事件(七)
空き教室へと向かう集団から抜け出すと、海老原美由紀は校門に向かって駆け出した。
稽古を終えた直後の海老原は、ジャージ姿のままだった。
着替えて、家に帰って、夕食を食べて、駅に向かう――などと悠長なことをやっていては、塾の授業に間に合わない。
ジャージ下校は禁止なのは美由紀も承知している。
教師に見つかれば大目玉を喰らうのだろうが、見つからなければ問題ない。
幸いなことに周囲はすっかり暗くなっていた。
最終下校時刻をとっくに過ぎているため、学校内に生徒達の姿は無い。
見とがめる教師の姿が無い事を確認しつつ、海老原は夜の学校を駆けてゆく。
塾に通っているのは西崎だけでは無い。
海老原もまた電車で二駅先にある全国規模の大手学習塾に通っていた。
合唱部部長を務めていた美由紀は、他の生徒よりも受験勉強に遅れをとっている。
二学期に入って部活を引退した今、本格的に学業に専念しなければならない。
特に今回は、週末に行われる定期テストの対策を発表する日であった。
高い授業料を無駄にしないためにも、急いで塾に向かわねばならない。
学校指定のジャージのままで電車に乗るのは勇気がいるが、どうでもいい。
やがて、美由紀は実習棟の脇に差し掛かった。
本校舎と実習棟の間を抜けると、裏庭に出る。
職員用駐車場のある裏庭を抜けるこのルートは、校門へと至る最短距離なのだが、生徒達は原則立ち入り禁止になっている。
駐車場を利用して野外ライブを強行した軽音部員たちの代わりに、委員長が校長にこっぴどく叱られていたのは記憶に新しい。
二つの校舎が形作る谷底に差し掛かった時、美由紀は前方に横たわる人影を見つけた。
「……え?」
暗闇の中、校舎の明かりに照らされたその人影を見つけることが出来たのは、ある意味奇跡であったのかもしれない。
うつぶせに横たわる人影は、制服姿の女子生徒だった。
そしてその周囲は、夥しい量の血液で真っ赤に染まっていた。
「……っき」
大きく息を吸いこみ、冷えきった夜気を肺に満たすと。
悲鳴と共に、一気に吐き出した。
「きゃあああああああああああああっ!!」
合唱部の訓練によって培われた発声法は、この非常事態においても如何なく発揮された。
○
夜の校舎に響き渡る悲鳴を耳にした三年A組の生徒たちは、一斉に足を止める。
「何だ今の?」
「海老原じゃねぇか? あの声」
「あのでかい声は、間違いないな」
その悲鳴の主がだれであるかはすぐに気が付いた。
これだけの声量の持ち主は、合唱部部長の海老原美由紀を置いて他に無い。
「どっからだ?」
「中庭の方だ!」
「いくぞ、みんな!」
クラスメイトの悲鳴に、A組の生徒達は即座に反応した。
一行になり止むことのない悲鳴のお蔭で、彼女の居場所はすぐにわかった。
校舎内に反響する悲鳴を頼りに、三年A組の生徒達は声のする方向――裏庭に向かって走りつづける。
階段を一気に駆け降り、静まり返った廊下を駆け抜け、外へつながる防火扉を跳ね除け――生徒達はようやく裏庭にたどり着いた。
「……いやぁあああああああああああああっ!!」
「落ち着け、海老原! とにかく落ち着け!!」
中庭に駆け付けた生徒達が見たのは、半狂乱で絶叫する海老原美由紀と、それを取り押さえようとする前田教諭の姿だった。
もみ合う二人の足元には、うつぶせに横たわる女生徒の姿があった。
血の海に沈んだ少女の姿に、駆けつけた生徒達も悲鳴を上げる。
「なんだあれ?」
「人が倒れている、血まみれだ!」
「いやだ、ウソ! 怪我してるの?」
何人かの生徒が側に駆け寄ろうとすると、前田が引き止める。
「来るんじゃない!! 向こうへ行け!」
海老原を押さえつけつつ、前田教諭は駆け寄る生徒達の前に立ちはだかる。
いつもは従順なA組の生徒達も、今回ばかりはそうはいかなかった。
体育教師を押しのけ、横たわる人影に詰め寄った。
「おい! これ、加納じゃないのか?」
「ほんとだ! 加納だよ!」
「うそ! やだ、瑞樹、何でこんな所に? どうして?」
うつぶせに倒れた女生徒の顔を覗き込み、ようやく身元に気がついた。
横たわるクラスメイトの姿に悲鳴を上げると、騒ぎを聞きつけた養護教諭の佐久間がやってきた。
「何の騒ぎですか! あなた達!!」
「佐久間先生、良い所に! これを……」
生徒達をおさえながら、前田は足元に横たわる女生徒に目くばせする。
「加納さん!? なんてこと……」
口に手を当て立ちすくむ佐久間を、体育教師は一喝する。
「すぐに警察を! それと、生徒達をこの場から遠ざけてください!」
「わかりました。さあ、あなた達! 離れなさい!」
前田から海老原の身柄を受け取ると、佐久間は三年A組の生徒達を追い立てるようにその場を離れた。
○
警察が到着したのは、通報から十分ほど経過してからであった。
事件現場に隣接した裏庭の職員用駐車場に、次々と警察車両が到着する。
冬空を照らす回転灯の瞬きは幻想的で、いっそ美しいとさえ思えた。
事件現場は、警察官たちの手により封鎖された。
テープで仕切られた向こう側では、制服警官たちが忙しなく行き来しているのが見える。
その中に、明らかに警察関係者に見えない白髪の男性がいた。
日野原中学校長、江副隆弘である。
おそらく、事情聴取を受けているのだろう。
真剣な様子で、捜査主任と思しき警官と話していた。
「あんたたち、何してんの!?」
寒空の下、事件現場を遠巻きに眺める生徒達のもとに、
やがて、担任の青木教諭がやってきた。
「あれ? 青木先生、いたんですか?」
青木の姿に、委員長の智也は驚愕する。
「何驚いてんのよ、委員長――それより、こんな所に居たら邪魔でしょう?とりあえず、教室に戻りなさい」
言われて、三年A組の生徒達は教室へと向かった。
その道すがら、
青ざめた表情で、西崎が呟く。
「……どうなってんだよ、これ?」
「さあな。唯一つだけ確かなことがある」
その隣で、同じく青い顔をした内海が呟いた。
「俺達、まだ当分は帰れないぞ」