迷走(一)
室井悠里の自宅は、公園を挟んだ向こう側の新興住宅地にある。
丘の上にある公園を縦断する帰宅ルートは、最短時間で家に着くことができる反面、長い階段を上り下りしなければならない。
三年A組を対象とした聞取り調査は、予定時刻を大幅に過ぎてからようやく終了した。
全ての聞き取り調査が終わった時、時刻は既に五時を回っていた。
日没の時刻が早くなる今の季節、周囲は既に暗くなっていた。
公園の小路を歩き、室井は家路を急ぐ。
図書委委員を務める彼女は読書好きであった。
感受性豊かな少女は、想像力も豊かである。
夜の公園は暗く、不気味だ。
公園の木々や枯葉のこすれる音すら、恐ろしげに見える。
妄想の作り出すお化けに怯えながら、室井は公園の小路を歩いてゆく。
しかし、公園で室井悠里を待ち構えていたのは、お化けよりも恐ろしい人間であった。
「ちょっといいかな?」
「…………!」
突如、背後から声をかけられた。
恐る恐る振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
「どうも、週刊文鳥です」
「……え、えっ?」
「君、三年A組の生徒だよね? ちょっと、お話聞きたいんだけど、いいかな?」
週刊誌の記者を名乗るその男は、なれなれしく話しかけて来た。
踵を返すと、室井は逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
「……違います」
「ちょいちょい、ちょっと待てよ! 君、三年A組の室井悠里さんでしょう?」
咄嗟についた嘘は、すぐにバレた。
三年A組の生徒全員の顔と名前は、ネットを通じて既に世界中に配信されている。
室井が公園を通ることを予測して、一人になる機会を待ち構えていたのだろう。
足早に立ち去ろうとする室井を,記者は追いかけて来た。
「今日、学校で聞き取り調査が行われたんでしょう? どんな質問をされたのかな?」
レポーターの狙いは、聞き取り調査の内容だった。
聞き取り調査の結果は、今や日本中が注目している話題である。
なんとしても情報を引き出そうと、記者はしつこく食い下がる。
「お答えできません」
「答えられないって言う事はさ、学校から口止めされているってことだよね?」
「…………」
「口止めするって言うことは、後ろ暗い所があるからだよね? ねえ、ねえってば!!」
「…………」
「無視しないでよ!」
無視し続ける室井に、記者は細い腕を掴んで強引に引き止めた。
「い、いやぁぁぁぁぁぁっ!」
いきなり腕を掴まれ、室井悠里は悲鳴を上げる。
夜の公園に、少女の金切り声が響き渡る。
「うわっ!」
思いがけないほどの大きさの悲鳴に、ひるんだ一瞬の隙を突いて、
記者の手を振り払うと、室井は駆け出した。
「おい、ちょっと待ってよ!」
「いやっ! こないで!」
追いかけてくる記者を無視して、室井は走る。
文学少女の室井は体力がある方ではない。
それでも必死で両足を動かし、公園を駆け抜けていった。
高台にある公園を出ると、その先にあるのは下りの階段である。
住宅地へとつながる長い階段は、急であり、また辺りは暗かった。
「あっ!」
足を踏み外した、と思った時には既に手遅れであった。
短い悲鳴と共に少女の体は宙に舞い上がる。
「あああああああああああああっ!」
悲鳴をたなびかせながら、少女の体はそのまま階段を転げ落ちてゆく。
石段のそこかしこに体を打ち付け、階段の下まで落ちた所でようやく少女の体は停止した。
○
その後、近所の住民の通報により室井悠里は日野原市内にある総合病院に収容された。
病院からの通報を受け、日野原中学に待機していた林田弁護士はすぐさま病院へとむかった。
駆け付けた林田の見たものは、病院の前でたむろするマスコミたちの姿であった。
先日の記者会見から始まった報道合戦は、今がピークを迎えていた。
マスコミたちは負傷した室井悠里に取材をしようと、病院に押し入ろうとしていた。
記者たちの後ろには、警察のパトカーが待機している。
林田同様、病院からの通報を受けて駆けつけて来たのだろう。
制服姿の警官たちは、マスコミたちの姿を遠巻きに眺めつつ、介入の機会を狙っていた。
