本編-0110 花カマキリと老フクロウ
ゼスタル士爵家は【紋章】のディエスト家の走狗として悪名を馳せるロンドール家の従臣である。古くは、300年前に断絶した過去の魔導侯家たる【驟雨】家の――私生児の系譜にあると称するが、一度は平民に落ちたところを、高い魔法の才を持った家祖ストラが興した男爵家から、近年昇爵したばかりであった。
『鎮守伯』が【魔導侯】から割り当てられた一地域の魔法属性バランスの調律実務を担うならば、『測量士爵』はその手足となって具体的な属性の偏りを監視・調査する役割である……しかし、ゼスタル士爵家が仕えた『鎮守伯』家は、表向きの身分としてそれを与えられたに過ぎない者達であった。
彼らは"表"の仕事を行う傍らで、ロンドール家が他家と"表にできない"交渉を行う時の密使の役割を担わされて、知るべきでない秘密も知る機会があった。故に、夜の勢力や高位貴族など事情を知る一部の者達からは、いずれ消される人身御供であると見なされていた。
そのことをゼスタル士爵家自身は知らず、しかし、ロンドール家にとってはこれまで何度も繰り返してきた日陰での営みの一つでしかない。
――そして少女スセリにとって真に不幸であったことは、人生で最も喜ばしいはずの記念日に、全ての運命が暗転したことであった。
「【紋章】家への弑虐を企てた咎で、お父さんは処刑。残された家族達は身分剥奪の上、奴隷としてどこへ連れ去られたとも知れない――貴女自身も、この街で、歪んだ趣味を持った成金に売り払われるはずだった……辛かったね。人生は、どうしてこんなにも酷くて苦しいんだろうね?」
救貧院へ『人物鑑定士』の使いを名乗る女性が現れた。
彼女は院の実質的管理者であり、スセリにとっても恩人であるシーシェを訪ねて来たというが、ちょうどラシェットを荷物運び役に買い出しで不在にしていたところを、代わって応対した。
一応はこの国の貴族階級の端くれであったスセリは、ミシェールと名乗る女性の隠そうともしない高貴さに"雲上"の気配を感じ取る。そして、近頃の"天災"とも言われる怪しい天気模様についての雑談から始まった会話であったが――その結果が、これであった。
彼女の、人の心の揺れ動きを見抜く透明な眼力に、畏怖と感動を覚えてしまう。救貧院での暮らしに不自由していないか、何か必要なものがあるかといった世間話から、スセリと同じようにシーシェに救われた子供達や、ラシェット少年とその亡き友の弟妹達の話題などを話していると時が経つのも忘れる。
「家族を失うことの辛さを、私もよくわかっているよ。別にその平民のラシェット君とこれからどう……ということでもなくて、今は貴女にとって救貧院が新しいお家。みんなを取りまとめないといけないシーシェさんを支えるために、貴女も強くならないとね? 家族を護るために」
"奴隷"の烙印を押された日の恐怖については、ラシェットにすらまだ話せていなかった心の内までをも、失った母や乳母を思い出すような抱擁にも似た温かさの中で、とつとつと語らさせられてしまう。彼女の瞳は、そんなスセリの絶望すら吸い込み、受け止めて動じない夜空の如き透明な暗さをも湛えた暖かさであり――気がつけば、まるで囁くように、ラシェットへの恋心を言い当てられてしまう。
無論それだけではなく、スセリがすべきこと、果たすべき役割について、求められる在り方について、とても真摯に考え提案し助言をしてくれるのである。
――そして、その中で、スセリは関所街ナーレフの代官ハイドリィと"雲上"の存在の一つ【封印】のギュルトーマ家との間で行われた"取引"について聞かされた。
ゼスタル士爵家がその片棒を担がされ、秘密を知りすぎたというだけの理由で、ロンドール家によって罠にかけられたということも知ってしまったのである。
家族を殺され、離散させられた衝撃と悲しみ。
手を差し伸べられたシーシェへの恩と感謝。
失ったものは戻らないという絶望、諦念。しかし、また新しく得ることができるものもあったのだというささやかな喜び、ラシェットへの恋心。
そうした感情が綯い交ぜになり、あるいはさせられたことで、スセリは"奴隷"に落とされるに当たって、もう枯れ果てたと思っていた「激しい感情」を思い出しつつあった。なぜならば、
