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本編-0115 ナーレフ騒乱の始まり

【盟約暦519年・跳び狐の月(4月)・第4の日】

【~転移172日目】


オーマが異形の眷属達を、支配する迷宮(ダンジョン)【報いを揺籃する異星窟】への"裂け目"ごと(・・)率いて進軍を続けている頃。


関所街ナーレフでは、奴隷競り会場の襲撃が『森の兄弟団』による破壊活動であったと住民達に正式に布告された後に、時機を合わせ「代官ハイドリィが兵を起こした」との噂が街中を飛び交っていた。

だが、こちらは正式な布告ではなく、あくまでも「噂」。その裏の意図は、かねてから『森の兄弟団』への関与が疑われ、泳がされていた"ネズミ"達の一斉逮捕のための呼び水であったが、その事実を知るのは一部の代官邸に務める者達や、街の守備を務める【紋章】家の輪番兵達である。


殺害された監察官サーグトルを除いて、他の全ての"側近"と知られる人物が街から姿を眩ませ、また"魔導部隊"が厳重に封印された「檻」を夜半に街から運び出したという目撃もあったことが――今も、まことしやかに囁かれているに過ぎない。住民達の間では。

しかし、反逆分子の処刑などに際しては、必ずと言って良いほど住民達の前に姿を見せて執行を宣言していた勤勉なる代官ハイドリィその人もまた、この間行方を眩ませたままでいたことも事実であった。


ただし、その裏では老若男女はおろか身分すら問わない逮捕・拷問・処刑が速やかに執行されている。

『鼠捕り隊』は確かにネイリーの裏切りによって壊滅したが、【紋章】家の闇を司るロンドール家の"手足"は一つではない。『鼠捕り隊』は、あくまでその選良達のうち『森の兄弟団』に関わる秘匿任務を帯びた者で構成されていたに過ぎず、「拉致」「襲撃」などを専門とする治安部隊もある。

ひとたび号令さえくだされれば、この嵐のような粛清劇も……実行それ自体は、まるで夜のそよ風のように不気味かつ静やかに済んでしまうのである。


それでも、ナーレフの統治に携わる者にとって『森の兄弟団』という反乱分子の存在が大前提であった。だから、何かきな臭い動きがあれば必ずと言っていいほど、最初に動くのが『鼠捕り隊』である――という鉄則が崩れたことが、皮肉ながらも不穏分子達にとっては完全な不意討ちになってしまった。


「ハイドリィの腐れ外道め。まさか子飼いどもを始末していたとは思わなかった」


無論、それはネイリーに手を噛まれた代官ハイドリィにとっての皮肉。

粛清劇に巻き込まれかけ、首の皮一枚で窮地を脱し、今また関所街から逃れようとする一人の若き文官もまた、己の不運を想像力の限りの罵声で呪っていた。


やたら年上の女性に好かれる愛嬌ある人懐っこそうな顔立ちを、死んだ魚ように半眼にした双眸が台無しにしている青年の名はレドゥアール。小さな商家の出身で身を立て、【紋章】家の正規の『文官登用合試』を経て採用された口である以外は、何らかの"裏"の繋がりを持つわけでもない。

しかし、『長女国』の【魔導の才】を持った若者達によくある(・・・・)歪な選良意識と世間知らずさからは無縁の青年であり――レドゥアールは、関所街ナーレフへ送り込まれたことを「特大の貧乏くじ」であると認識できる程度には、【紋章】家の内部事情を洞察する眼力に恵まれていた。


『長女国』では、従来は「大都市」や「大拠点」というものは【晶脈】の管理に重要な、魔法学的な意味での魔力の結節点のようなところが多数であった。

しかし、数百年間の荒廃との戦いは実りを迎え、ムラがあるとはいえ災害の抑制に成功。国土の豊穣化が為される中で――あるいは物流、あるいは資源採集、あるいは消費の「拠点」として、経済の結節点としての「都市」が、各地に急速に現れるという社会変化のただ中にもあった。

