃ、遅かったじゃないか。多分、アンタが儀式の最後の参加者だろうよ」
ドルジの砦と言われる建物の中に入った私を出迎えたのは、憮然とした顔のアンジェ光教団の神官戦士たちと、それらを見て楽しそうに笑っている老婆であった。
その老婆の裾から出た腕は蟲のようであり、顔には目玉は八つ付いていた。
つまり老婆は妖混じりだ。それも相当に魔獣の血が侵食しているのだろうが、意識はハッキリしているようだった。
「ハァ、ロンガ婆ってのはあんたか。教団とはそりが合わなさそうな顔つきしてるが……いや、そちらの神官殿は仕事を放棄されておられるのかね?」
私の言葉に神官戦士たちがさらに渋い顔をするが、悪態を口を出さぬだけの忍耐力はあるようだった。もっともこの老婆にも、私にも、彼ら程度の武力ではどうすることもできない。私ならば彼らの持つ盾の上から鏖殺することも可能だし、老婆にしても気配からしてまともな存在ではないのだろう。そもそも持っている力が違う。
しかし、この老婆だが……とても人の意識が残っているとは思えぬ姿だ。
ここまでの状態であれば、光の神教団からすれば討伐対象に指定されてもおかしくはないと思うのだが、老婆はヒヒヒと笑って私を見た。
「不思議かい? けれどあたしゃ、あんたらとは違って魔術師だ。定義になぞらえるなら、そもそもあたしは妖混じりですらもないんだよ」
「それはどういう……まさか魔獣ということか? どうやって意識を保ってるんだ?」
完全に魔獣と化せば人としての理性など消滅し、本能に生きる獣そのものとなるというのが一般的な妖混じりに対する常識だ。
だが目の前の老婆の言葉が正しいのだとすれば、人としての意識を持ったまま魔獣にもなれるということだ。人の魔獣など手に入れずとも、そんな方法があるならば……と、そんなことを考える私に対して老婆は首を横に振って笑う。
「あんたらにゃあ無理だよ。大体だ。あたしの頭ん中はとっくに狂ってる。魔獣のものに脳みそが作り変えられているさ。ただそうなる前に魂を切り離してね。生霊となって、変わった後に取り憑いた。言ってみれば自分の身体を操っているわけだ」
「それは……確かに私には無理そうだな」
狂う前の魂を切り離し、魔獣と化した後に自らを憑依させた?
確かにそんな芸当は私には……というよりは人間には無理な所業だ。その有り様はもはや人ではなく、魔法生物に近い。魔術師と言っても相当に高位の、それも失敗を覚悟して挑まねば不可能なものだろう。
「で、そこの連中があたしに手を出さないのは、この地の管理にはあたしみたいのも必要だからだね。蛇の道は蛇。聖句だけじゃあどうにもならんこともあるのさ。神様の下僕に糞の始末なんざできないからね」
その言葉に神官戦士たちがこちらを睨みつけてきたが、私は元より目の前の老婆をどうこうできるわけもない。いや、この老婆を殺すのは私であっても難しいだろう。特に砦の中は彼女の領域だ。すでにこの場は魔獣の腹の中に等しい。
「ま、あたしのことはいいさ。それよりも、出すもん出してくれるかい?」
その言葉には私も頷いて、それから鞄の中から教団の信徒の証である聖星印が刻まれた石札と、金貨の入った皮袋を取り出してテーブルに並べた。
「石札はまあ、本物だね」
そう言いながら老婆は続けて袋の紐を解いて中身を取り出すと眉をひそめた。
「で、こいつはイェーカー皇国の金貨かい。あそこも戦続きで年々質が低下してると聞いているけどね」
「分かってるさ。皇暦700年代のものだ。調べてもらってもいい」
私は肩をすくめて、そう言葉を返す。
情勢が悪くなれば悪貨が広まるのは道理ではあるが、だからこそ栄えた時代のものは信用が置ける。昨今では年代を偽造したものも少なくはないけどな。
老婆が疑り深く金貨を眺めているが、私も馬鹿ではない。こんなところでケチがつくようなものを用意してはいないさ。
それから老婆はさらにいくつかの金貨を確認した後、袋にしまい直して「まあ、いいさ」と口にした。
「信徒の証は確認したし、寄付金も受け取った。これであんたも晴れて穢れ払いの儀式を行う資格を得た。で、あんたの名前はなんて言うんだい?」
「デミトリだ。デミトリ・ドーガ」
私がそう口にすると、神官戦士たちの顔色が変わった。
自慢するわけではないが、私の名もそれなりに知られてはいる。神官戦士たちの反応を見る限りでは、伝わっているのは悪い意味での噂のようだが、戦士にとっては悪評も勲章のようなものだ。
「デミトリ。そうかい、あんたが餓狼か。その名前はあたしも知ってる。こりゃあ随分と大物が来たもんだね。それも遅刻してくると」
そう言って笑う老婆に私は苦笑する。
遅刻したのは私のせいではないのだが、予定ギリギリで船で来たのは正直失敗だったと思う。まあひとつ前の仕事が長引いたのが原因だが、ともあれ辿り着いたのだから問題はない。これから追いつけばいいだけのことだ。
「それで、私以外に誰か、名のある人物は来ているのかい?」
その私の問いに、老婆が「そうさねえ」と口にする。
「断斬のゴレイヌ、百剣のリシルとか、それなりの実力者は揃っていたよ。狂犬チリアも来たそうだがこの砦には寄ってないね。来て欲しくもないが。それとこっちは本筋の儀式の参加者だが聖女マリアンヌが来ている。出会うべきじゃあないだろうね。ありゃあ、あたしから見ても化けモンだ」
おいおい、そいつはここで言わないで欲しいね。ほら、そこの連中がまた睨んでやがる。
それにしても狂犬チリアか。四つの国でお尋ね者になった頭のイカれたヤツだとは聞いている。ザルバ王国の幼い王子が拐われてソーセージになって帰ってきた事件は、最近の酒場での話の種のひとつにもなっているしな。
「名前を知ってるのも多いな。最近じゃあ魔獣の活性化も著しいし、浴び過ぎたヤツも多いのかね」
「今は三百年周期に起きる三重月の頃合いだ。魔獣がもっとも元気な時期だからねえ。まったく、今回はいくつの国が滅びるのやら」
風の噂では、失われた国がもういくつもあるとか聞くな。
便乗した内乱でさらに多くの人間が死んだとも伝えられているが。ま、だとしても国の行く末なぞ私にはどうでも良いし、戦が増えるならば飯のタネが増えるということだ。私にとっては朗報以外のなにものでもない。
「そいつはな。つまり私たちの仕事が増えて、酒代には困らないってだけの話さ。婆さん、品を見せてくれ。必要なものがここで揃ってるって聞いたぞ」
一応一通りの準備はしておいたが、ここで希少な品も手に入ると聞いている。
それだけを目当てにこの時期に来るヤツもいるらしいからな。
そして、私の言葉に老婆がニンマリと笑う。
「ヒッヒ、毎度ぉ。ここに来るのは金払いはいい連中ばかりだから助かるよ。殺す道具は一通り揃ってるよ。魔薬の類もあるが女はない。あたしゃ、もう枯れてる。必要なら、そこらにいる魔獣の穴でも使っておくれ。存外に人間のソレと変わらないらしいよ。あたしゃあ、試したことはないが」