竜人-0001 隻眼の竜人は赫怒に踊る①
迷宮の先には【魔界】が広がっている。
だが、そこがどのような地かを知る者はほとんどいない。
【人界】に住まう種族のうち最長命を誇る白エルフ族であっても、人間の2倍程度の寿命しか持たぬ彼らでは、500年も前の【人魔大戦】を直接知る者は無い。
そして、そも【魔界】が"大戦"そのものよりも遥か以前に【全き黒と静寂の神】により、この世界とは異なる次元の『異世界』として生み出したなどということを知る者はいない。
単に、世界創造に関わり今もなお特別に選ばれたごく一部の者達に"加護"を与える存在たる【諸神】の追放者たる悪神邪神の類の根城であって、その尖兵を絶えず吐き出す悪夢の「砦」として各地に迷宮が生み出された――という理解が一般的だ。
なるほど、魔物の巣窟であり「砦」であるというのも、間違ってはいない。
しかし、その"奥"には【人界】で人間や亜人達がそうしているのと同じように、魔人達が暮らし営み、政治的軍事的諸勢力が鎬を削って力無き民を翻弄している……という真実は知られていない。
為政者達は自分達の住まう世界が【魔界】側から【人界】と呼ばれていることすら知らず、ただ単に目の前の脅威として、魔物と呼ばれる邪悪な存在が迷宮から這い出して来ることに対処しているのみ。
それですら【諸神】の加護厚き聖なる土地でこうした魔物達が永らえることはない。迷宮に引き返さねば、数刻から長くても数月で消滅してしまう「魔物」達は、近隣に住まう村や街や地方領主にとっては頭痛の種となれども、逆に言えばその程度の被害しか引き起こさない。
すなわち上位の大領主達にとっては、災害などと同じような管理対象であった。
無論、その存在を一般的に知られている迷宮への入り口もまた、魔界全体から見ればごく一部でしかないのだが。
そのような"迷宮"へ潜ろうと考えるのは、果たしてどのような者達であるか。
第一には、富を求める探索者や冒険者達である。
良質な「魔石」や異界の魔物から奪い取ることのできる素材を求めて、彼らは死と隣り合わせの危険地帯に自ら乗り込む。
といっても、高度に訓練され専門化した――オーマの知識で言えば『冒険者』のような――存在が社会的身分として成立しているわけではない。
まっとうな手段では生きる糧を得られなかった者達のうち、最も追い詰められた者か、命を賭けることに狂った者が「迷宮挑戦者」となる。この意味では、こうした者達は山賊やならず者くずれに近い無法者の類でもある。
第二には、『聖墳墓教会』という勢力に属する守護僧兵や司教や司祭達である。
旧き「大戦」の英雄アイケルの子供達が建国した『四兄弟国』の一つである【聖墳墓守護領】は、いつか来たる魔界からの再侵攻への備えとして、兄弟国間の盟約により各地の迷宮への「査察の大権」を保持している。
"迷宮の魔物"を狩り殺すことも生業の一つとするこの者達は、迷宮の活性化度合いや魔物の危険性、未発見の迷宮の調査などを国の境目を越えて行い、必要あらば"神威"の秘術による一帯の封鎖・封印を行う強権すら与えられている。
そして最後に、迫害から逃れる者達である。
アイケルの系譜を継ぐ『長兄』と『長女』が、それぞれ大陸の東西へ植民・征服事業を推し進め始めてから二百と数十年。
人間からは「亜人」と蔑まれる様々な民の国、集落、領域は侵され、生きる場所は確実に削られていった。
亜人奴隷として人間奴隷には認められる最低限の権利すら保障されない絶望の生を送るよりは、未知の【魔界】へ逃れよう。自分達を斯くも見放した【諸神】の慈悲にすがり続けるよりは、むしろ彼らの敵対者である【黒き神】とその眷属神達に救いを求めよう。
魔界側から見れば、このような事情で迷宮を押し通ってくる集団は、頻繁というわけではないものの、さほど珍しい存在ではなかった。
殺すか、捕らえるか、追い返すか、見逃すか、あるいは懐柔するかは個々の迷宮領主の性格次第である。
そして。
この第三のタイプの「訪問者」の一事例として、今は滅びし「竜の帝国」の末裔が一枝たる『ウヴルスの里』を構成する竜人の一団が存在する。
寄る辺なき民と化した竜人達は、とある「伯爵」が治める迷宮【肉と鎖の城】の傭兵として迎え入れられたのであった。
***
隻眼の竜人ソルファイド=ギルクォースには二つの後悔があった。