こうした「新しい」拠点は、必ずしも【晶脈】の管理上は有益な土地というわけではないからこそ、魔導貴族達の血縁関係と寄親寄子関係に基づいた【魔導侯・鎮守伯】制度による統治では、機動力に欠ける。それでも尚、繁栄の"果実"を収穫することを欲した魔導貴族達が「徴税のために」己の代理人を派遣するようになり――「代官」制度が発展してきた。


そんな事情は【紋章】家でも同じである。彼らはナーレフという"飛び地"をこうした手法で支配しているが、このために、統治機構の構成員を補充する上で2つのことに注意しなければならなくなった。

1つは、ナーレフの『森の兄弟団』などが典型的であるが"現地の反抗勢力"の構成員なんぞを、間違っても代官邸に招き入れて、情報を垂れ流すだなんてことの無いようにしなければならないこと。そしてもう1つは、送り込んだ長たる代官自身の叛心(・・)を警戒しなければならない宿命にあること。


こうした背景から、駐留部隊には「輪番兵」が存在しており、また同様に「輪番文官」とも言うべき者達が在るのである――文官達にとっては【紋章】家の"本領"からこうした地域へ送り込まれることを「左遷」と捉える者も非常に多い。


だが、中には直々に代官に対する監視役の任務を与えられる者もある。


同じ考え方が、"懐刀"であるロンドール家に対しても……いや、ロンドール家であるからこそ、より厳しく適用されていたわけであるが、代官ハイドリィが狡猾であったのは、わざと『森の兄弟団』を跳梁跋扈させ「本領」から送り込まれる文官達の割合を非常に高くしたこと。

端的に言えば、騙し、脅し、切り崩し、魅了し、(そそのか)すことで少なくない数の文官達を己のシンパに変え、その野心のための手足としていた。当然、【紋章】家もそうした動きを察知しており、新たな「ネズミ」を紛れ込ませて監視する。


主家と読み合い、駆け引くハイドリィもまたそのことを熟知しており――『鼠捕り隊』に対処させるのは必ずしも「森ネズミ」だけではなく、必要があれば摘発や濡れ衣を着せて一網打尽にするための名簿は、ずっと前からできあがっていた。

水面下でそんな微妙な緊張関係が続く関所街であるが、ハイドリィが「果実」を生み出す限りは【紋章】家も監視を消極的なものに留めていたのである。


レドゥアールは、彼自身にすれば人間不信な性格を形成するのに大いに役立った鋭すぎる観察力から、いち早くそうした"厄介な構図"に気づいていた。そして、面倒事に巻き込まれたくないという理由で、ハイドリィ派の前ではシンパのような顔をし、監視役達の前では事情を理解している風に……要するに綱渡りをしていた。そうして、あと数ヶ月後まで迫った「次の輪番」で侯都へ呼び戻される日をひたすら待ち、両派の全くもって非生産的な争いから距離を取っていたのである。


急病を理由に、強引にその日の参内をやり過ごし、任ぜられたる職務も放っぽりだして荷造りに励むレドゥアール。

"出奔"に必要なもの、必要でないものを即座に見分け、手荷物を仕分けていく手際は、彼の文官としての実力を示すささやかな要素であるか。焦りは示せども、限られた時間の中で最善を尽くしているというべきだろう。

だが、真に「有能」であることを問うならば、そもそもこんな焦らなければならない状態まで事態を察することのできなかった迂闊(うかつ)さを(なじ)るか。はたまた、圧倒的に不利な環境下で、よくもまぁ己が命運を首の皮一枚で保つことに成功した悪運の強さを勘定に入れるべきか否か。


商家の出自であることを買われ『次兄国』商人達との取引なども担当させられていたところ……たまたま、まだまだ商機が尽きないはずであるのに脱兎のごとく関所街を後にする大商人達と、彼らを恨めしそうな目で見送る【奴隷連ナーレフ支部】の「支部長代理」の引きつった笑顔を目にしたレドゥアール。


その時の違和感を捨て置かなかったことから、情勢の急変をいち早く察せた。

――はたして、手荷物を取りまとめ、


『"空城の計"により「森の兄弟団」を誘い込み、内と外から挟撃して殲滅する』


などという、監視対象であるはずの代官ハイドリィからの下命を信じ込まされ、僻地で勲功を挙げられることへの期待感を高めている輪番兵だらけ(・・・・・・)の検問を通って、若きレドゥアールはナーレフを逃げるように後にした。


