動揺(一)
事件から数日後、週末の土曜日。
公開模擬テストを明日に控え、三-A組では受験生を対象とした個別面談指導が行われた。
毎月行われる個別面談も、十二月の今日で最後。
この面談により、最終的な受験校が決定することになる。
少子化が進み大学全入時代を迎える近年、高校受験も様変わりしていた。
定員割れを引き起こす高校が続出する一方、一部の人気のある高校に生徒が集中するという二極化が進んでいる。
新時代の受験に対応するには、的確な進路指導が不可欠となる。
受験生にとって進路指導担当教諭は、必ずしも受験のサポートをしてくれる頼もしい味方ではない。
時として、希望する進路の前に立ちはだかる強大な障害となる時もある。
自分の希望する志望校を受験するにはまず、この進路指導担当の教師を説得し、許可を得なければならない。
そして、三年A組の進路指導担当は、智也の天敵である青木教諭であった。
○
三年A組の進路指導は、出席番号順に行われる。
例によって、進路指導室に一番に呼び出されたのは、出席番号一番の相沢智也である。
進路指導室と言っても、特別なものは何もない。
狭苦しい部屋に、折り畳みテーブルとパイプ椅子。
壁際の書類棚には、進路関連の書類がぎっしりと詰まっている。
進路調査票と模擬テストの成績表が散乱するテーブルを挟んで智也と青木教諭が差し向かいに座った所で、進路指導は始まった。
「第一志望は久慈北だったわよね?」
「はい」
智也の第一志望である県立久慈北高校は、県北にある公立高校である。
伝統と格式のある名門校であり、進学校としての実績も高い。
特に国公立大学に進学には定評があり、卒業生の大半は地元の国立大学に進学している。
県北の外れという立地条件が災いしてか、志願者数は少なく偏差値はそれほど高くない。
智也のような中庸な成績の受験生にとって“お手頃”な高校であった。
「それで、単願で受験するわけね?」
「はい」
「……公立単願とは随分と思い切ってくれたわね」
うなずくと、青木は露骨に渋い顔を見せた。
単願受験とは、滑り止めの高校を一切受けず、第一志望の高校のみを受験することである。
合格した場合、必ず入学しなければならないという制約を受ける代わり、受験の際に優遇措置が受けられる。
単願受験は背水の陣で臨む、必勝の策であると同時、不合格になった場合、目も当てられない、非常に危険を伴う策でもある。
中でも公立の単願受験は、特別リスクが高い。
県内公立高校の試験日は三月に入ってから――全ての私立高校が終ってからになる。
「万が一、不合格になったら行き場所がなくなるのよ? そうなったらあんた、高校浪人よ。わかってんの?」
「だからこそ、推薦が必要なんです」
自信たっぷりに、智也はうなずく。
智也とて、何の勝算も無く大博打を打つつもりはない。
確実に合格できるように、下準備は十分に行っていた。
「久慈北の競争倍率は高くありません。そこに単願受験に加えて、学校の推薦が貰えるならば、合格は間違いないはずです」
「そんなこと言ってもね、万が一ってことがあるでしょうが。あんたが落ちたら、あたしの責任問題になるのよ」
結局、青木が心配しているのは自分の立場であった。
担当する生徒の進路が未定になれば、進路指導担当の彼女の責任になる。
そのため、進路指導担当教師は、なるべく合格率の高い高校を生徒に勧める傾向にある。
進路指導とは、良い高校に行きたい生徒と、レベルの低い高校を勧める教師との綱引き合戦である。
進路指導担当教師である青木を説得させない限り、志望校を受験することはできない。
「大体さ、なんで久慈北にこだわるのよ? ここからじゃ通うの大変じゃない。偏差値もそれほど高くないし、それほど魅力的な高校だとは思えないんだけど?」
「……他に、行けそうな学校が無かったからです」
我ながら情けないと思いつつ、智也は正直に答えた。
「ウチは決して裕福な家庭ではありません。何しろ、家のローンが残っていますから」
それは、日野原中学に通う生徒の大半に共通している悩みであった。
日野原中学の学区内にある新興住宅地の住民たちのほとんどは、長期のローンを抱え返済に苦しんでいる。
そのしわ寄せは、子供たちの教育費を直撃する。
「だから進学先は、学費のかからない公立を希望しています。大学もなるべくならば国立に進学したい。大学受験を視野に入れるならば、それなりの高校に進学したいんです。と、なると、自然と市内の高校は選択肢から外れることになるわけで……」