己が属する『ウヴルスの里』の【牙の守護戦士】としての責務を果たせず、亡国の皇家末裔に連なる一枝であった里長家を守れなかったこと。
その仇は【黄金の馬蹄帝国】あるいは単に『長兄国』と呼称される国と――彼らを操った黒幕達である。
ウヴルスの民は、他の竜人集落とは異なり、昔日の【竜帝国】の栄光を求むる生き方を捨てた一派である。
追い出され、あるいは自ら立ち去る形で、大陸西方域の竜人集落群から出奔したのは「大戦」よりもさらに数百年ほど昔のことである、というのは、今はこの世にいないソルファイドの祖父の教えだ。
竜の系譜を継ぐ種族【竜人】は本来、エルフよりも長命であったという。しかし代を重ね"血が薄れる"に従い、その寿命も見た目も「人間」に近づいており、伝承は不完全だ。
それには、まつろわぬ民として今の居所――魔界落ちする以前の、だが――にたどり着くまでの100年の苦難の歴史によるところも大きい。
今は『四兄弟国』として知られる地方を大陸の東方へ横断。砂と荒れ地と硫黄が噴き出し、険しき岩山の連なる秘境に隠れ住んで幾百年。その年の初めに生まれた祖父は、一族はおろかウヴルスの里においても、生き証人たる存在であった。
ウヴルスの竜人は他種族との関わりを避け、特に「人間」に対しては、心を砕くほどの注意を重ねて、関わることを避けてきていた。
――竜人の祖先たる【竜】と人間族との間には、深淵でもつれ合うとされる伝承上の大樹の根よりも、深く昏い因縁があったが故に。
それを『長兄』ミュン=セン帝国は、執拗に、そして執念深く、ついには狩り出したのであった。
それもまた因縁の帰結であったのかは、ソルファイドにはわからない。
ただ、里長家の娘ティレーが、瀕死の重傷を負った人間族の親子を救ったのが破滅の元凶であったことを、過去の自分に伝えたいと何度願ったことか。
心優しき幼馴染の想いを守りたかったがために、人間の親子を自らの責任において監視すると啖呵を切り、長老衆を説得したのは他ならぬソルファイド自身である。
だが、それからの10年、親子はウヴルスの民の良き友として在り続け、いつしかソルファイドも心を許してしまっていたこともまた事実だった。
そしてそれを、この流刑船の中にいる生き残り達は知っている。知っていて、それでいて今なおソルファイドを赦しているのであった。
流刑船の中に満ち満ちた沈痛な空気に、ソルファイドは片目を薄く開ける。
(里長様とティレーが死んだ時も、このような感じだった、か)
後に知ったことだが、ソルファイドとティレーが救った人間の親子は『楔』と呼ばれる集団に属する者達であった。
彼らは竜人の滅殺に全てを捧げた「因縁」の具現のような者達であり、件の"親子"は、なんと彼らの曽祖父の代から、50年近くもの時をかけてウヴルスの里を追いかけ続けていたというのだ。
何が彼らをそこまで駆り立てたかを知るほどソルファイドは【竜帝国】の歴史に明るくはなく、因縁の正体が何であるかはついぞ祖父も語らず逝ってしまった。
ただ、里長の一族が伝える、『神々の戦い』と『人界と魔界の大戦』という二つの激動の狭間で一時存在した"竜が人を支配する"という時代。そこで、如何なる悲劇や喜劇が繰り返されたのかを、ソルファイドは推し量ることはできない。
だが、ミュン=セン帝国の思惑が何であろうと、また『楔』がどのような歴史を抱えていようと、あるいはソルファイドの知らない何者かの事情があろうとも、己の拠り所と大切な場所を奪われたのは事実であった。
父も兄弟も死んだ。「角」と「翼」の守護戦士もこの卑劣な裏切りが原因で死んだ。どちらもまたソルファイドにとってかけがえの無い親友であった。
これが一つ目の後悔である。
(それでも逃げて、生きて、必死に足掻き続けた結果がこれか)
自嘲気味に嗤う姿の、なんと力無きことか。
里始まって以来最も勇敢な『牙』の守護戦士にして、数世代ぶりの「先祖返り」としてその未来を嘱望された己の、なんと哀れなる落ちぶれ様であることか。
流刑船の貨物室に、詰め込まれるようにして押し込められた竜人は13名。
戦うことのできる者で生き残ったのはソルファイドのみであるが――敗戦の咎は集落全体で負え。
それが【肉と鎖の城】を統べる『伯爵』の怒りによるものか、それとも気まぐれによるものか、はたまたその特殊な性癖によるもののいずれであるか、竜人達に知る由は無い。