   ***


【火】の魔力が爆ぜ、奇襲を受けた検問が混乱に陥る。

【風】の魔力が呼び起こされ、強風に煽られた火炎が一気に燃え広がる。


よもや『森の兄弟団』が"魔法"の力を扱うなどと想像もしていなかった検問の兵士達は、瞬く間に屠られた。そしてその騒ぎを合図に――ハイドリィによる摘発を運良く(・・・)免れていた、ナーレフの「内」にいる最も過激な『兄弟団』構成員やそのシンパ達が暴動と工作と治安維持兵達に対する撹乱を開始する。

そして彼らもまた――魔法の才を持たぬはずが、一体どのようなルートでそのような代物を手に入れたのか、懐から取り出した【紋章石】を惜しむこと無く放りなげて騒乱を加速させるのである。


「全てはこの日のためだった、死んで"貴婦人"の御下へ馳せるか、生きて"貴婦人"の土地を奪い返すかだ! 突撃しろ、兄弟達ッ! 俺に続けッ!!」


(とき)の声と共に内外から挟撃されたのは、むしろ関所街の南北2つの検問であった。

勇士にして新団長であるサンクレットの号令下、数百名にも上る武装した『兄弟団』の団員達が突破された検問に突入する。

"反抗勢力"としては信じられないほど質の良い、手入れの行き届いた装備は、正規兵である駐留部隊を相手にしても引けを取るものではない。加えて【紋章】家の軍隊が扱うはずの【紋章石】も扱うことから、騒乱の最序盤でナーレフ守備兵は完全に押し込まれるに至る。


快進撃の種は単純な話である。

――ハイドリィがあえて『兄弟団』を肥え太らせるために略奪させ、あるいは襲撃させていた商隊や、密輸組織等の中に、粗悪品とはいえ【紋章】家の技術で作り出された【紋章石】の横流しを行う者達があった、というだけのことである。

だが、限定的といえども「魔法の力」を得たとはいえ、相手はその力の作り手である【紋章】家である。対して『兄弟団』は魔法に関しては素人集団であり……検問は突破されたとはいえ、いくつかの"詰め所"に兵力を集めた駐留部隊の連隊長などが、対抗魔法や、襲撃を報せるために通信用の魔法を込めた紋章石を発動させて抵抗しようとする。


「……くそ! なんだこれは、補給はどうなってるんだ!? なんでこんな粗悪品ばかりなんだッッ!」


『森の兄弟団』にハイドリィが密かに供給していたものが"粗悪品"であるならば、この日(・・・)のためにナーレフ駐留部隊に支給されていた【紋章石】は、もはや"失敗作"であるか、見た目だけそっくりな"模造品"であるとしか言えないほどの劣化物。

「対抗」も「抵抗」もできず、高価で希少な伝言魔法【アイギェルンの言の葉(ことのは)風】の【紋章石】ですら、まともに発動しなかったのである。これは、ハイドリィから指示された『内外からの挟撃』の肝となるものであり、【紋章】家の正規軍であっても1部隊に1つ支給されるかどうかという、非常に貴重なものであったはず。


ロンドール家の嫡子が、さすがにこのような手落ちをするはずがない。

事態を察した連隊長もあったが、時は既に遅く巻き戻すこと能わない。


「謀りやがったな!? ハイドリィ、地獄に落ちろッッぐはぁ……ッッ」


主力たる「魔導部隊」はハイドリィの率いる本隊と共に"外"で出ていたことから、兵装で並ばれ士気で負けた上に混乱状態で挟撃され、味方からも裏切られていたことを悟った関所街内のいくつかの詰め所も、四半刻と経たずに陥落する。

降伏しようとする者達もいたが――サンクレット以下、ハイドリィの冷酷な統治への『兄弟団』の憎悪は深く、いずれもがその場で、彼らの仲間や兄弟家族友人の誰かと同様に縊り(・・)殺される結果となっている。