「復讐したい? そのための力が、欲しい?」
と、とても甘く甘くミシェールが"囁く"のである。
これまで一心に聞き手に回っていた彼女の、透明な眼光の裏にある粘ついた焔のような情念の片鱗が垣間見えたことで背筋が冷えるような想いをするが――同時に、堕落するような心地よさを感じてしまう自分に、スセリ戸惑っていた。
「わ、私は――」
「スセリ……そこの"雲上人"みたいに高貴でいらっしゃる方は、どなたかしら?」
己の秘められた願望を言い当てられ、あるいは誘導して言わされそうになったところのことである。院の主であるシーシェが戻り、声をかけてきたのであった。
そして一言二言ミシェールと会話をして、彼女を応接室へ連れて行く。
残されたスセリは、救われたという心地を覚えつつ、同時にわずかな残念さも心の中で感じている自分に、改めて戸惑うのであった。それは、ラシェットが「手伝ってくれ!」と大声で呼んでくるまで続いた。
***
スセリに、主オーマを真似て囁いてみたのは、ミシェールにとってシーシェを待つ間の時間潰しでしかなかった。
それでも、そんな平民上がりの元下級貴族の娘でも、何ぞ「秘められた才能」とやらが開花するならば、主の役には立つことだろう。そうでなくとも、観察の事例にはなるだろう――自らも『探求者』の側面を持つ一族の末裔として、ミシェールはそのように考えていた。
そして、訪問の目的についてシーシェに切り出す。
「兄がお世話になったとか」
「……あの"雲上人"の妹君でしたわけですね。道理で、その探るような魔力の流れの、質が似ておいでです」
「へぇ。『鎮守伯』家の出というのは、嘘ではないみたいね?」
「過ぎた話です。今は、過去の過ちの贖罪に生きる"花の蜜"――ご用件はわかっています。次の『奴隷競り』のことですよね?」
『罪花』の娼婦シーシェと奴隷商会連合ナーレフ支部の間のトラブルを利用して、代官ハイドリィの側近サーグトルを陥れる段取りをル・ベリが取りまとめた。その舞台となる、次の大型の"競り"が、2日後に迫っていたのである。
今回、ル・ベリが主オーマの側について【泉の貴婦人】を押さえに行ったことから、代わりの始末も兄妹に委ねられていたが――。
「ディンドリー氏には、会われないのですか?」
「会う必要性を感じないかな。段取りは頭の中に入っているし、せっかくの趣向だからね、もっともっと有効活用させてもらわないと」
日付や場所の他、主催者である奴隷連ナーレフ支部側の参加者や会場の配置。"競り"に参加する主な顧客のリストと、サーグトルを始めとした代官邸側の動き等。シーシェから聞き出した、あるいはディンドリーから提供された情報を『止まり木』でルクと共有し、当日の動きを微修正しながら、ミシェールは薄い笑みを浮かべ、目を細めてシーシェに水を向ける。
「スセリちゃんや子供達を助けたことが、貴女にとっては贖罪?」
「……本当に、ル・ベリ様と同じ主に仕えているようですね」
さらりと確認し、シーシェの反応を見たミシェールの笑みが、最初の薄い笑みと比べてニタァと深みを増す。
「駄目じゃない、ル・ベリさんがこの国の制度に詳しくないのを良いことに、中途半端なことを言っちゃ――奴隷の身分からは、どうやって解放するつもりなの?」
『長女国』においてもそうであるが、"奴隷"とは扱い方ではなく法に記された身分制度の一部である。シーシェがいくら子供達やスセリを「奴隷扱いしない」ように心がけたとしても、それは根本的な問題の解決にはならないだろう。
あるいは、ナーレフ支部に全ての『奴隷証』が保存されていれば、それらを襲撃の際に焼き払いでもすれば、世人にはわからなくなるだろうが――全ての奴隷の記録は王都や、各々の地方を管轄する魔導侯家の侯都等にもあるのである。
それを"正攻法"で破棄させるほど現在のシーシェに力があるわけでもなく、かといって"非合法"の手段でそれらを無かったことにさせられる類の力があるわけでもない、というミシェールの指摘にシーシェは唇を噛むしか無かった。
