竜人-0003 隻眼の竜人は赫怒に踊る③
【27日目】
「また、迷宮領主か」
耳の奥にヒュドラの言葉が残っている。
流れ着いたこの島にも、あの我欲の塊とも言うべき存在がいることを告げるものだった。
彼らが【人界】と呼ぶ、かつてソルファイドがいた世界とは異なる法則・仕組みの数々は、他種族との関わりを避けてきた秘境の戦士にとってさえ、常識の埒外にあるものばかり。
その筆頭は、やはり魔素・命素という形で顕現された、ありとあらゆる技や力、奇跡の源だろう。己が磨き上げた剣技や武技もまた、このうちの『命素』が深く関わっているという――目に見えぬものであることは変わらなくとも、それを大雑把にではあるが"測る"術を迷宮領主は持つ。
実際【肉と鎖の城】の【人体使い】テルミト伯の元での数年間は、ソルファイドにとっては己の技をさらに客観視して磨くことに役立っていた。ヒュドラとの戦いで、武技を適切な配分で放つことができたのも、その経験が大きい。
それから、一度己がその迷宮領主の"配下"にあたると認識した時に、目に見えぬ「繋がり」のようなものが生まれるというのも、面妖な感覚である。
『敗戦者』として虜囚の身となり、目玉を抜き取られるという拷問を受けた時点で、少なくともソルファイド自身からその繋がりを断ってはいたが……まだ、色合いの異なる"繋がり"がテルミト伯側から微かに残っていた。
頭痛のような感覚に苛立ちが募る。
視界が時折、ごくごくわずかに"色"が揺らぐ。
今や怨敵となったかつての庇護者がどのようにしてまだ自分と『繋がって』いるのか、想像するだに腹立たしい。
だが、そうした怒りの念が積み重なるほど、殺意と集中力が研ぎ澄まされてゆく。
【情報閲覧】を持つ迷宮領主がこの場にいれば、それが種族技能【竜の憤怒】によるものであると知っただろう――その効果の正確なところまで"測る"ことのできる迷宮領主は、さらに限られるであろうが。
嵐の荒海を漂い、奇跡的にソルファイドは生を拾っていた。
そして彼が本来流されるはずであったであろう『最果ての島』へ生きて流れ着いたのが、一週間ほど前のこと。
ソルファイドは傷口を粗布で乱暴に縛った左腕を、軽くぐるぐると動かした。
ヒュドラに切られた傷跡は竜人の鱗をも貫いており、見た目以上に深かったが、何より厄介だったのが、生物を害する毒の唾液である。
つい昨日まではまったく片腕を動かすことができず、ようやく回復した現在でも、本調子とはほど遠い。竜人の回復力でさえこれである……【魔界】では珍しく最果て島の近海に大型の魔獣が数少ない理由の一つということだろう。
そして、このせいで愛剣を一本、海流に揉まれて失くしてしまっていた。
右手に常に握りしめるは【レレイフの吐息】。
火竜の背骨より削りだされた兄弟剣たる【ガズァハの眼光】の行方は杳と知れず。
かくなる上は最果ての島の、どこか他の場所に流れ着いたかを祈るばかりである。
だが、勝算の低い祈りというわけでもない。
【レレイフの吐息】から微かな鼓動が伝わってくる。
"生きている"剣の類ではないが、火竜の末裔たるソルファイド自身との共鳴関係があり、2剣を手にした彼は本来の実力以上の戦闘力を発揮することができた。
【ガズァハの眼光】がこの島のどこか、仮に海底に沈んでいるとしても、この"共鳴"を感じる程度には、近場にある確信があったのだ。
「使徒サマ」
しわがれた声が聞こえ、ソルファイドが瞑想する木陰にいくつかの気配が現れた。
粗布をボロきれのようにまとった老ゴブィザードが、数体のゴブリン戦士を伴って近くまで歩いてくる。
殺したての雄の『迷彩鹿』が一頭丸々、ゴブリン2体がかりで運ばれてくる。
野性的な血の香りにソルファイドの食欲がうずき、瞑想を中断する。
(不思議なものだ。瞑想を途中で辞めるなんてことは、一切しなかったはずだが)
ウヴルスの教えによる【竜の憤怒】の制御は、もはやソルファイドにとって意味を持たないものであった。
ただ、生まれ落ちて30余年の一生の中で、起きている間の半分近くを費やしてきた習慣ではあったため、この島で九死一生を得た後も続けていた。
まだ幼かった頃、何のための瞑想かもよくわからない時分は、よく途中で飽きて動き出したものだ。その度に幼馴染のティレーに怒られ、取っ組み合いに発展したことを思い出す。
過去を反芻しながら、ソルファイドは鹿の脚をつかみ【レレイフの吐息】を肉切り包丁代わりに突き刺した。
そして肉と筋の方向に沿って切り開き、骨の関節に刃をあてがって一息に断つ。
