華絵 2
ー華絵 2ー
お腹が空きすぎて、目が覚めた。
時計を見る。午後2時。もう12時間、なにも食べていなかった。
ふと、窓を見る。緑色のカーテンがきっちりと掛かってある。一安心。
冷凍パスタとバケットで食事を済ませ、洗濯と、週に一回の掃除にかかる。
洗濯?ベランダ?
急いでベランダの窓を開ける。
予想通り、隣のハイツのベランダが、同じ高さにあった。
ハイツ同士の間は2mもないくらい。干している洗濯物が丸見えだ。
今朝、光が悪い人ではないとわかった。
でも、友達にはなれそうにない。
光は、この世で一番、苦手な人種だ。
下着は、部屋干し。ヨレヨレのTシャツは、反対側の一番端に。
これからも、気をつけないと、生活の一部を覗かれているようで、気持ちが悪かった。
そろそろ夕飯の買い物にでも行こう。冷蔵庫の中はかなりスカスカだ。
財布を持って、外に出た。すると、横のハイツからも人が同時に出てきた。
まさか、と思い、その人を見た。
やっぱり、光だ。
偶然に偶然が、その上にもう一つ、偶然が重なるなんて、ある?普通は、ない。
一体、この偶然は、何なのだろう。
「出掛けるの?」
「はい。」
「バイト?」
「いえ。」
「はっきりしないよね、カエル。」
「あっ、買い物に。」
「じゃ、ついて行こうっと。」
近くのスーパーマーケットまで、2人並んで歩く。
まただ。またこのパターン。
なぜだか、光から、この先もずっと逃げられないような気がした。最悪。
「何買うの。」
「晩御飯の材料とか、いろいろ。」
「自分で作るんだ。」
「一応。」
「いいなぁ、晩御飯。」
「食べないの?」
「食うよ。その辺のもん。」
「そう。」
「かわいそうだと思わない?」
「えっ?」
「栄養のある物、食べさせてあげたいって思わない?」
「作っててこと?」
「作ってあげようとは思わない?」
きた。ここで反論はタブーだ。
「作ります。でも、どこで?」
「俺ん家でもいいけど、料理の道具なんてないし。」
どっち?どっちがいい?考えなきゃ。
一人暮らしの男性の部屋なんて、絶対行けない。
私の部屋に男の人が来る?絶対無理。
でもどっちかに決めないと。早く、早く。
「じゃ、私のとこで。」とっさに出た一言。
彼氏も来たことのない部屋。
なんで言っちゃたんだろう。泣きそうになった。
2人で並んで、部屋に帰る。
荷物は、私の手から奪い、光が持ってくれた。
部屋、掃除していてよかった。
ひとつ、思い出した。洗濯物。下着が部屋の中にかけてあったんだ。
部屋に入る前に、ちょっとだけ待って、とお願いしたけど、いいじゃん、と言いながらズカズカと入って来る。
下着を、慌ててクローゼットの中に放り込んだ。
「きれいにしてんじゃん。」
「掃除したから。」
「俺ん家にも、掃除しに来てよ。」
「まぁ、また今度。」
「約束だからね。」
わたし、約束してないけど。
「お腹空いたな。」
「今、作るから。」
「早くしてね。」
私は、お手伝いさんか。
ご飯を早炊きで。豚の生姜焼きとお味噌汁ときゅうりとちりめんじゃこの酢の物を手早く作る。
家でも手伝っていたし、一人暮らしの2年間でも結構自炊しているから、料理は得意だった。
「すごい。定食屋みたい。」
例えは変だけど、喜んでくれている。
「うまいよ。」と、ご飯のお代わりまでして完食してくれた。
初めて、男の人に料理をご馳走した。
自分の料理を喜んでくれることが、こんなにうれしいことだと初めて知った。
「ご馳走さま。腹いっぱい。」
「大したもの作れなくて。」
「大したもんだよ。」
テーブルの上の食器を片付け出した時、
「いいよ。俺がするから。」と食器を流し台に運んでくれた。その上、食器を洗い出したのだ。
「いいから、私がするから。」
「作ってもらったんだから。」
洗い物の手を止めない。
驚いた。あんな態度をとる人が、洗い物をするなんて。
洗い物を終えた光が
「また作ってくれる?」と聞いていた。
「はい。すみません、洗い物まで。」
「じゃ、帰るわ。それと、敬語はダメ。」
光が、あっと言うに帰って行った。
なんだったんだろう。
光の態度が、コロコロと変わる。
お手伝いさんのように扱ったり、洗い物をしてくれたり。
摑みどころがない。ペースについて行けない。
私は、光の何なんだろう。
それから、月曜日の深夜は、私のバイトを終わるのを待って、光と一緒に帰る日になった。
コーヒーは、ハンバーガーショップではなく、私の部屋で飲みたと言われた。
断れなかった。
怒られるからという理由もあったけど、光に興味が湧いてきた方が大きかった。
ゼミの教授が実はゲイだと言う話。
学食のメニューにはない激安の裏メニューの話。
レンタルビデオ屋にピンクの帽子とマスクで毎日来るエッチなおじさんの話。
友達の新車の車内でビールかけをした話。
色んな話を面白おかしくしてくれるけど、光のことについては、いつも曖昧な答えしか返ってこない。
なんで3時に来るの?バイト終わり。
木曜日はどうして来なくなったの?ちょっとね。
お昼のバイトは何してるの?ショップの店員。
なんのショップ?いろいろ。
学校には行ってるの?行ってない。
1か月かかって聞き出せしたけど、具体的に何もわかっていない。
もっと色んなことを聞きたいけど、時間がなかった。