「そこまで考えがあった上での"千人救う"なのかと思ったけれど。でも……自己満足とまでは言わないであげる。少なくとも、貴女が彼らを"人間"扱いしているのは事実だから、ね」
でも、と黙り込んだシーシェの背後に回り、その両肩に手をおいて、耳元に口を近づけて"囁く"ミシェール。
「根本的な解決にはならないと思うんだよ。貴女が生きているうちは、まだ良いかもしれないけれど、その後はどうするのかな?」
「お金を貯めて『次兄国』へ逃すつもりです」
「お嬢様育ちなんだね。『罪花』の"蜜"にされてちょっと擦れたつもりかもしれないけれど、世間知らず……ふふ、『次兄国』に新しい船乗りを千人供給してあげて、彼の国の経済事情を良くしてあげるつもりの間者だったのかな?」
「お戯れを、雲上人様。お言葉ではありますが、私の考えや言葉を片端から否定されたいだけ、ですよね?」
「バレたかな? ――じゃあ、本題」
ミシェールの手指が肩から首筋へ這い――しかし、その指がどこに向かってまさぐり進むかに気づいて、シーシェはそれが官能の類とも異なることを悟った。
「あったね」
結い上げた髪と、耳元のうなじの境目に小さく刻まれた"印"を探り当てられて、シーシェはミシェールの来訪の真の目的を察する。常人がその"印"の意味を知れば、好色な男以外は避けようとするもの……すなわち『罪花』に隷属する女達の証たる、蜜の溢れる花をあしらった刺青である。
しかし「雲上人」たることを否定しないこの少女にとっては、それは異なる意味合いを持つ。その"方法"も、おそらく知っていることだろう。
「……痛ぅ」
「うん? 痛むんだね、それは知らなかった、ごめんね」
刺青に対して、何らかの魔力が注ぎ込まれた気配。
それが蜂にでも刺されたような鋭い痛みを伴ったことから――ミシェールが何をしたのかシーシェは確信した。
「『蜂』を呼び出して、どうされるのですか?」
相手が「雲上人」でないならば、お前も娼婦になりたくなったのか、と嫌味の一つでも返してやりたかったところであるが。
スセリに対してもよからぬ感情を吹き込もうとしていた、ル・ベリと同じ主に仕えるというこの少女に対して、シーシェは最初から警戒心しか抱いていなかった。そのため、『罪花』の"蜜"として働く際に扱う【幻影】魔法を自分自身にかけることで、感情の動きや心の揺れ動きをわざと鈍くさせていたのである。
「いつも思うのだけれど、『罪花』の創設者は、きっとおとぎ話好きの夢見る少女だったのかもしれない、と思うんだ。"花"とか"蜜"とか、"蜂"とかね? でも、それが彼らの在り方だからね」
「詳しいのですね、ミシェール様。ならば、それが男達に"夢"を見せる女達をかどわかす女衒業と結びついたのは、きっとその少女にとっても皮肉な顛末のはずです」
「『蜂』を呼び出した理由を、貴女は知らなくて良い。でも、貴女には"救う"ということがどういうことか、ついでにだけど教えてあげるよ?」
真顔になったミシェールが、シーシェの知らない属性配合のなされた"魔力"を、うなじの刺青に注ぎ込む。その瞬間、シーシェはまるで焼きごてを首の内側から当てられたかのような焦げる激痛を感じ――。
自分の中で、今の自分を作り上げてきた数年間、途切れることのなかった繋がりのようなものが断たれたのを感じ取る。そして、すぐにその意味を理解した。
「"蜜"を失ったんじゃあ、さすがに"働き蜂"じゃなくて"兵隊蜂"が飛んでくるかもしれないね?」
「スセリと同じことを私に言いたいのですか? 残念ですが、私には、力がありません」
「無いなら求めればいいんだよ? 貴女には、家族を守る力が必要なのにね」
「貴女と同じ主に、『人物鑑定士』様にお仕えしろと、そう仰るのですか?」
「――ル・ベリさんが何者か、彼が何を見てきて何を思うのか、その故を知るための方法の一つでもある、と言えば食いついてくれるのかな?」
ようやく興が乗ってきた、と言わんばかりにミシェールがシーシェの肩をつかむ力が強くなる。しかし、それもわずかばかりのことで、ミシェールは手指をシーシェの顎に這わせて、さらに顔を彼女の耳元、頬の近くにまで近づけて"囁く"。
