びいどろの夢
注がれたのは、つんと匂いが鼻につく、度数の高いお酒であった。私は何も考えないでそれを呷り、ごくりと飲み干す。残ったのは、なんとも言えぬ色合いを呈するびいどろの盃。透明の中に蒼の斑点を躍らせて照明の光を浴びて輝くそれは、私の想いとは裏腹に明るく、清々しささえ放っていた。
喉が、焼け付くような渇きを主張してくる。それとともに、体の奥底が疼いた。何かを渇望するかのやうに、ぽっかりと空いてしまった隙間を埋めたいというやうに。
「何かあったのですか。」
酒場の主人は私のいつもとは違う飲み方に疑問を抱いたやうだった。そうだ、いつも私は少しずつ飲むのである。お気に入りのびいどろの盃に、並々入れた洋酒をちびちびと飲む。何方かというと、私は酒豪である。しかし、酔いがゆっくりと回るようにと、飲み過ぎることの無いようにと、私なりの楽しみ方であった。
「何も無いさ。いつものを一杯」
びいどろを差し出すと、忽ちのうちに琥珀の輝きで盃は充たされる。一頻り手元の小さな宝を眺めてから、またぐいつと呷る。
此れだけで酔えたならば、私はどれ程羨ましいことだろうか。お酒に酔い溺れ、総て忘れたいしまいたいと思う。重く暗い何かが胸を押し潰すようであった。それ程に私は憔悴していたのだ。
からりころり、と玄関の鐘が音を立てた。
その音に目を遣ると、若い青年が立っていた。若いと言っても、歳は二十半ばといったところだと思われる。黒い外套に身を包み、こちらを見ると片手を上げて、人の良い笑みを浮かべる。
「やァ、主人、いつものを一杯、びいどろに」
そう言うと、態々、客が私以外に誰も居ないこの店の中で私の隣に座る青年。いや、誰も居ないからこそであろうか。
「はい、どうぞ」
青年に主人が出したいつものは、私と同じ琥珀の洋酒であった。盃も同じびいどろである。彼のびいどろは、生命力溢れる若葉の色であった。若く、元気の良い青年にぴったりである。私とは相対に、妙に機嫌が良い青年は今にも鼻歌を歌いだしそうであった。どこまでも陽気な彼の様子が、今はどこまでも羨ましかった。
出された琥珀の液体を、勢いよく一息に飲み干す青年。
「嗚呼、灼けつくようだ! 矢ッ張り、欧羅巴のお酒は良い。」
そうだろう、お兄さん、と私に向かって言う彼は、既に酔っているかのようだ。彼より歳が上であるとはいえ、大凡、私はお兄さんなどといわれる歳ではない。しかし、まだまだ素面とみえる。彼は、普段からそう言った体なのだろう。
「主人、もう一杯。」
「はいよ。」
とくとくと、酒精の匂い立つ酒が注がれていく。薄暗い店の中、光を受けてびいどろはまるで宝石の如く輝きを見せる。
私の手には、空いたびいどろの盃。物足りないその器に、今の自分を重ね見る。
「私にも。」
「はいよ。」
充たされた盃。しかし、私の体は、心はそれでは充たされない。じっと静かに見詰めて居ると、ふと視界に、鮮やかな若葉を浮かべたびいどろが映り込んだ。
「どうですか、乾杯、しませんか。」
彼が、盃を此方へと掲げていた。目がかちりと合うとにいつと彼は破顔った。
「済まないが、そんな気分ではないのだ。」
照明に輝くびいどろを空に掲げたまま、残念そうに眉尻を下げる青年。
「それは失礼しました。」
先程の陽気は何処へやら、私と同じやうに、暗く沈んだ靄が彼の明るさを隠したかのようである。
どうにも居た堪れなく、仕方なく私は上がったままの彼の盃に手の中の盃をかち合わせた。からん、とびいどろ同士が音を立てた。すると、霧が晴れたかのように彼は清々しく笑顔を浮かべるのであった。
「乾杯!」
「……乾杯。」
そのまま、動作を同じくして私と彼は洋酒を呷ったのであった。
中々彼は、愉しげに酒を飲む人であった。そして、私と同じくらいの酒豪であると見えた。
そして不思議なことに、私と彼の間には会話の一つもないにも関わらず、共にびいどろを傾けているだけ、只それだけで私の胸の淀みがすうと薄れていくのである。
掴み所のない飄々とした態度で、主人、何か他にお勧めの美味しい欧羅巴のお酒はある、などという彼に、私は一種の興味を抱いていた。