光とは、火曜日の朝だけしか会っていないのだから。
できるなら、もっと光と話せる時間があればいいなと思うようになっていた。
光が初めて私の部屋に来て1か月の間で、私の部屋で変わったことが2つだけあった。
マグカップがひとつ増えたこと。
緑のカーテンが開いていること。
コンコン。
ノックのような音がした。
玄関ドアの覗き穴から外を見たけど、誰もいない。
コンコン。
部屋の中から聞こえた。音のする方に行ってみる。緑のカーテンの窓からだ。そろそろと窓を開けてみる。
子供のようないたずらっぽい笑顔の、光がいた。木の枝ような物を持って。
「晩飯、食った?」
「何してるの?」
「便利だろ。電話しなくてもいい。」
「便利って。」
「この頃、カーテン開けてただろ?」
「うん、まあ。」
「こっちが気になってたりする?」
「違うし。」
「ふうん。飯は?」
「まだ。今、バイトから帰ったとこ。」
「こっち来いよ。飯あるから。」
「ご飯?」
「もらったんだ。」
光の部屋に行ったことはない。付き合ってもいない男の人の部屋に行ってもいいのだろうか。悩んでいると
「早く来いよ。」といつもの強引な言い方。
「わかった。用意して行く。」
「用意ってなんだよ。」
「汗かいたから、シャワーしたいし。」
「待ってんだから、早くしろよ。」
「うん。」
11時から6時までのバイトで汗だくだった。
怒られようが、このままでは行けない。
でも、どうして誘ってくれたんだろう。
今日は火曜日ではない。
ノックした。返事がない。
返事がなくても、ここで待っていてはいけない。躊躇されることが、光は大嫌いだ、ということを1か月で学習した。
「お邪魔します。」
ドアを開けると、腰にバスタオルを巻いただけの光が立っていた。
「きゃ、ごめんなさい。」
開けているドアから出て行こうとすると
「何やってんだよ。入れよ。」
「でも。」
「21歳にもなって、男の裸にびっくりしてんじゃねぇよ。」
「でも。」うつむいたままの私の頭を撫でながら
「わかったから。服着るから。」
部屋の中に入って行った光の後ろをついて行った。
部屋の造りはほぼ同じ。ただ、物が極端に少ない。流し台にもコンロにも何も置いていない。
部屋には、ベッドとテレビとパソコンの置いてあるテーブルだけ。
一番目についたのは、壁に立て掛けられたギターとキーボードだ。
Tシャツと半パン姿になった光が、パソコンを片付ける。ベッドの上に置いてあった紙袋からお弁当のような物を取り出した。
「うなぎ、食べれる?」
「うん、好き。」
「もらいもんだけど。」
冷蔵庫から、ペットボトルのお茶を取り、私に渡してくれた。
「いただきます。カエルも食べろ。」
「うん。いただきます。」
「うまいな、これ。」
光は、美味しそうにご飯を食べる。
「全部食べきれそうにないから、半分食べてもらってもいい?」
「なんでだよ。いっぱい食べないと大きくなんないぜ。」
「もう大きくならなくてもいいし。」
「胸も尻ももうちょい大きくなった方が魅力あるけどな。」
「めっちゃ、失礼なんだけど。」
「食べれなかったら残せよ。後で食べてやるから。」
やっぱり、男の人は大きい胸の方が好きなんだろうな。
貧弱な身体、自分でも嫌になる。
「ギター、弾くの?」
「まあな。」
気のない返事の時は、もうこれ以上、突っ込んで聞かない。これも学習した。
「音楽、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、今はあんまり聞かないかな。」
「どんな音楽を聞いてた?」
「笑わない?」
「何?」
「クラシック。」
「マジ?」
「友達にも、笑われた。」
「誰が好き?」
「ドビュッシーとかサティ。」
「ピアノが好きなんだ。」
「弾けないけど。」
「CD持ってる?持ってたら、貸して。」
「いいけど。光、聞くの?」
「結構、好き。」
「珍しいって、言われるでしょう。」
「そんなことないよ。」
「光の周りには、音楽好きな人が多いんだね。」
ギターとキーボードは、誰が弾いているのだろう。
「これ聞いてみて。」
「誰の?」
「いいから。」
光がパソコンにMDを入れる。
ロック?ギターとドラムの激しい音から始まりる。
ボーカルが入る。伸びやかで、張りのある声。メロディに乗って、力強さと甘さが交錯する。
一瞬にして心を掴まれた。
「すごい。」
「よかった?」
「曲もいいけど、ボーカルがすごい。」
「そんなに?」
「大好きな声。なんていうバンド?」
「メジャーじゃないバンド。」
「コピーしてもらってもいい?」
「これあげる。」
パソコンが出したCDをケースに入れて、渡してくれた。
「ありがとう。」
「じゃ、行こう。」
「どこに?」
「カエルとこに決まってんじゃん。」
「なんで?」
「お前、CD貸すって言ったろ。」
「ごめん。今とは思わなかったから。」
「話、通じない奴だな。」
「ごめん。」
2人で私の部屋まで帰って来た。
CDだけ渡して、と思ってたら、コーヒーが飲みたいと言い出した。
女子校育ちだから知らないだけで、男の人とこういう風に接することって、普通なんだろうか。こういう関係が男友達っていうのだろうか。
「コーヒー、おかわり。」
「ちょと待ってね。」と言った時、突然、光が部屋を出て行った。
何?どうしたの?私、何か言った?