エスルテーリ伯家か、あるいは『笛吹き一座』の仇を討つべく、【歪夢】家に対して復讐したいか? そのための力が欲しいか? と。その力を、無論、子供達を救うために振るうのもまた貴女の自由なのだから、と。
シーシェはひたすら、普段は「客」達に対してかけるはずの【幻影】魔法をひたすら自分にかけ続けて、誘惑に耐え――粘り勝った。
状況を『止まり木』で察していたルクが、いい加減に止めたのである。
無論、そのような事情までは知らないシーシェであるが、ふっとミシェールが興味が移ったかのように身を離してしまうのであった。
「"競り"が始まるまで、ここで待っていかれないのですか?」
「兄様の受け売りだけれど、『蜂』の天敵って何だと思う?」
「さぁ――虫なのですから、蜘蛛などではないのでしょうか?」
「ふふ。陰謀の糸を張り巡らせている"蜘蛛"でも、空を飛び回る蜂には巣の外から刺し殺されてしまう……でも、そんな蜂の動きをじっと身を伏せて観察して、待ち伏せと不意の一撃で捕らえて羽をもいでしまう"花蟷螂"なんていう虫もいる。貴女は、ただの"花"で終わるのかな? どっちになれるかな?」
***
書斎の暗がりに、老人の枯れ枝のようなすえた臭いを感じて、ナーレフ代官ハイドリィは書類を読むのを止めた。
「ネイリーか、戻ったようだな」
「若君がお呼びになられましたれば……ほう、ほう。爺やは墓穴の底からでも駆けつけますとも」
「……私の心配事を増やして夜も眠れなくさせようとは、子供扱いも良いところだ。用件はわかっているのか?」
その"あだ名"通り、死にかけの梟の鳴き声のような独特の笑い声でハイドリィを嘲りつつ、ネイリーが目元のうずもれた皺の奥の眼光を鋭くする。
「【幽玄教団】が綺麗に手を引きましたな。【騙し絵】家の下命のようです」
「綺麗なものか。連中が荒稼ぎしていた"廃坑"で、転移魔法を以ってしても防ぎきれない大規模な落盤事故が起きた、と父の直属共から連絡があった……【騙し絵】侯が、それへの対応でかかりきりだと良いのだがな」
「何か、心配事でも?」
「『罪花』からも、この街からは手を引くという話が来た」
「色狂いのサーグトルめには、良い薬でしょうなぁ……ほう、ほう」
「それだけではないぞ、ネイリー。『付呪協』と『石材商会』が露骨に態度を変えてきている――今更になって定例会を減らしたいだとか、商業協定を見直させてもらう、などと一方的にな。取り付く島が無い」
淡々と吐き捨てるハイドリィを眺めつつ、老ネイリーはその言わんとするところを理解した。
"夜"の暗闘において、魔導侯家の名代として名を知られる「組織」を複数挙げたハイドリィであるが――このような述べ方は、ロンドール家においては当の「魔導侯家」そのものを暗喩した言い方なのだ。
すなわち、これまで警戒していた【騙し絵】の他に、相互の領分への不干渉と共存という協定を結べていたはずの【歪夢】、【魔剣】、【彫像】の各家が、不穏な動きを始めた可能性が高いということである。
「時期が符合しすぎていますな。まるで、示し合わせたかのように」
「『人物鑑定士』の奴が結節点だと私は睨んでいる。特に、あの『救貧院』の一件――【騙し絵】と【歪夢】が、あそこで繋がった可能性がある」
「はて? そうすると彼の若者は、全く誰のために働いているのでしょうなぁ」
非常に嫌な感じをハイドリィは受けていた。
派閥の枠を越えて魔導侯が合従連衡して陰謀合戦を繰り広げることなど、『長女国』においては"天災の一つ"と揶揄されるほどには日常茶飯事ではあるが――仮に、仮にであるが、今挙げた魔導侯家が連合して関所街ナーレフに対して何かを仕掛けようとしているとして。
その理由が全く分からなかったのである。
何故ならば、この街で何か問題を起こして混乱を引き起こせば、それは【紋章】侯が直々に収拾に出向いてくることを示している。そうなれば、例えば無能者のジェロームを傀儡に担いで自分を追い落とす"旨み"など無いはずである。
無論、時間をかけて「私兵」に仕立て上げたナーレフ駐留軍や……"秘密兵器"の存在があるため、自分自身が敗れるとは思っていないハイドリィであるが、それでも中途半端に【紋章】家に疑念を持たれる動きは潰さなければならない。
そして、そう思っていたところで。
