華絵 1
ー華絵 1ー
午前3時。
「いらっしゃいませ。」
深夜営業の 国道沿いのラーメン屋、麺次郎にお客さんが入って来る。
窓際の一番奥のテーブル席に着く。
お水を持って行き、注文を聞く。味噌チャーシューメン。
10分でラーメンを食べ終え、腕を組み頭を下げた体勢で20分間身動きせずに座る。そしてきっちり30分後に店を出る。
2か月前から、月曜と木曜に繰り返されている風景。
私、佐野華絵のバイト深夜シフトの日に必ずこの人は来店する。
今、大学4年生。3年まで真面目に単位を取っていたので、4年になってからは、学校に行くことも少なかった。
卒業旅行でちょっと豪勢に海外に行く予定を友達と立てた。
その資金を貯めるため、4月から、昼間のシフトに深夜シフトをプラスしたのだ。
深夜シフトは夜の10時から朝の5時まで。
立ち仕事で大変だけど、何といっても、時給が魅力だった。
昼間のバイト代は生活費に、深夜のバイト代は卒業旅行に当てられる。
それに、さすがに平日の深夜にラーメンを食べに来る人は少なく、仕事自体は結構ヒマだった。
2か月前に、初めてその人が来た時には、かっこいい人だなと思った。
細い脚に超スリムのダメージジーンズ、ショート丈の黒のジャケット。ゆるいウエーブのかかった耳が隠れるくらいの長めの髪。切れ長の目と高い鼻。
だけど、お水を持って行った時、チラッとこっちを見た目つきが、強烈だった。
クール、という言葉はこの人ためにある、と思ってしまった。炎すら凍らしてしまうほどの冷たい眼差し。
かっこいいの第一印象は、一瞬で、怖い人に変わってしまった。
月曜日。
この日も、いつもと寸分変わらない流れて味噌チャーシューメンを食べていたけど、後半が、大きく変わっていた。
いつもは20分だけ腕を組みうつむいているのが、今日は20分経ってもそのままなのだ。
目を閉じているようだが、寝ているかどうかは判断がつかない。
1時間経っても2時間近く経っても、全く動かない。
私のバイト上がりの時間だったので、 もう1人のバイトの木村さんに、どうしますかと聞いたら、ヒマだからそのままにしといてあげよう、と言う。
深夜のお客さんには、店内で眠ってしまう人も珍しくない。
他のお客さんに迷惑がかからない限りは、起こさないようにしているのだ。
スタッフルームで、私服に着替え、
「お疲れ様でした。」と声をかけた時、客席を片付けていた木村さんが、
「携帯。」と声を上げた。
「 いつもの男の子、携帯忘れてる。さっきの出たとこだから、華絵ちゃん、届けてあげて。」
私に携帯電話を手渡し、出て右に行ったから、と言う木村さんの声を背中で聞きながら、走り出した。
6月の午前5時は、もう明るくなっている。
100mくらい先を黒い服の人が歩いている。
ダッシュで近くまで走って行き、
「すみません。」とかなり大きな声を出したけど、振り返らない。
もう一度のダッシュで、すぐ後ろまで近づけた。
「あのー。」と叫ぶ。やっと、振り返ってくれた。
日頃の運動不足のせいだ。
携帯を忘れてます、と言おうとしたけど、息が上がって、うまく喋れない。
「何?」
初めて声を聞いた。少し高めの透き通った声だった。
「誰?」訝しげに聞かれた。
ハアハアと息をしながら、携帯、と一言。
「携帯?」
「お店で、忘れて。」
ポケットを探っている。
「ラーメン屋の人?」
「はい。」
「私服だから、わからなかった。」
「じゃ、これ。」と携帯電話を渡し、帰ろうと歩き出した時、
「バイト、終わり?」と聞かれた。返事をしよう思った時
「コーヒー、飲みたいんだけど。」と言う。
何を言ってるのか、理解できなかった。
「はぁ?」間抜けな声が、勝手に口から出てしまった。
「だから、コーヒー。」声に棘があるように聞こえる。
この人、何を言ってるの?
