疑惑(二)
林田弁護士事務所所長、林田仁志は、学校問題専門の弁護士であった。
教育現場の荒廃が懸念される昨今、学校関係の訴訟問題は増加傾向にある。
いじめ、体罰、事故、教師による性犯罪、教師間のパワーハラスメント、モンスター・ペアレンツによるクレーム。
学校内で起きる様々な事件を、法律知識によって解決に導くのが林田弁護士の仕事であった。
彼の名を一躍、全国区へと押し上げたのは、山梨県で起きた中学生殴打死事件――俗に“山梨バット”と呼ばれる事件である。
数多くの物的証拠が提示され、被告の有罪は確実視されていたにもかかわらず、林田は被告の無罪を勝ち取った。
この事件を契機に、林田弁護士事務所には全国各地の学校から多くの依頼が押し寄せることとなった。
その後も林田は、佐賀県で起きた中学生いじめ自殺事件、大分県の県立高校バレー部体罰死事件、と、全国規模で報道されるような大きな事件を担当し、その全てを見事な手腕で解決してきた。
彼の華々しい活躍は教育関係者から賞賛を受ける一方、強引な法廷戦術に対して各方面からすくなからず批判が起きている。
マスコミはこの辣腕弁護士を、様々な二つ名で呼んだ。
法廷の魔術師。学校の始末屋。モンスター・ペアレンツ・ハンター――そして、悪徳弁護士。
賞賛と批判が飛び交う世評に、当事者である林田はいたって無関心であった。
とめどなく頻出する学校問題を解決することが自らの仕事であり――それが彼にとっての答えでもあった。
○
江副隆弘校長の招聘に応じ、林田弁護士が日野原中学に駆けつけたのは、その日の昼前。
事件発生から半日ほどの事である。
「ようこそおいで下さいました。林田先生!」
「どうも」
校長室を訪れた林田弁護士を、江副校長は手放しで出迎えた。
日野原中学校長、江副隆弘は白髪の老紳士であった。
警察関係者、及びマスコミ関係者との対応で、昨晩から碌に寝ていないのだろう。
落ち窪んだ瞳からは、憔悴した様子がうかがえる。
「いきなりお呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ、どうかお気になさらずに」
恐縮した様子の校長に向かって、林田弁護士は微笑む。
実際それ程大した手間では無かった。
首都近郊にある日野原市は、東京にある事務所から車で一時間ほどの距離にある。
学校問題を解決するべく日本中を飛び回る林田にとっては、比較的近場での仕事である。
抱えている案件も一段落した所であり、丁度、暇を持て余していたところであった。
弁護士としてはむしろ、事件が早期の内から呼んでくれた方が助かる。
学校で問題が起きた場合、大抵の教師たちは不祥事が露見することを恐れるあまり、独力で事件を解決しようと試みるものだ。
そして、大抵の場合、失敗する。
大分のバレー部体罰死事件の時のように、あれこれ裏工作した挙句、どうにもならなくなってから呼び出されては却って迷惑だ。
「何分、こんな事件は私共も初めての体験でして、どうしたらいいのか皆目見当がつかんのです」
困り果てた様子で、校長は頭を抱える。
普通に生活している一般人にとって、マスコミが駆けつけるような事件に遭遇する事など、そうそう起こるものでは無い。
大抵の一般人はカメラの前に立たされただけで、怖気づいてしまうものだ。
そして、困り果てた学校が最後に頼るのが林田弁護士であった。
「それで、わたしは何をすればよいのでしょうか?」
「何もかもです!」
お手上げ、とばかりに両手を挙げて校長は答えた。
「警察やマスコミの対応から、被害者遺族、教育委員会にPTAの事情説明まで――全てを林田先生に一任しますので、可能な限り穏便に事を納めて頂きたい」
早速、来た。
大抵の依頼人は弁護士のを、金さえ払えば何でもやってくれる便利屋だとでも思っている。
不祥事の後始末を全て弁護士に押し付け、自分達は高みの見物を決め込むつもりなのだ。
「まず、これだけは申し上げておきます」
弁護士として久坂が最初に取り組む仕事は、依頼人の間違った認識を改めることであった。
彼らに徹底的に欠けているのは、当事者意識の欠如だ。
無責任な教師達に、現在置かれている状況がいかに深刻である事かを思い知らせてやらなければならない。
「私が出来るのは、あくまでもサポートです。事件の対応をするのは校長、あなたです」
「それは、勿論……」
「経緯はどうあれ、生徒を死なせてしまったと言う事だけは覆しようのない事実なのです。そして、その責任はこの学校の最高責任者である校長、あなたにあるのです」
「…………」