ゴブリンは血抜きも満足にできないようだが……この雄鹿はまだ状態が良かろう。
【レレイフの吐息】に向けて、限界まで出力を押さえた極小の【火竜の息吹:微】を吹きかけ、赤熱する刀身を切り落とした鹿肉にあてがう。疲労した身体ではこの程度の微火を吹くのが限界であるが、獣肉を焼くには十分すぎる。
ジュゥと心地良い音が鼓膜を刺激し、束の間ソルファイドの食欲が殺意を上回る。
さしもの【竜の憤怒】といえども、生物としての本能的な欲求までをも"食らう"類のものではなかった。
豪快に鹿肉をかっ食らう様をゴブリン戦士の数名が物欲しそうに眺めるが、即座に老ゴブィザードに木の棒で頭を殴られ、呻いて崩れ落ちる。
島に流れ着いたソルファイドを「保護」したのが、このゴブリン達であった。
ヒュドラとの壮絶な死闘を遠目に見ていた――と主張する彼らは、何の因果か、竜人たるソルファイドを見て「竜神」の使者だなどと見なしたらしい。それが、この王侯のような扱いの理由だ。
……なるほど、竜が竜を知るように、竜の系譜にある者は皆近しい気配を持つ。
常よりヒュドラに脅かされ続けてきたゴブリンらが、ソルファイドに竜の気配を感じ取ったとしても不思議は無かろう。
だが、よもや己が再度の殺し合いを約した偉敵たるヒュドラの使徒、だなどと見なされようとは。
苦笑しつつ、癖の強い野性的な脂と味に舌鼓を打つソルファイド。
保護された翌日には、ソルファイドを快く思っていなかったらしい、体格の大きなゴブリン達が襲いかかってきたため返り討ちとばかりに斬り捨てた。
それ以来、この老ゴブィザードがゴブリン集団でこれまで以上に肩で風を切るようになった。老ゴブィザードはさらにソルファイドを神のごとく崇めてくるようになり、氏族のゴブリン達もそれに倣うようになった。
ただ、こうして肉を献上しに来るのは便利ではある。
己がゴブリン達の順位争いに利用されたことなど、気にもならない。ソルファイドには魔人族が持つような種の本能レベルでのゴブリンへの嫌悪感は無かったが、逆に彼らの庇護者となったつもりもまた無かった。
【牙の守護戦士】としての使命を果たすべき者達は既にこの世に無い。
自らを戒めるかのような"重し"を、自分から再び背負うつもりも無かった。
【竜の憤怒】によって激する殺意と怒りがあり、そのぶつけ先として、当面はテルミト伯を切り刻むことが行動目標である。
そのために、利用できるものはなんでも利用する。
このゴブリン達が奴隷としてその道具になってくれるというのであれば、好きにさせれば良い。ひとまず当面は、失われた【レレイフの吐息】の捜索と、この島に巣食うという迷宮領主の調査であるか。
鹿の腹をかっさばき、肝臓を素手で引きずり出す。
まずは生のまま食らって濃厚な味わいを試し、次には息吹で炙ってよく火を通す。
ゴブリンが他に献上した木の実のうち、薬味となる香草を手ですり潰して焼けた肝臓へ振りかけ、一口で食らう。
「使徒サマ……ゴ指示ドオリ、海岸ヲクマナク探索シマシタ」
それで? 等と口に出すのも億劫である。
ソルファイドは竜人の牙を以って鹿脚の骨を噛み砕き、音を立てて髄をすする。
「剣ハ見ツカリマセンデシタ。ガ、厄介ナコトガ」
老ゴブィザードの報告によれば、四方へ放ったゴブリン斥候のうち、北東へ向かった者が帰らないという。
葉隠れ狼に襲われたかと考えさらに狩猟隊4人を探索に行かせたが、帰らない。
(北東と言うと、あれか)
この位置からでは森の樹冠に隠されて見えないが、ソルファイドは小高い岩の丘がある方角を見た。
微かではあるが愛剣の気配もまたその方角から感じるのである。
ゴブリン達にも思い当たらない存在の仕業によるのであれば、ならばこの島に新たに誕生したという迷宮領主は、そこにいる可能性が高いということだろう。
かつてウヴルスの里の民がミュン=セン帝国の襲撃を受け、命からがらに落ち延びた後に【人魔大戦】以前に栄えたという、廃墟へ逃げ込んだ。
そしてそこには人界と魔界の「裂け目」があり、追い詰められ、ついには逃げこんだ先こそがテルミト伯の迷宮【肉と鎖の城】であった。
神話とされる時代について、ソルファイドは学があるわけではない。
だが、強大なる存在の後援によって、迷宮領主と呼ばれる者達は常人を遥かに超える力を持つ。
テルミト伯との因縁の中で、それは嫌というほど思い知らされた。
それを殺して力を奪う、とヒュドラが言った。
そんなことが可能なのか、と右手の愛剣を凝視する。
テルミト伯に己の技は届くだろうか?