このままでは、病院の前でマスコミと警官隊が衝突することになりかねない。
殺気だったマスコミたちを宥める為に、林田は病院の前で臨時の記者会見を開くことにした。
すでに辺りは暗くなっていた。
テレビ局の用意した照明の前で、林田は記者に向かって語りかける。
「今回の室井悠里さんに対する行き過ぎた取材行為に、日野原中学関係者は激しい怒りを感じております」
その言葉通り、林田の口調は憤りに満ちていた。
今まで、林田はマスコミに対して協調路線を取って来た。
事件を穏便に解決するには、マスコミを味方につけることが不可欠だと思っていたからだ。
だからこそ、記者会見を開いて情報開示に応じて来た。
しかし、怪我人が出た以上、もはや穏便な解決策は取ることはできない。
「事件の発端となった記者、および週刊文鳥には抗議すると同時、誠意ある謝罪を求めます。また、マスコミ関係各社の方々には今後、節度ある態度で報道していただけることを希望します」
林田は強い調子で、記者たちに向かって呼びかける。
「同様の事故を未然に防ぐため、今後は日野原中学の生徒への直接取材は一切禁止とさせていただきます。違反した場合、然るべき法的措置を取ります。さらに、今後当方が開く記者会見に出席することが出来なくなることを了承していただきます」
強硬策を打ち出した林田に、報道陣から一斉に不満の声が上がる。
「ちょっと待ってください、林田先生!」「これって、言論弾圧じゃないんですか?」「報道の自由はどうなるんだよ!?」
次々と不満を口にする報道陣に、林田は一切耳を貸さず、会見を打ち切った。
「マスコミ関係者の皆さまには、どうかご理解いただけますように――それでは、会見を終了いたします」
次々と不満を口にする報道陣に背を向けて、林田は逃げるように病院の中に入った。
林田の後を追い病院の中へと乗り込もうと押し寄せる報道陣を、背後で待機していた警官隊が取り押さえる。
騒然となった玄関前を後にして、林田は室井悠里の元へと向かった。
「林田先生ですね?」
病室へと向かう途中、背後からの声に林田は足を止める。
振り向くとそこに、二人の男が居た。
「お忙しい中、失礼します。警察の者です」
「……警察?」
「酒井警部補です。こっちは野本巡査部長」
「野本です」
酒井と名乗った男は、中年の小男だった。
年齢相応に肉のついた小太りの体型に、丸顔が乗っかっている。
相棒の野本はそれよりも随分と若い。
おそらくは新米なのだろう、酒井よりも背が高く、やせ型の男だった。
二人とも私服姿あることから、刑事のようだ。
抜け目なく二人の刑事を観察する林田に、人懐っこい笑みを浮かべた酒井が話しかける。
「林田先生のお噂はかえてから聞き及んでおりますよ。いやあ、こんな有名人にお会いできるなんて光栄ですわ」
「……はあ」
見え透いたお世辞を言う酒井刑事に、林田は警戒心を抱いた。
大体において、警察官は被疑者を庇護する立場にある弁護士の事を快く思わないものだ。
ましてや、林田は悪徳弁護士と呼ばれ、世間での評判はすこぶる悪い。
警察官がこんな風になれなれしく話しかけてくるのは、必ず何か下心がある時だ。
「早速ですが、室井さんに面会できますかな?」
疑惑の眼差しを向ける林田にかまわず、酒井刑事は用件を切り出した。
「事件の前後の状況を詳しく知りたいので、室井さんに直接、事情を……」
「お断りします」
「……え?」
断られるとは思わなかったのだろう、酒井刑事のつくり笑いが凍り付く。
「室井さんとの接触は、厳禁させていただきます。質問ならば、私が代わりに承ります」
「ちょっとまってください、林田先生……」
酒井刑事を遮るように、林田は言った。
「表のパトカー」
「え?」
「あれは県警のパトカーでした。つまり、お二人は県警の所属ですね」
「ええ、それが何か?」
「日野原市内の事件ならば地元の日野原警察署が担当するはずです。女子中学生が階段から転げ落ちたくらいで、県警が駆けつけて来るなんておかしいじゃないですか」
「それは……」
「あなた方の狙いは、加納瑞樹さん転落死事件の再捜査ではありませんか?」
「…………」