携帯電話を届けて、なんできつく言われなきゃいけないの?お礼の一言もないし、あの失礼な口の利き方。
少し怒りを込めて「失礼します。」と歩き出した時、不意に、手首を掴まれた。
「だから、お礼に、コーヒーおごるよ。」
「はぁ?」2回目の間抜けな声が、無意識に出てしまった。
そのまま、手首をひっぱられ、少し離れた24時間営業のハンバーガーショップに連れて行かれた。
途中で大声を出すことも考えた。
だけど、この人は、店のお客さんだ。それも常連さんと言えるだろう。
もし、警察沙汰なんかになれば、それこそ面倒だ。
何?この人、絶対ヘン。
わたしの第三印象だった。
その人は、私に何も聞かず、ホットコーヒーを2つ注文する。
コーヒーのカップを両手に持ち、勝手に歩き出し、窓際の席に座る。
「ん」と顎を上げる。飲め、って言ってるんだろうか。
ここまで来て、逃げるわけにもいかず、
「すみません、いただきます。」と言ったけど、 はっきり言って、ホットコーヒーは飲みたくなかった。
仕事終わりだ。喉が渇いている。冷たい飲み物を喉の奥に流し込みたい気分なのだ。
だけど、そんなこと絶対言えない。
無愛想だし、機嫌が超悪そうだし、何か言ったらまた怒られそうだった。
熱々のコーヒーを少しずつ飲む。
疲れてるし、眠たい。
早く飲んで帰りたいけど、残念ながら、極度の猫舌。飲み終えるには、かなりの時間がかかりそうだった。
「佐野。」
急に、名前を呼ばれた。なんで知ってるのだろう。
もしかして、ストーカー?やっぱり警察呼んだ方がよかった?一瞬、身構えた。
「なんで、名前。」
「お前、バカ?」
バカ?私、バカって言われた?知らない人にバカって?
「佐野、何?」
何って何?もう頭の中がパニックだ。
「何?」
「だから、佐野何?」
「もしかして、名前?」
「ネームプレート付けてんじゃん。苗字しか書いてないし。」
意外。ネームプレートを見てたなんて。
「佐野、華絵。」
「カエ?」
「華やかな絵画の絵。」
「カエルか。」
「はぁ?カエル?」
「あだ名、カエルじゃなかった?」
「そんなあだ名で呼ばれたことないです。」
「かわいいじゃん、カエル。」
反論はしない。何を言われるかわかったもんじゃない。
この場だけ我慢だ。カエルでもヘビなんでもいい。
「カエル、いくつ?」
「年、ですか?」
「他にある?」
「21歳。」
「なんだ、もっと年下だと思ってた。」
笑った。この人、笑うんだ。
眼光の鋭い目が、一瞬にして優しい目になった。
ほんの少しだけ、心がほぐれた。
「いくつなんですか?」
「22。」
と言うことは、10代にでも見えたのかな。
深夜のバイトの時は、ほとんど化粧もしてないから若く見えてもしょうがない。
童顔と幼児体形は、私のコンプレックスの中の割合をかなり占めている。
「学生?」
「4年。」
長い沈黙の後、
「ふぅん。 帰るわ。」
自分のカップだけ持ち、急に立ち上がり、歩き出した。
私も急いで、後をついて行く。
なんなの、突然過ぎる。
ゴミ箱にカップを入れ、外に出た。
コーヒーはもったいないことしてしまったな。
「どっち?」
「こっちです。」と今来た道を指す。
「一緒。」
2人で、歩き出した。
「自転車。」不意に、思い出した。
「何?」
「お店に自転車、忘れちゃった。取りに帰ります。」と言うと
「じゃ。」と一言を残し、ひとりでスタスタと歩いて行った。
何なんだ、あの人は。わけわかんないよ。