1対1ならば、不可能とは言えないだろう。
だが、迷宮領主の本質は「迷宮の眷属」と呼ばれる魔獣・魔物の類の軍勢を率いる防衛者にして侵略者である――少なくとも、個の力によってその軍勢を打ち破り、テルミト伯の首を叩き落とせるほど、己の武勇と実力が傑出しているなどと慢心するソルファイドではない。
この意味においては、迷宮の眷属とは【人界】の"魔獣"や"魔物"の類とは、根本から性質が異なっているとも言える。
だが、と首を左右に振る。
違う角度で考え直すことにしたのだ。
ソルファイドにとって「力」などは究極どうでも良くて、目標に繋がる手がかりや道が得られればそれで良いのだ。
だから、試すにはやはりこれが分かりやすい。
剣を握り直し、眼前に掲げて岩の丘へ向ける。
隻眼で空を睨みながら、ソルファイドはゆっくりと立ち上がった。
***
個人サイズの映写用垂れ幕にソルファイドの視る光景を映しながら、テルミト伯は『性能試験室』で作業を続けていた。
映像に特段の代わり映えは無い。
汚らわしいゴブリンどもの運んできた食物をかっ喰らうか、さもなくばひたすら瞑想する竜人を監視する作業など、とうの昔に飽きていた。
だが『最果ての島』に関する事項は彼の野心にとって最高機密扱いにせねばならず、下位の部下や新参の部下どもに任せるわけにもいかない――任せることのできる優秀な部下がかつては居たのだが……今は敵対している。「彼」は蛇蝎の如く忌々しい存在へと変貌しており、その名を口にすることすら怒りが湧き上がる。
ともあれ、仕方が無いので、7原色の目玉と竜人ソルファイドの片目を自分自身で『性能試験室』まで運び、映像を垂れ流しにしているわけだ。
『性能試験室』には大小様々な魔石や宝石、鉱物、薬液や魔獣の素材などが乱雑に転がされている。だが、その中でも異彩を放つのは、壁一面に並べられた薬液漬けの『目玉入り瓶』だろう。
大きさから形、色合いさえ様々な目玉が、黄色い薬液に浸された状態で陳列されている。片目だけ入った瓶が多いが、両目入りのものもあった。
この空間はテルミト伯にとっては聖域にも等しい空間であり、たとえ直臣であろうとも決して入れさせなかった。
無論、研究の必要と実用性を兼ねて厳選に厳選を重ねた目玉達である。
この部屋だけでも100本を下らない瓶があるが、隣の『保存室』にはさらに十倍の目玉が保存されていた。
ゴブリンの汚らしい姿がいちいち視界をちらちらするのに、テルミト伯はいい加減ウンザリしていた。
最果ての島への流刑の歴史は古く、何かしら生き残りやらその子孫やらがいるかもしれないとは考えていたが、よもや汚物にも等しいゴブリンが繁茂していようとは! 聖域を汚された気分で非常に胸糞が悪くなるテルミト伯だったが、幸いなるかな、映しだされるのは映像のみで音は無い。
宴ではおくびにも出さなかったが、彼の【飛来する目玉】の技術はあくまで映像を転写するのみであり、欠点も多い。
まず距離に応じた時間差があり、たとえば『肉と鎖の城』から『最果ての島』の間では、映し出される映像が実際には数秒ほど前のものとなってしまう。
距離がさらに開けば、それだけ時間のずれも大きくなるだろう。
目玉同士の共感による視界の共有自体は時差無く発動するのだが、それを取り出して光魔法によって再構成するという点で、いくつもの技術的な課題があるのだ。
それから音の問題であるが、船に忍ばせた【這いよる片耳】によって音声を拾い、目玉と同じ原理でもう片方の"耳"から、風魔法を経由して流していたのである。