そして、それは彼も同じだったようだ。
「お兄さん、何かあったのかい?」
彼は、こちらをまじまじと観察するように眺め回した後にこう切り出したのである。
勿論、主人と同じ事を聞かれて、不可思議な、そして興味深い来訪者に昂ぶっていた私の感情が、一息に暗闇の底へと舞い戻らさせられてしまう。
「何もないさ。」
ぶっきらぼうな声が響いていた。黒く淀んだ何かが胸を締め付けるようで苦しく、私は思わず洋酒を口に含んだ。
怪訝な顔して、彼は考え込む。
「主人、私はいつもこう言った人なのかい?」
失礼にも彼は、私を指差し聞く。そんなにも他人の素性は気になるものであろうか、いや、私が彼に抱く興味と同じようなことか。
「違うね。いつもは少しずつ嗜む程度にお酒を愉しむ人だが、今日は違うようだよ。」
「ふうん、そうか。矢ッ張り、何か理由があるんだね。」
問題に正解したかのように愉しげな彼の声音が、今はどうにも苛立ちを感じさせる。
「だったら何なのだ。君が私の悩みに答をくれるとでもいうのか?」
「嗚呼、欲しいのならば、私に答をくれてやることもできるさ。僕は、そんなに暗い顔をした人とは共に飲みたくない、しかし、僕は今、私と飲みたいのだよ。」
びいどろを眺めながら、よく判らないことを彼は言う。しかし、どこか真剣さを孕んだやうなその声音に、私は彼のくれる答とやらが気になった。
「主人、洋酒を瓶ごとくれ。」
私が言うと、そっとお気に入りの種類の洋酒を差し出す主人。受け取り、私はびいどろに残っていた液体を飲み干した。
「では、話に付き合ってもらうこととしよう。」
鉛を飲み込んでしまったかのような、どうにも重い気持を引き摺り、私は語り始めた。
「つい先日のことであるが、私は勤めていた会社を馘になってしまったのだ。まだ、それは良いのである。私は小説を書くものであった。思ったことを言葉にして綴り、並べて居た。最初は、それらがとても楽しかったのである。書いた文が他人を楽しませる、何かを思わせる、考え方を伝える、それはとても素敵な事だと感じて、これ程までに素敵な職業はないだろうとさえ思っていた。しかし、馘になり、会社を去るときになってだ、或る人が私に言ったのだ。私は、何の為に書物を書いているのだ、と。或る人曰く、昨今の私の作品は、何も感じさせないのだ、意義を感じないのだ、と。私はは変わらず愉しんで文字を書いていた。それは変わりないはずだ。しかし、或る人は続ける、まだ若かりし頃の私の作品は、生きる輝きに満ちていたのに、人の心を動かす、生への渇望とも言える、えもいわれぬ美しさがあったのに、と! 確かに、物語を書き始めた頃の私は、生きることに精一杯であったよ。眼に映るものを言葉に換えて、思うままに、感じるままに、綴りに綴ってその日暮らしをしていたさ。私の書いた書物が売れ始め、生活が軌道に乗ってからは、その日暮らしの必死さは、生きることへの執着は薄れていった。そう想っていて気がついたのだ。今の私には生きる甲斐性が無いのだ、と。若い頃の私にとって、文字を連ねること、それこそが生きる意味であり生きる事であった。過去の足跡を残すことであり、未来への調べであったのだ。それから、めっきり私は筆が進まなくなってしまった。書こうとしても、文字を連ねようとしても、筆を持っても何も為すことがないのだ。その内、私の胸を、黒く淀んだ何かが締め付けるような、そんな苦しみが襲うやうになった。まるでそれは、ぽっかりと私の心に穴が空いてしまったかのようである。何かが足りないのだ。私は何かを渇望しているのだ。しかし、それが何かすっかり判らない。そうして何かやることも無く、ただ行く宛てなく歩いていたら久々に此処についたものであるから、私はこうして只々お酒を呷って居るのだ。」
私は、ちびちびと洋酒を飲みながら語り終えた。瓶の中身は四分の三ほどに減っていた。少しだけ、胸の中の重い鉛のような気持が軽くなった気がしたのであった。
「そうか。」