その様を見て、息を潜めた商人達や地下に身を隠した"闇"の勢力の者達などはさておき、日和見をしていた旧ワルセィレ住民達も徐々に蜂起に加わる。

最終的には二千人に近い群衆を率いて、サンクレットは代官邸を包囲。援軍のあてのない籠城が長続きするはずも無く、ついに、旧ワルセィレ住民達にとって支配と絶望と屈辱と諦念の象徴でもあったはずの代官邸が、猛攻の末に陥落するに至ったのであった。


――だが、指揮を執った団長サンクレットは表情を曇らせて怒号を飛ばす。


「ハイドリィはまだ見つからないのかッッ!? それに、ハーレインはどこに行ったんだ! ベネリーさん達は!? おい、これは……どういうことなんだ?」


副団長にして身中の虫であったハーレインの死を、『兄弟団』は知らされていなかったのである。

故に、ここまで手際よく、20年以上もの過酷な統治が嘘と思えるほどにあっさりと「ワルセィレ」を奪還できたのは、「内」側からハーレインが呼応してくれたからこそのものであると考えていたサンクレットは……さすがに、嫌な予感を覚えたのである。それだけではない。ハーレインに加えて、本来は「このような」時に内側から住民を扇動して合流するはずだった「幹部連絡員」達の誰からも連絡が無かったのである。


だが、彼の下についていたのは、元より「工作」と「略奪」を関所街の内外で分担してきたうちの「外側」の荒くれ者達である。団長としてのサンクレットの"心配"を気にかけつつも、事実としては代官邸を制圧し、長年の支配を覆した高揚に浮かれない者はいない。

そんな彼らが、合流した旧ワルセィレ住民と共に『長女国』シンパ狩りを勝手に始めないように止めて回ることにサンクレットは忙殺されることとなる。嫌な予感がしており、街を取り戻した今、本当はすぐにでも「泉」へ向かうべきだと直感していたが――部下や過激な団員達が、捕らえた駐留部隊の生き残りや、ハイドリィの統治に協力していたと「思われる」住民達に対する処断を見過ごすことになる。


こうなっては、堪らないのはワルセィレがナーレフと名を変えてから住むようになった新しい住民達である。【紋章】家の移民・植民政策によって、人口ではむしろ彼らがナーレフでは多数派になりつつあったのであるが――魔女狩りの生贄になってはかなわないとばかりに、息を潜めるのを止めて集団で逃げ出そうとする者が現れる。そんな避難者達が殺到する南北の検問を、一度自らの手で破壊していた『兄弟団』が守りきれるはずもなく。


新旧の住民が衝突し、サンクレットはそれへの対処に追われるという、関所街における騒乱の第二幕が早くも上がる。

だが、騒乱の本質は関所街それ自体ではなく、そこから離れた"泉"の周辺で起きた凄惨な闘争であることを、住民達も『兄弟団』の者達も、この段階で知ることはついぞ叶わないことであった。


   ***


「森ネズミどもめ、そのまま"不穏分子"どもの駆除に掛かりきっているがいい」


本物(・・)の【アイギェルンの言の葉(ことのは)風】の【紋章石】から、ナーレフの地下に潜らせた監視役の部下からの報告を受け、ハイドリィは微笑みを浮かべて言葉を漏らした。

準備が万全に整わず、成功率が7~8割程度という中で決起させられた(・・・・・)自覚はあっただけに、賭けの勝利に、己が天運を感じずにはいられない。ハイドリィは当初から「輪番兵」達を始末させるつもりであり――占領されたナーレフと、その外で主力を率いる自分自身という構図さえ作れれば、【紋章】家の本軍の介入を阻止する言い訳などいくらでもできる。


「非ワルセィレ」でありながら反抗する可能性のある不穏分子は、幹部連絡員達という理性役を失った『兄弟団』の暴力に抵抗して潰し合うことになるだろう。

元より関所街ナーレフの価値は、「迷宮開放」の恩恵を受けることのできるその経済拠点性にあり、新しかろうが古かろうが住民にいくら犠牲が出ても痛くない。今後取引を結ぶべき商人達には事前に情報を流して街からの退避を促しており、また利用しあうべき"闇"の各組織にも事前に警告をして身を隠れさせた。