日野原市内には二つの高校がある。
一つは、公立高校である県立日野原高校。
偏差値は40点以下の、所謂“名前さえ書けばだれでも入れる” 県内屈指の底辺校である。
卒業生の大半は、専門学校に進学するか、地元の企業に就職する。
運よく進学できても、Fランクの私立大学ばかり。
近在の学校でも不人気な学校であり、三年連続で定員割れを引き起こしている。
もう一つは、私立高校である教和大付属日野原高校。
私立学校だけあって、中等部が併設の校舎には、施設も充実している。
また、大学の付属であるため、卒業後は教和大への進学が約束されている。
市内の中学生たちにとって、教和大付属に通う事はある種のステータスであるが、私立高校であるために学費が高い。
「日野高なんか通っても、進学先は限られている。かと言って、教和大付属に通って親の負担はかけたくありませんから……」
「結局、市外の公立高校に行くしかないってわけ、ね」
それだけで、青木は全てを理解した。
「あんたの学力じゃ、選べる高校は多くない。ここから通える範囲で、あんたの成績でもどうにか手の届きそうなところが、久慈北だった、というわけね?」
「そういう訳です……」
進路選びと言っても、生徒達の選択肢は多くない。
学力と、経済事情に折り合いをつけて、行ける所に行くしかない。
高校受験は、中学生たちに現実の厳しさを知る最初の機会でもあった。
「事情は分かったけど、久慈北はちょっとねぇ……」
「何か問題が?」
「あんたの成績じゃ、ちょっと無理があるんじゃない? 競争倍率が低いとはいえ、久慈北は名門校よ。それなりに学力が要求されるわけだし……」
「いや、でも、学力テストの結果はA判定ですよ」
あくまでも難色を示す青木教諭に、すかさず反論する。
「塾の先生とも相談しましたけど、このくらいの成績だったら、合格圏内だと思います」
「成績は大丈夫でも、内申書がヤバイって言ってんのよ。久慈北みたいなお堅い高校は、成績よりも内申書の方を重視するからね。問題のある生徒は、書類選考でハネられるわ」
「僕は別に不祥事とか起こしていませんよ。出席日数だって、皆勤賞です」
「悪い事もしてもないけど、良いこともしてもないでしょう。あんたさ、帰宅部だし委員会活動とかやってないじゃん? 内申書に書くことがないのよね」
「学級委員をやってるじゃないですか」
憮然とした表情で智也は言った。
いやいやながらも、今日まで学級委員をやって来たのは、全て内申書の為だ。
教師と生徒の間を飛び回る伝書鳩から、職員室のゴミ出しまで、
青木の無理難題に臥薪嘗胆の思いで耐え続けることが出来たのは、内申書の為と思えばこそであった。
「推薦が貰えるって言うから、今まで委員長をやって来たんじゃないですか。ここまで来て推薦が貰えないというのなら、今すぐ委員長をやめますよ」
「わかった、わかったわよ」
彼女としても、便利な小間使いを失いたくはなかったのだろう。
委員長辞任をほのめかした途端、青木は譲歩した。
「約束通だからね。推薦はあげるわよ」
「やった!」
「まあ、このまま順調にいけば合格できるでしょう。だけど、油断するんじゃないわよ、相沢」
浮かれた様子の智也に、すかさず青木が釘をさす。
「公立高校の受験まで、あと三か月もあるのよ。それまで気を抜かずに、十分に気をつけて生活してちょうだい」
「わかってます、わかってますって」
何はともあれ、推薦さえ貰えればこっちのものである。
あとは、三月に行われる試験日を待つだけである。
試験と言っても、形式的なものに過ぎない。
学力的には問題ないし、単願受験の上に、推薦まである。
合格は実質、内定したも同然であった。
「人生何があるかわからないんだからね――加納みたいに、推薦が決まった途端に死んじゃうことだってあるし」
「……縁起でもないこと言わないでください」
とてつもなく不吉な言葉を最後に、智也の面談は終った
それと同時、進路指導室の扉が開いた。
「青木先生。まだかかりそうですか?」
「いえ、今終わった所です」
半分だけ開いた扉から顔を覗かせたのは、体育教師の前田だった。
その深刻な表情に、不審なものを感じた青木が訊ねる。
「何か御用ですか、前田先生?」
「いえ、先生では無く、相沢に用があるんです」
「僕に?」
自らを指さす智也に、前田はうなずいた。
「校長がお呼びだ、すぐに校長室に来てくれ」