携帯で時間を見る。もう6時だ。
一体、この1時間は、なんだったんだろう。
木曜日。正確には、金曜日の午前3時。
あの人が、来た。
いつものように、お水を持っていく。
チラッとこっちを見る。スルー。
味噌チャーシューメンを持って行く。やっぱりスルー。
30分後、お店を出て行った。
全身の力が抜けた。
何か言われるんじゃないかと、30分間、ビクビクし通しだった。
すぐにキレたり、上から目線の攻撃的な人は苦手だった。
できれば、ああいうのは人種とは、関わりたくなかった。
月曜日、判を押したように、あの人はまたやって来た。
無事にスルーを続けていたけど、最後にまた、動かなくなった。
お水を入れに行った時にそっと見たけど、目を閉じていて、考え事をしているようにも見える。
時折、携帯をいじっているけど、態勢は一切、変わらない。
午前5時、あの人が、出て行った。
木村さんの「もう上がって。」の声に、テーブルだけ片付けます、と返事し、片付けを始めた。
座席を見る。床を見る。大丈夫、今日は携帯電話を忘れていない。ほっと胸をなでおろす。
「お先に失礼します。」スタッフの出入口から外に出る。
大きな伸びをして、自転車にまたがる。
朝の匂いのする風を感じながら走っていると、カエル、声がした。
辺りを見回すと、交差点の角に、あの人が立っていた。
何してるのだろう。
無視という言葉が頭に浮かんだけど、それはあまりにも失礼だ。
自転車を降り、おはようございます、と挨拶をした。
「コーヒー、飲みたい。」
また、コーヒー?この人の考えてることが全く理解できない。
「コーヒー、ですか?」
「行こう。」
自転車のハンドルを取りあげ、「ん」と顎で後ろの荷台を指す。
強引過ぎて、半ばあきらめ状態だ。
この前のハンバーガーショップに2人乗りで向かった。
「光。」
「えっ?」
「名前、言ってなかった。」
「光さん?」
「光でいい。」
「呼び捨ては、ちょっと。」
「いいって言ってんだろ。」
また、責められた。なんで、さん付けしただけでこうなるの?
もう絶対、反論しない。
ハンバーガーショップに着いた。
「今日は、私が出します。」
先にカウンターに行く。
「コーヒー、ホットでいいですか?」
「うん。」
ホットコーヒーとアイスミルクティーを注文する。やった。今日は熱いのを飲まなくていい。
でも、なんでまた、ここに私はいるのだろうか。
コーヒーを渡すと、ありがとうと言ってくれた。
「どうして、あそこにいたんですか?」
一番聞きたかったことを、勇気を振り絞って聞いてみた。
「コーヒー、飲みたかったから。」
「私と、ですか?」
「他に誰かいた?」
「そうじゃなくて。」
「朝のコーヒー、ひとりで飲むの寂しいじゃん。」
「コーヒー、好きなんですね。」
「敬語、やめて。」
「だって、年上だし、知らない人だし。」
しまった、つい反論してしまった。また、キレられる?
「知らない人って、なんだよ。」
そこ?
「2ヶ月前から、カエルのこと知ってる。」
「それは、そうだけど。そういう意味の知ってるじゃなくて。」
「わかった。もういい。」
黙り込んでしまった。子供じゃないんだから。
求めている答えが、わからない。
「わかりました。呼び捨てにするし、敬語も使わない。これでいいですか?」
黙ったまま、こっちを見続ける。
「光。」
「よし、いい子だ。」笑顔になった。
そして、いきなり頭を撫でられた。
早くもスキンシップ?