光がいなくなって、動機が激しくなった。
今までになかった感情。淋しくて、心細いくなってしまう。なぜか、泣きそうになってしまった。
光が、すぐに帰って来た。
「なんて顔したんだよ。」
「光が、急に出ていったから。」淋しかったとは、言えなかった。
「厄介なやつだな。」
「どうしたの?」
「これ、食う?」
箱に入ったバームクーヘンだった。わざわざ取りに帰ったんだ。
切り分けて、テーブルに運んだバームクーヘンを見て
「もっと食べろよ。これうまいって評判のなんだから。」
「うん、知ってる。」
「結構、並んだんだぜ。」
「光が、買いに行ったの?」
「あぁ。」
「じゃ、私なんかが食べちゃいけなかったんじゃない?」
「カエルに食べさせたかったんだよ。」
「私に?」
「いつも、おいしいコーヒー淹れてもらってもいるし。」
「そんなこと、思ってくれてたの?」
「そんな失礼な奴だと思ってたわけ?」
「そうじゃなくて。」
「じゃ、どうなの?」
「どうって。」
「はっきり言いなよ。」
だめだ、考えてたらだめだ。
「光は、たまにすごく優しい。」
光が、大笑いした。「たまにかよ。」と。
「ドビュッシーの月の光、かけて。」
フローリングに仰向けになった光は、目を閉じて月の光を聞いていた。
夜の空を泳いでいる。高く、低く。ゆっくりと、時に速く。そんな世界が頭の中に広がる。優しく、切なく、そして少し甘いピアノの旋律が心を穏やかにしてくれる。
私の一番好きな曲。
CDが終わった。
光は寝てしまったようだ。
どうしよう。このまま朝まで寝てる?起こした方がいい?
でも、起こして機嫌悪くなったら嫌だし、寝かしておいてあげよう。
光の寝顔を見た。整った顔立ち。モテるだろうな。彼女、いるんだろうな。
リピート機能にして、ドビュッシーをもう一度、かけ直した。
もう12時を回った。
私も少し眠たくなってきた。
どうしょうか、と考えながら光に、タオルケットをそっと掛けていたら、急に手首を引っ張られた。バランスを崩して光の上に被さってしまった。
起きようとしたら、光が、両手を背中に回してくる。
どうしたらいいのかわからない私に、そのまま、と光が言う。
心臓がバクバクしている。破裂しそう。
重なっている光にも伝わりそうだ。
光が私を両手で抱きしめながら、体を横に向ける。
顔を上げると、光の顔がすぐそばにある。慌てうつむく。
光がさらにきつく抱きしめる。
なんなの、これ?友達にこんなことしないのは、私にだってわかる。ということは、光は私のことが好きってこと?
そんなこと一言も言ってないどころか、片鱗すらなかった。
「光?」
「何?」
光の息で耳元が熱い。
どうしてこんなかとするの?私のこと好きなの?
聞こうとしたけど、やめた。
悲しい答えは、聞きたくなかった。
「いい、なんでもない。」
「言えよ。」
一瞬、悩んだ。
「耳が熱い。」
「好きって言うのかと思った。」
考えてもしなかった言葉に、思わず光の顔を見た。
そうかも知れない。いつの間にか、光ともっと一緒にいたいと思っていた。
光が好きになっていたんだ。
光の顔が近づく。
これって、キス?
初めてのキス。
ゆっくり、目を閉じた。