騒乱の収拾後は、彼らを通して各魔導侯家と交渉して、半独立を勝ち取った己の外交的な立ち位置を固めていくことに全霊を注がなければならないだろう――ハイドリィの目は既にこの騒乱の"先"の立ち回りを見据えていたのである。


だが、ハイドリィの呟きを耳にした二人の"側近"は、それぞれにまた異なる感想を抱いていた。


「おい、デカ物。関所街が陥落したことの意味を、お前はわかっているか?」


「当たり前よッ。闘いが近い――俺には分かるぞ、あの竜人との再戦が近いッッ! (つわもの)の勘って奴だ、今度は逃さんッッ」


獰猛な笑みを浮かべる"同僚"に眉をひそめ、あるいは予期していたかヒスコフは額に手を当ててため息をつく。分かってはいた事であるが、会話が噛み合わない。


「色ボケが死んで、梟の爺さんが裏切った。実直さだけが取り柄の堅物と、戦うことしか頭にないデカ物だけ抱えて、ハイドリィ代官がいつまで保つと思うんだ? お前は」


「何ぃッッ? それだけ"まじない"の上手な手下を抱えておいてッッ、またぁ心配性が出たな優男めッッ。どれ、気合を入れてやろうッ」


犬歯を剥き出すデウマリッドが気安く豪腕を振って肩を叩いてくる――「気安く」というのはこの"巨漢"にとってという話であることに気をつけなければならない。

身長も体格も差がありすぎるため、鎧を着ていても嫌な予感がしたヒスコフが防御魔法を唱えて貴重な魔力を消費し、それを受け止める。受け止めなければ、数メートルは吹っ飛ばされていただろう。


――こうした"巨漢"とのやり取りも、不本意ながら、もはや非常に慣れたもの。


「サーグトルは嫌な奴だが良い奴だったよ、お前とかいう歩く炸薬を押し付けやすかったんだがなぁ」


「心配の"種"なんざ摘み取りゃいいじゃあねぇかッッ? 出奔(いえで)はいいぞッ戦友(とも)よ」


「代官に聞こえるわデカ物。なんだって、お前のその"声"は魔法の防音を突き破るんだ……常識外れの蛮族め」


ヒスコフは今年30も半ばを迎える。

自己分析の通り、名も無い兵士から叩き上げた実直さだけが取り柄の男であるが、それでも、魔導部隊を率いる隊長。身の処し方次第では【一代爵】を目指す芽はつかめる――ハイドリィから、そういう誘いもかつてあった。

だが、彼はかつて、多くを望みすぎて身を滅ぼしてきた同世代の若者達を嫌というほど見てきた。だからこそ、そのような終わりなき上昇気流に身を躍らせ軟着陸など望むるべくもない、熾烈という名の街道へ踏み入ることを避けたのだ。


だが、"魔法の才"――余人よりも少しだけ多くを為しうる力を中途半端に持ってしまったからこそ、できることをしてきた、その「できること」の範囲が少しだけ広かったために、今こうして都市駐留部隊の魔導兵部隊の長などを務めている。

開墾村の三男坊の出としては、それだけでも過ぎた出世というものだろう……そう自認していたことが、自身と墜落(・・)していった「才有る若者」達の違いであると考える程度には、達観しているのがヒスコフという男であった。


技を研鑽し、多くを望まず、与えられた役目をこなして静かに生きていく、という今の己の在り方をそれなりに気に入っているのも事実――いささか騒々しい声のでかすぎるデカ物に、何の因果か気に入られてしまったことが、最近一番の不覚か。

そんな彼だからこそ、ハイドリィの"構想"がいささか泥舟化している疑惑があったとて、今この段階で出奔することを良しとしなかった。故郷から遠く離れた土地での己の槍働きが、巡り巡って故郷の豊穣を支えるものである、という程度には「晶脈ネットワーク(この国の仕組み)」について理解できるようになったが故に。


「根無しの草には、俺の気苦労なんかわからんだろう。いや、お前は"草"というより――そうだな、荒波にもまれる無駄に頑丈な"流木"というところかなデカ物」


「言葉遊びをしやがるなぁッッ、故郷の祈祷師(シャーマン)どもだって、もう少し"氷を割った性質(たち)"ってぇなもんだが――ッッ、うんッッ? ちょっと待てよ、ほうッ……こいつは驚いた、なんてぇ居心地の良い寒さだッッ」