「警察は加納瑞樹さん転落死事件を事故死と断定した。最初に事故死と断定した手前、後から新事実が発覚するようなことにでもなれば、警察の名誉が失墜することになる県警の人間が派遣されたのは、事態の進展を監視するためだ。違いますか?」
「……さすが遣り手の弁護士先生だ。なんでも御見通しってわけだ」
苦笑しつつ、中年刑事は頭をなでた。
「それならそれで話が早い。お察しのとおり、私たちの狙いは転落死事件の再捜査です。でも、あなたは一つ、誤解している。正直に申し上げますと、加納瑞樹の転落死、そのものについては、我々は興味がありません。わたし達の狙いは父親の方です」
「……父親?」
「ええ。加納建設社長、加納大悟です。現在、市内に建設途中の県営スタジアムにまつわる噂は御存知ですよね?」
「……噂だけは」
加納建設の県営スタジアム建設にまつわる贈収賄の噂は、今回の事件発生前から取りざたされている。
しかし、収賄の事実を裏付ける確たる証拠が見つからず、未だ噂の域を出ていない。
「噂などではありませんよ。大悟社長が義理の父を通して、県議会に多額の賄賂を送金していることは確かな事実です」
捜査情報を、中年刑事はあっさりとバラした。
驚く林田にかまわず、酒井は続ける。
「しかし、捜査の決め手となる証拠がない。大悟氏は地元の権力者だ。政界にも太いパイプを持っているため、検察も迂闊に手を出せない状況らしいんですわ――そこに、今回の事件ですよ」
「つまり、この騒ぎをうまく利用して、捜査の突破口にするつもりなのですか?」
鋭く目を細める林田弁護士に、酒井刑事はあくまでも飄々とようすで付け加える。
「不謹慎に聞こえるかもしれませんが、捜査に行き詰った我々にしてみれば、まさしく千歳一隅のチャンスってわけですよ。筋違いだというのは重々承知しておりますが、上からの命令ですのでね。下っ端の私らは従うしかないんですよ」
「あなた達の事情なんて知ったこっちゃない」
地方公務員の悲哀を漂わせる刑事たちを、林田弁護士はすげなく突き放す。
「これ以上事態をややこしくしないでいただきたい。ただですらマスコミ対策で頭が痛いと言うのに……」
「それはそうなんですけどね。これは林田先生、あなたにとっても悪い話じゃないはずだ。違いますか?」
「私が?」
探るような視線で、酒井刑事は林田の顔を窺がった。
「賞金騒ぎで迷惑しているのはそちらも同じでしょう。贈賄の罪で大悟社長が逮捕されるような事にでもなれば、全てが解決です。賞金も取り消しって事になって万事、丸く収まるってわけだ」
手前勝手な理屈であったが、酒井刑事の言う事にも一理ある。
全ての元凶は加納大悟と、彼のかけた賞金、三億二千万円だ。
この二つが消えれば、全ての問題は解決する。
逆に言えば、この二つがある限り、問題を解決したことにはならない。
「そこでどうでしょう、一つここは、お互い手を組みませんか?」
「手を、組む?」
林田が興味を示したのを見て取ると、酒井は取引を持ち掛けて来た。
「そう。この際、警察とか学校とかは抜きにしましょうよ。私とあなた。個人的な取引です」
「具体的に、何をするのです?」
「情報の共有です。聞くところによると、今日、生徒達を相手に聞き取り調査を行ったそうですね?」
「ええ」
「その結果を、こちらに渡していただきたい」
「そんなことができるはずがないでしょう」
刑事の要求を林田は、。
「聞取り調査の内容には、守秘義務が課せられている。
「生徒の個人情報を警察に漏えいしたことが露見すれば、私は弁護士をクビになる。そんな要求には応じられません」
「だから、これはあくまでも私とあなたの取引です。学校や保護者は一切関係ない。無論、秘密は遵守します。先生に迷惑はかけません」
「…………」
刑事の申し出に、林田は答えなかった。
受け入れることもしなかった代わりに、拒絶もしなかった。
それだけで、刑事は満足だったらしい。
「まあ、考えておいてください。今回の事件で、学校の警備が一層強化されることになりました。私たちも明日から学校の警備に参加することになっています。校内のどこかに居るでしょうから、御用の際にはお気軽に声をかけてください――それでは、明日、学校で」
そう言い残すと、二人の刑事は立ち去った。
警察が本格的に介入したことによって事件はこの後、さらに混迷を深めていくことになる。