宴席にリッケル子爵の手駒が紛れてきた可能性も考慮すれば、あの場でそこまで包み隠さず話す必要は無い。後でグェスベエレ大公にのみ後ほど耳打ちすれば良いことであり――グウィネイト女伯にも今はまだ手の内を明かす気にはなれなかった。
【這いよる片耳】については竜人とヒュドラの戦いが終わった後で【自壊】の指令を出したため、今は海の藻屑だ。
そのため、最果ての島へ首尾よく潜りこませることができたソルファイドから得られる情報は、彼が見ている光景のみとなるわけだ。
「やはり"脳"同士を共鳴させられなければ、根本的な解決にはなりませんか」
例えば『盗視る瞳』の場合、片目分の情報しか得られないのがもどかしい。
偵者の「目」に映った情報を得るのが目的なのに、その「目」を減らさなければ使用できないという矛盾があるのだ。
【異形:第三の目】や【異形:多眼】の持ち主は希少である。
かといって知性無き多眼の魔獣を利用するのも骨が折れる。となれば真の『視界共有』技術の実現には、あとどれほどの技術的課題があることか。
考えが煮詰まり、研究も微妙に行き詰まり、テルミト伯は苛立ちを募らせていた。
気持ちを切り替えるために、「目玉」の陳列棚へ向かって近づいていく。
最果ての島の迷宮核を手に入れた暁には、島での最初の作業としてゴブリンをすべて駆除しよう。
そう固く誓いつつ、「両目」が入った瓶を手に取った。
「両目」の虹彩には、古代神語字によく似た青い紋様が浮き出ており、まるで生きてるかのように瞳孔が収縮していた。
紛うことなき【魔眼】の特徴である。
テルミト伯は『眼球蒐集者』として知られていたが、趣味と性癖と実用を兼ねる【魔眼】こそが、彼が最も好んで蒐集する目玉であった。
恍惚の表情で瓶の蓋を開け、遮液布でできた薄手袋で目玉を二つすくい出す。
そしてとても微かな声で呪文を唱えながら、もう片方の手を自らの顔に近づける。
正確には目隠しのように片手で自分の両目を覆う。
やがて呪文が一区切りした瞬間、ずるりとした感触とともにテルミト伯の両目がこぼれ落ちた。
それを受け止めた片手の上に、ぼたぼたと垂れるのは血ではなく、瓶詰めの目玉を漬けていたのと同じ黄色の薬液。
次に瓶から出した両目を、そのまま肉の空洞と化した眼窩へあてがう。
そのまま上を向き、またずるりと音がする。
目玉を入れる際に溢れた薬液が涙のようにテルミト伯の両頬を伝い、ポタポタと床に垂れ落ちた。
この間、ぼそぼそと囁くような詠唱は途絶えることがなかった。
たっぷり数十秒もかけてから目を慣らせ、テルミト伯は取り替えた2つの目玉を瓶に入れ、棚に戻した。
「やはり、これが一番落ち着きますね」
恍惚混じりの声で一人呟く【人体使い】の迷宮領主。
青い燐光を放つ【魔眼:魔力視】を両目に備え、研究台へ戻って中断していた「性能試験」を再開する。
現在の研究テーマは【飛来する目玉】や【盗視る瞳】によって吸いだした映像情報を、魔石に保存する方法である。
そのため、光魔法を扱う際の魔力の流れを今一度確認するために、この魔眼を装填したのである。
――だが【魔力視】はその特殊な効果と引き換えに、通常視力を弱める。
それを両目に備えたものだから、テルミト伯の意識は、垂れ幕上のソルファイドが見ている光景からは完全に離れてしまった。
***
――これもまた、迷宮領主オーマにとって一つの運命の転換点となった。
テルミト伯がゴブリンの醜悪な生態観察に耐え、辛抱強くソルファイドの視る光景を解析し続けていれば、最果て島への介入は遥かに早まっていただろう。