北方蛮族の出身であるデウマリッドが何か懐古し始める。

が、どうせ、単に邪魔しに世間話に来たに過ぎないことを腐れ縁から理解していたヒスコフである。部下達に命じて【火】魔法を合同詠唱、有無を言わさずに(あぶ)って部隊から追い払ってしまうのであった。


そろそろ、気を引き締め直さねばならない場面。

目的地たる「泉」までは、もうすぐ近くだった。


嘘の情報で(にえ)とされた「輪番兵」達と異なり、ハイドリィが手に塩をかけて私兵化してきたナーレフ駐留軍である。兵数こそ多くはないものの、その軍勢としての練度は【鎮守伯】家としては上位に入るもの。予定よりもかなり前倒し決起したにも関わらず、小隊長や兵士達は即応し、災厄によって雪でぬかるむ森の中の悪路をものともせずに、ここまで踏破してきた。

その秘密こそは、この日のために少しずつ横流しし蓄えてきた、良質の【紋章石】を惜しむこと無く投入したこと。身体強化系によって兵士達の行軍能力自体を底上げし、【火】の魔法が込められた【紋章石】によって防寒対策も成されている――というだけでも、その軍勢の適応能力の高さがわかるであろう。

まさしく、彼らもまた伊達に【紋章】家の系譜にあるものではない。今この瞬間は【紋章】家の本軍にも匹敵する練度となっていよう。


そもロンドール家は他の"走狗"達と異なり、【魔導侯】家の中で持つ力が相対的に大きい。古くは北方蛮族の祈祷師(シャーマン)を出自とするディエスト家が『長女国』で成り上がる際に、その牙とも杖とも頼まれたのが今の地位の由来である。

そんな父の代までの忠勤の結実として、最近は【紋章石】の輸送も一部任されるようになったという、その果実をハイドリィは存分に活用したわけである――(おも)に主家に剥いた牙を隠す、というような意味において。


【紋章】家軍の特徴に話を戻せば、そこには、突出した個人的武勇に率いられた【魔剣】家軍の(いかずち)の如き破壊力や、『生命』魔法を駆使する【聖戦】家軍の津波の如き深攻力のような派手さは無い。

しかし、低位の魔法ながらも、それによって引き起こされる力を"量産化"し、従来あまり考慮されなかった一般の兵士達の継戦(・・)能力を底上げすることで、フィーズケール家もラムゥダーイン家も抑えて【継戦派】を率いる魔導侯家こそが【紋章】のディエスト家なのである。


「ヒスコフ、用意はできているな? この私の【奏獣】の号を世に知らしめる、その記念すべき第一歩だ。そしてその核になるのは、お前だ!」


()【魔導侯】家の筆頭宮廷魔術師か、軍権の長か、好きな方を選べ。

ハイドリィがいつになく上機嫌であるのを、しかし慎重にして堅実なるヒスコフは、賭けが潰えることへのわずかな恐れを鼓舞しようとする姿勢であると見て取っていた。だが、それでも与えられた役目は役目である。

部下達を見回してから、ハイドリィに向けて首肯するヒスコフ。


しかしその直後で――"巨漢"の、追い払う直前の、懐古のような言葉がいやに頭に引っかかった。


(『居心地の良い』寒さだと? 雪国出身の奴がそう言う――つまり"冬"が強すぎる、のか? 待て、それはつまり【泉の貴婦人(ルル=ムーシュムー)】が劣勢……? いや、まさかそんなはずは――!)


思わず考え込んでしまう。

足を止めかけるが、大事な局面であることを知る優秀な部下達に急かされてしまっては、ヒスコフも気を切り替えざるを得ず。

斯くして、ハイドリィが警告を受け取る最後の機会はするりとすり抜け去った。


異変が起きたのは、「季節の司」と呼ばれる特別な性質を持った、特殊な魔獣達を閉じ込める"檻"に向けて、ヒスコフ以下の魔導部隊が【奏獣】のための魔法を詠唱し始めてから、数分も経たぬ内のことである。

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