彼は一言そう呟いてから、びいどろを傾けてお酒を呷る。彼はびいどろの輝きを愉しむかのように、手の中で弄んで居る。
「僕は、どうにも私が何を悩んでいるのかが判りませんけどねェ。」
私は、むつと眉を顰めた。心底不思議だ、そう彼の口調が物語っているほどによく判らないという様子であった。
「だって、私は既に言っているではないですか。私には、生きる甲斐性が無いのだ、と言っているではないですか。私に足りないのは、当にそれでは有りませんか!」
大仰に両手を広げ、彼はにいつと嗤ってこちらを見据えた。
「大体、私はとても詰らないことで悩んでいらっしゃる。僕にとってはそんな馬鹿げたことで悩むだなんて、時間の無駄。そう僕には思われて仕方がありません。」
肩を竦める青年に、私は、怒りがこみ上げてくるのを感じた。そしてそれは声に出た。
「詰らないなんて事は無いだろう! 現にかうして私は悩んでいるのだ! 胸の如何ともしがたい蟠りに苦しめられているのだ!」
「いいや、詰らないさ!」
私が叫ぶと、間髪入れず彼が否定する。瓶を取り、私はびいどろに洋酒を注いで飲み干した。彼も、呷った。
「何度でも言おう、詰らないことで私は悩んでいると。人の生きる甲斐性なんて、理由なんてものは所詮まやかしでしたかない。有って無いようなものだ。他人の足跡に、後から人が付け足したようなものだ。或る人の言った事はそれは、合っているかもしれない。けれど、そう感じていない人も居る筈だ。どのやうに文字を並べるか、なんてことは、須らく私の意思で行われ、そのことについて誰かに文句を言われても、それは只の戯言なのですよ!」
妙に芝居掛かった彼の言葉が、すうと胸の内に染みて。私が胸の淀みを浄化していくやうだった。
「或の人の言う事は、戯言であると?」
「私の書物に、自分の求めるものが無くなったと文句を言っているようにしか、僕には聞こえませんでしたけどねェ。そんな言葉で悩むぐらいならば、なんの戯言を、とでも想っておけば良いのですよ。」
くいつと盃を傾けて、いつの間にか注がれていた琥珀の液体を、彼は空にした。
なんだか喉が渇いた気がして、躬らびいどろに注ぎ、私も追うようにして空にした。
「そう言うものか。」
「そう言うものですよ。」
首肯きながら、彼が言う。
「そうか。」
「そうですねェ。」
ふつと笑みが零れた。曇天のやうであった重く暗い気持は、嘘かのやうに、びいどろの如く清々しく、晴れやかであった。
彼のくれた答えが、私の望んでいた答えなのかは判らない。しかし、今日此処で、見栄を張る青年だ、とでも思い話さなければ、永遠に答は出なかったのであろう。
当の青年である彼は、只、琥珀色を重ねたびいどろを弄び、その煌めきを、儚い幽かな光の揺らめきを、愉しんでいるやうであった。
「僕の答は如何でしたか?」
きっと、彼のことだ、私の想いなど御見通しなのだろう。その上で、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
瓶から洋酒をびいどろいっぱいに広げた。彼のびいどろにも、注ぎ込んで、瓶を机に置いた。
「そうだなぁ、今日は飲みたい。呑まれるくらいに、飲みたいのだ。どうか今日は、今日こそは酔いたいのだ。」
琥珀の輝きを、総て飲み込んだ。
最早私は酔っているのかもしれない。なんだか良い気分だ。私は、一息に洋酒の香りを吸い込んで、飲み込む。名も知らない、不思議な青年と引き合わせてくれた、これは、びいどろが私に魅せた良い夢かもしれない。
「ならば、お伴しましょう!」
ここで会えたのも何かのご縁ですから、と言うと、私の隣の青年はぐびりと飲み干して、びいどろの盃を空かせた。
「それではもう一杯、如何ですか」
いつの間にか、私の手にしていた瓶を持ち、主人が笑って居た。
ただ、私は首肯く。彼も、はい、と返事をする。
酒場の主人はとくとくと、また二つのびいどろへと一杯、琥珀色の洋酒を注ぐのであった。
成人した方々、御目出度う御座います。
くれぐれも、酒は飲んでも呑まれぬようお気をつけて。
あと、急性酒精中毒にも、お気をつけを。