教師としての管理責任をつきつけられ、校長は沈黙する。
「世間では私の事をあたかも魔術師のように言うが、それは大きな間違いだ。起きてしまった事件を無かったことにはできないし、有罪を無罪にすることもできない――勿論、死人を蘇らせることもできない。あなたの学校の生徒である加納瑞樹さんは、あなたの学校で死んだのです。この事実を真摯に受け止め、遺族をはじめとする関係者に反省の意を示すことが重要なのです。わたしはその手助けをするだけに過ぎない」
「……承知しました」
ようやく自分の置かれている立場を理解したのか、校長は深くうなずいた
「とりあえず、何から取り掛かればよろしいのですか?」
「まずは、遺族に事件の詳細を報告しましょう」
被害者遺族への対応は、真っ先に取り組まねばならない課題であり、最大の難問であった。
悲しみに暮れる遺族を前に、事件の詳細を報告するのは何度やっても気の滅入る作業であった。
「突然のお嬢さんの死に、遺族の方々も動揺しているに違いありません。彼らの動揺を和らげるためにも、こちらから説明に伺うべきです。それも、なるべく早いうちに」
「その、遺族の事なのですが。加納瑞樹さんの父親は……」
「加納大悟氏、ですよね。加納建設社長の。存じております」
言い淀む校長を遮るように、林田は言った。
地元の名士である加納大悟の名前と、彼の仕事にまつわる黒い噂については、林田も承知している。
今回の事件にマスコミが必要以上に注目しているのは、父親の影響なのだろう。
「相手が誰であろうと関係ありません。遺族に対し誠意ある謝罪を行うべきです。被害者である瑞樹さんがいかにして死んだのかを伝えるのは、わたし達の義務なのです。そのためにはまず、わたし達自身が事件の真相について正確に把握していなければなりません」
「いや、しかし警察の話ですと事故だと言うことですが?」
「警察発表を鵜呑みにしてはいけませんよ、校長。警察の捜査というものは、意外とずさんでいい加減なものなのです。後になって、別の事実が判明したら、どうなると思いますか?」
「……どうなるのですか?」
間髪入れずに問い返す校長に、心の中で舌打ちする。
これは教師全般に言えることだが、彼らは自分で考えると言う事に慣れていない。
不測の事態に備える想像力というものが、根こそぎ欠落しているのだ。
「いいですか? もしも――もしも、ですよ? 今回の事件が事故では無く、自殺だったとしたらどうしますか?」
「じ、自殺ですか?」
「例えば、被害者がいじめられていたと言う目撃証言が出てきたりとか、遺書が出てきたとか――そうなれば世間はどう思うでしょうか?」
「どう思うのですか?」
「学校が責任を逃れる為に、自殺の事実を隠蔽しようとした、と思うでしょう」
「そ、そんな!」
「世間はいじめ問題には特に敏感に反応するものです。こうなると大変です。『生徒からのサインを見逃した』と、お決まりの文句でマスコミは大袈裟に騒ぎ立て、学校側の管理責任を徹底的に追及するでしょう」
「それは困る!」
「そうでしょうとも。これは考えられる最悪の事態です。この事態を回避するためにも、先手を打ってこちら側で調査を進めておくべきです」
「……わかりました」
ようやく事態の深刻さを理解したらしく、校長は深くうなずいた。
「早速、クラス全員にアンケートを実施しましょう。三年A組の生徒たちは教室に待機させています。担任の青木先生に言って……」
「いや、アンケートはまずいですね。いけません」
「なぜです?」
「情報の透明性が保てません。集計するのは教師では、後からいくらでも改ざんできる」
これは佐賀のいじめ自殺事件で得た、手痛い教訓であった。
この事件が大事になったのは、生徒達から集めたアンケート結果を教職員達が改ざんし、いじめの事実を隠蔽しようと画策したからである。
教師たちの粗雑な隠蔽工作はすぐに露見することとなり、学校側はマスコミから手痛いバッシングを受けることとなった。
「重要なのはいじめの実態の有無では無いのです。我々が誠実にこの問題に取り組んでいることを、内外にアピールすることが重要なのです。そのためには、情報収集を公明正大に行わなければなりません」
「では、どうすればいいのですか?」
「ここは一つ、生徒達に任せてみましょう」
「生徒達に?」
「ええ。クラス全員を集めて、生徒達の手で聞き取り調査をさせるのです。いじめはなかったか、最近変わった様子はなかったか、何か悩み事を抱えてはいなかったか。そう言ったことを話し合わせて、集めた情報をクラスの代表がまとめて私たちに報告させるのです」