未だ治りかけ、隻眼にさせられた生々しい傷跡に軽く触れるソルファイド。
『伯爵』の底無し沼のような無尽の悪意だけは、そこから感じられた。
とはいえ、こうした落人の悲哀もまた、魔界においてはありふれており、さほど珍しいものではない。
人界で如何なる地位にあり、如何なる力を持っていたとしても、一度魔界に足を踏み入れれば魔界の貴族達の慈悲にすがる他に生きる道は無いのだから。
(俺は何に巻き込まれたのか、それすらも概要もつかめぬ)
『伯爵』は元部下たる『子爵』の下剋上の試みと10年近く争っており、竜人達が「傭兵」戦力として投入されたのもまた、そちらの戦線であった。
戦局は、近年は『子爵』の側に有利に傾いており――そこで事態の打開を図るべく、『伯爵』は『子爵』を影で支援する者達の歓心を買うための見世物を企画したのである。
実は20年ほど前には『子爵』が同じような企画を催しており、大好評を得ていた。政敵に倣い、しかし『伯爵』は趣向を変えてそれを実行する生贄として――たまたま敗戦した竜人達に目をつけた。
ソルファイドは眉間に強く皺を寄せ、ただ真っ直ぐ目の前を睨み続ける。
今こうしている間も、『伯爵』は上空からその眷属である【飛来する目玉】によって流刑船を「視て」いるのだろう。彼とウヴルスの民の付き合いは数年間に登るが、これは先祖返りした竜人や迷宮領主と化した魔人貴族にとって、長くはないが短くもない期間を共にしたことになる。
従って、『伯爵』の手口を、ソルファイドはそれなりには理解してはいた。
そしてこの流刑船の行き先と運命も、絶望を与える目的で『伯爵』は竜人達に語って聞かせていた。
(ヒュドラ、か……まさかな)
生き延びるには、ヒュドラと呼ばれ魔界の貴族達にすら一目置かれる悪竜から逃れる術を見つけるしかない。せめてもの抵抗をしてみせろ、と言わんばかりに返却された二本の愛剣に目を下ろす。
(よしんば生き延びたとして、その先に何があるというのだ)
里長も、三人の守護戦士の内二人もが死んだ。
生き残ったソルファイドには里の者を導く責任が残ったが、それすらも異界の権力者の前では戯れに踏み潰す玩具でしかなかった。
己の中の諦念と後悔、そして不条理なる運命への憎悪と、不甲斐ない自分自身への激烈なる怒り。
その狭間でソルファイドは揺れていた。
これが彼の二つ目の後悔である。
***
二週間の航海。
竜人の強靭な生命力を以ってしても、これだけの時間を飲まず食わずで過ごすのは拷問に近い。
体力の弱い者から倒れてゆき、数刻前には最後の一人を看取ったところだった。
ソルファイドは己に怒りを募らせる。
だが……それは無力さに対するものではない。
一人死ぬ度に、心が軽くなる。
そんな自分に愕然とし、怒りを覚えるのであった。
力ある者としての責任感と諦念とが重しとなって、ソルファイドの中で燻る"ある感情"を抑え続けてきた。それは、ウヴルスの民が二百年かけて抑制し、封じ、捨て、かなわず御そうと慰撫し続けてきた、竜人の"憤怒"そのものである。
数多の悲劇と憎悪を生み出した【竜帝国】の時代に残された大きな傷跡の原因であり――おそらくは『楔』の者達が竜人を断罪せんとする"罪咎"の源泉。
心が軽くなるたびに、ふつふつと、めらめらとソルファイドの中で"憤怒"が燃え上がる。そのことに対する戸惑いと、悲しみと後悔の念ですら、憤怒の灼炎に焚べられていくようだった。
血の気の多い性分ではあったが、ウヴルスの教えにより身につけてきたはずの、節制と自己律心の教えが自らの魂から焼け崩れ去っていく。それを、改めて律し直そうという気は起きなかった。
愛剣【焔竜の吐息】と【灼竜の眼光】を両手に握りしめる。
嵐と高波の荒海を抜けた先、絶海の不気味な静寂の中で、ソルファイドは確かに感じた。竜人の太古の祖先たる存在と非常に近しい者の、大きな大きな気配が近づいていた。
海鳴りが衝撃波のように押し寄せる。
幾重にも折り重なる重低音の唸りと咆哮が、深き海底から響き来たる。
海の広大さの前には流刑船ですら木っ端の如く、ただそれだけで、ギシギシと激しく揺さぶられるのみ。
それすら――高揚を感じた直後には、怒りに焼べられる。
次の瞬間、轟音とともに流刑船が引き裂かれ、天地がひっくり返るような衝撃とともに火竜の戦士ソルファイドは虚空へと放り出された。