女子校一筋の私には、刺激が強すぎる。絶対顔が赤くなっている。
「どうした?」
「別に。」
「なんだよ。」
なんでもいい。頭を撫でられて恥ずかしがっていることがバレない内に、何か話を繋げないと。
「学生ですか?」
「4年。でも、留年中。」
「学科は?」
「役にも立たない、クソ学科。」
「はぁ。」
「カエルは?」
「食物系の。」
「ふうん。」
なんか話が進まない。
男の人と2人で話すことなんて滅多にないから、私もうまく話せない。けど、光も話が苦手なのかもしれない。なぜか、そう思った。
「なあ、」
「ねえ、」
声が重なった。
「何?」
「何?」
また、重なる。
2人で顔を見合わせ、笑い出した。
ギャップが大きい分、笑顔がとっても優しそうに見える。
「カエルは、彼氏いるの?」
「えっ?」
「彼氏。」
「あの、言わなきゃダメですか?」
高校1年の時、告白されてなんとなく付き合って、半年でなんとなく別れた男の子がひとりいるだけだった。
6年間、彼氏がいないなんて、モテない女みたいに思われたくない。
誰に聞かれても、内緒、で通している。
「なんで、言わないんだよ。」
もしかして、また怒らせた?
「何もったいつけてんだよ。」
「だって、言いたくないから。」
「なんでだよ。」
「恥ずかしいから。」
「21年間、彼氏なし?」
「違う。いた。」
「いつ?」
「高校1年の時。」
「ふうん。」
誘導尋問に引っかかったみたい。
「男は見る目ないね。かわいいのに。」
「えっ?」
「冗談だよ。」
完全に遊ばれてる。この人をどう扱えばいいのか、男性経験の少ない私には、全くわからなかった。
人見知りでは、ないと思う。飲食店での接客のバイトが嫌だったことはない。
男の人が苦手、と言うわけでもない。
男友達はいないけど、同じバイト仲間となら、緊張する事もないし、普通に会話はできている。
ただ、男の人と、2人でいるとこに慣れていないだけだ。
「行こう。」
光が席を立ち、出口へと向かう。後を追いかける。
光が当然のように自転車に乗り、また顎で後ろを指示する。
「どこ?」
「真っ直ぐ。」
一人暮らしだから、家は知られたくなかった。どこか途中で降りようと思ったけど、自転車は私のだ。
光の家が、私の家より近くでありますように、と願った。
学生の多いこの町には、ワンルームのマンションやハイツがたくさん建っている。
実家は、隣の県だけど、片道2時間弱の通学時間は、勉強のためには無駄だった。
最初の1年間は我慢したけど、2年になっときに、生活費は自分で稼ぐから、と親をどうにか説得して、一人暮らしを始めた。
私のハイツが見えてきた。すると、光が俺ん家あそこ、指さしたのは、私のハイツの隣のハイツだった。
私のハイツの方が手前にある。
もっと遠くです、と、うそをつくことも考えだけど、ばったり鉢合わせすることもないとは言えない。
そうなった時のことは、家を知られるより恐ろしく感じた。
手前のハイツ。素直に告げた。
「隣?」
「そうみたい。」
「2階?」
「そう。」
「端?」
「そう。」
また、誘導尋問に引っかかってしまった。
光は?と聞いたら、あそこ、と2階の端部屋を指さした。
「隣の部屋じゃん。」
「だよね。」少し、放心状態。
「緑のカーテン、掛かってるよな。」
「そう、だね、」
「なんか、嫌そうだな。」
「違う。びっくり、して。」
「まあな。 じゃ。」
光が自分のハイツに入って行った。
私も、放心状態のまま、部屋に戻った。
このハイツは、女性専用ではないけど、1階は男性、2階は女性と決まっているから安心ですよ、と不動産屋さんが言っていた。
でも、隣のハイツの2階の話までは聞いていかなった。
2年間、手が届きそうな隣に男性が住んでいたなんて。
こんなところに、落とし穴があったとは。
不覚だった。
家に帰ると、もう7時になっていた。
いろんなことがあったけど、今は、なにも考えないで、寝よう。もう、疲れた。