事件(三)
三年A組の生徒達は、すぐに稽古の準備に取り掛かった。
準備と言っても、学校指定のジャージに着替えるだけだ。
男子たちは教室で、女子達は別の空き教室で着替えに取り掛かる。
毎度の事ではあるが、女子だけに着替え用の教室が用意されていることに不公平感を感じずにいられなかったが、文句を言っても始まらない。
「話が違うじゃねぇかよ委員長!」
「稽古はやらないって言っていたじゃないかよ!」
「騙しやがったな! この裏切り者!!」
教室に残った男子たちは、裏切り者の智也を一斉に糾弾した。
「そんなこと言われたって知らないよ!」
制服を脱ぎながら智也は言い返す。
言い争いしながらも、着替える手を休めることは無い。
稽古まで、時間が無い。
体育教師の前田を待たせるようなことにでもなれば、どんな制裁が待っているかわかったものではない。
生徒達はいそいそと、ジャージに着替えてゆく。
「僕だって被害者なんだ! くっそ、騙された! あんの嫁き遅れ! 始めっから稽古させるつもりだったんだ!」
「何度目だよ! あのクソババァに騙されるのは」
「あの三十路、悪知恵だけは回りやがるからな」
「毎回毎回、あの大年増に騙されて! いい加減、学習しろよ!」
「だれか貰ってやれよ、あの行かず後家!」
「だったら、お前があの売れ残りの相手してやれよ」
彼らの怒りは担任教師へと飛び火した。
『嫁き遅れ』『三十路』『クソババア』『大年増』『行かず後家』『売れ残り』――本人の前では決して口にできない罵詈雑言を浴びせかける。
「……大体、なんで今の時期になって予定を入れるんだよ。非常識な」
ジャージに袖を通しながら、智也はそれでも愚痴を言う事はやめなかった。
「もうすぐ受験なんだぞ? 進路指導担当だったら、受験に集中できるように配慮すべきじゃないのか? それなのになんで……」
「そりゃお前、クリスマスを一人で過ごしたくなかったんだろうよ」
「なんだよ、エロス? どういう意味だ?」
江口恭平――通称、エロスは、その仇名通り、クラス一の女好きだ。
女性の守護者を自任する彼は、訳知り顔で女心について講釈を始めた。
「女にとってクリスマスは特別なイベントだからな。あの人、今年で三十だろ? この間もお見合いパーティー失敗したらしいし」
「だから、せめてもの腹いせに、俺達を道連れに?」
「一人で過ごすクリスマスはみじめだぞ。いや、知らないけど」
「教師のやる事じゃねぇだろ……」
「文句言ってもしょうがねぇよ。結婚をあきらめた女にゃ逆らえないって」
そんな事を話しながら着替えをしていると、やがて職員室から内海が戻ってきた。
「行って来たぜ。委員長」
「ああ。ご苦労さん。マエセン、何だって?」
「……なんか、すんげぇやる気になっていた」
「……そうか」
憂鬱な表情で答える内海に、やはり憂鬱な表情で答える智也。
マエセンこと前田教諭のやる気は必ず空回りする。
そして、そのしわ寄せはすべて生徒達に降りかかるのだ。
「それで、みんな稽古に参加できるのか?」
「いや。一人、欠席だ」
「誰だよ?」
「西崎」
答えると、智也は教室の一角を振り向いた。
他の男子がいそいそとジャージに着替える中、一人だけ制服姿のままカバンの中に教科書を詰め込み、帰り支度を始めている生徒の姿があった。
「どうしても外せない用事があるんだってさ。まあ、突然の事だったし、しょうがないだろう」
「そういう訳にはいかないだろう? おい、西崎! 西崎」
詰め寄る内海に、制服姿の西崎は煩わしそうな顔を向けた。
「なんだよ、内海」
「西崎、てめぇコラ! 一人だけバックレるつもりか?」
「今日ははずせない用事があるんだ。次からはちゃんと出るよ」
「初日からバックレって、マエセン黙っちゃいねぇぞ」
「塾があるんだよ。今日は今度のテストの出題範囲をやるから、休めないんだよ!」
「塾があるのはお前だけじゃねぇよ。委員長や稲田。海老原さんも塾通いだろうが」
「……でも」
「忙しいのは誰もが同じだ。みんな、無理して出て来ているんだ。お前だけサボりが許されると思っているのか?」
「だって、本番前の最後のテストなんだぞ? どれだけ重要か、お前だってわかるだろう?」
「あーわかったよ! いいよいいよ。行けよ、塾でもなんでも好きなところに。そんかしお前、わかってんだろうな? 内申がどうなってもしらねぇぞ」
内申書を持ち出した途端、西崎の顔が青ざめた。
「そんな、一日休んだだけで……」
「初日から真面目に出ていたやつと、同等に扱ってもらえると思ってるのか? テストの成績が良くたって、内申が悪けりゃ、受験すらできねぇんだぞ? いいのか、推薦取り消しになっても?」
「……わかったよ」
恨めしそうに内海を睨み付けると、西崎は帰り支度を取り止め、バッグの中からジャージを取り出した。
憤然とした様子で着替えを始める西崎に背を向けて、体育係は智也の元へと戻ってくる。
「やりすぎだぞ、内海。内申書で脅すなんて……」
「仕方ねぇだろ。全員揃ってないとマエセン、ヘソ曲げるからな。……で、他に不参加のやつはいるのか?」
「女子では、加納さんが欠席するって」
「理由は?」
「……二日目だって」
「……またか」
自分の言葉に赤面する智也に、内海は嘆息する。
「あいつこの間も体育の授業、見学していたよな?」
「うん」
「そん時の言い訳も『二日目』だったよな?」
「ああ」
「あいつは月に何回、生理があるんだよ!」
「そんなの知らないよ」
激昂する内海に、憮然とした表情で智也は答える。
「今日も一日、朝から保健室登校だよ。授業にも出て来ない」
「ここんとこ毎日じゃねぇか。推薦決まってからずっとだな」
「文句があるなら直接本人に言ってくれよ。お前、体育係だろう?」
「それができるなら苦労しねぇよ!」
加納瑞樹が生理を理由に、授業を休むのはいつもの事であった。
仮病であることは誰の目にも明らかなのだが、『二日目』を持ち出されると、男の立場としては指摘することはどうしても躊躇われる。
「どうすんだよ。加納がいねぇと稽古にならねぇぞ。あいつ、センターなんだから。西崎じゃないけど、真面目に出て来ている他の皆にも示しがつかないし……」
「とりあえず、近藤さんに様子を見に行くように頼んでおいたよ。見学だけでもいいから、屋上に顔を出すようにって、伝言を頼んでおいた」
「屋上って、実習棟の?」
「ああ。あそこでやるんだろ?」
「いいや。予定変更になった。今日の稽古は体育館でやるそうだ」
「あ、そうなの?」
「バスケ部の練習がないから、コートの半分が使えるんだってよ」
面倒くさそうにわかった、と答えると、内海は教室に居る皆に告げた。
「今日の稽古は体育館でやるから! 着替えが終ったら体育館に集合な!」
「へぇ? そりゃラッキー!」
軽薄な口調で答えたのは、軽音部部長の本多宏斗であった。
「クソ寒い中、外で稽古なんかしたくないもんな。でもなんで体育館なんだ?」
「実習棟の屋上は使用禁止なんだよ。……どっかのバカがゲリラライブやったせいでな!」
「……へ?」