今回の陰謀劇を仕掛けていたと思しき"存在"の素性が、見え隠れしてきた。
「だから、お前を呼び戻したのだ――耳が遠いくせに耳の早い死にかけめ。"怨霊"の噂は、もう聞いているな? 噂なものか、ハーレインまで始末された」
「ベネリーの小娘がどこへ逃げたとも行方知れずのこのタイミングでは、なかなかに痛い一手ですな……代わりの用意には時間がかかるやもしれませんぞ?」
「"怨霊"どもの正体、何者だと思う?」
「――爺やの読みでは【御霊】家の残党。ですが、そんな死に損ない達が、若君の部下達を襲撃して回っているとは世も末ですな。モーズテスめ、よほどロンドール家が恨みを持たれるような馬鹿な立ち回りをしたらしい、ほう、ほう」
今ネイリーが可能性の一つを述べたが。
もしこの"怨霊"が、モーズテスらを派遣して追討した【御霊】家の残党であるならば――大方の狙いは、虐殺の実行部隊に加わっていたロンドール家に対する復讐といったところであるか。
だったら、自分ではなく父を狙えば……いや、何なら【紋章】侯を狙ってくれれば色々と捗るものを、等とと毒づきつつもハイドリィは推察を続ける。
"怨霊"達は、おそらくナーレフに対して何らかの思惑を持っている『人物鑑定士』と利害が一致したのだ。
それで、『罪花』の娼婦の一人を「救貧院」の管理者に押し込む過程で【騙し絵】家と【歪夢】家の間で何らかの手打ちがあったのか、というところであろう。【魔剣】家と【彫像】家については、まだ確証が持てないが、それでも何らかの手段で交渉して今回の一件への不干渉を取り付けたに違いない。
「ふむ。ですが、そう読まれるのであれば……サーグトルの奴めが"査察"しようとしている、明日の奴隷競りあたり、非常に怪しいですな? ほう、ほう」
「その通りだ。色狂いめ、あれだって元々は奴が『罪花』の娼婦の一人に入れ込んだことがキッカケ……奴隷連ナーレフ支部が不正を行っている、か。その情報自体が怪しいものだ」
「ディンドリーとかいう、最近奴隷連の本部から派遣されてきた男でしたかな……若君はお気づきのようですが、あの者は"掃除役"でしょうな。いささか、ナーレフ支部の商人達を骨抜きにしすぎましたな」
「"怨霊"が暴れ回っているのは、おそらく、私の注意を自分達自身に引きつけるためだろうよ」
「目眩まし、と。そうすると、やはり明日の奴隷競りでは、何も手を打たなければサーグトルの奴めが死ぬでしょうかな。ううむ、残念。色狂いも時間をかけて躾直せば、モーズテスをも越える逸材になれたやも……駄目かのう、ほう、ほう」
「おい、私の部下をまだ殺すんじゃない死にかけ詐欺爺……巻き添えを受ける奴隷連との関係が悪くなるのも、勘弁願いたいところだ」
連中をこれだけ優遇してきた"旨み"を回収するのは、まだこれからだというのに。
という続く言葉をハイドリィは飲み込んでいる。今の発言は――下手をすれば独立の野心をネイリーに気づかせかねないニュアンスを含んでいるために。
「それもありましたな。ならば、戯れはともかく――坊っちゃん、如何致します? この機会に一網打尽にしてしまいますかな? その娼婦も、商人も、"怨霊"とやらもまとめて」
まるで新米の工作員を教導するかのような、試すような挑発的な声色で老ネイリーが問うてくる。だが、それもまたかつては己の傅役であった名残りであるか。
ハイドリィは詰まらなさそうに言葉を返す。
「いいや、私が行く。サーグトルを罠にはめて私の力を殺ごうという、その思惑を叩き潰してくれる。後でヒスコフを呼んでおいてくれ……奴にとっては、またもサーグトルの尻拭きかと嘆かれそうだがな」
ネイリーは黙して語らない。
目元の、皺に埋もれた鋭い眼光がまたふっと和らぐような違和感をハイドリィは感じるが、互いに腹に一物も二物もある関係である以上、そんなことを今気にしても仕方が無かった。少なくとも、ハイドリィの指示には従ってくれる"傅役"であるという信頼も、何だかんだと言ってそこにあったのは事実である。
「ネイリー、お前は『救貧院』を監視しろ。誰が黒幕かはともかく、『人物鑑定士』の奴めが"結節点"になっていると見て、まず間違いない。奴は必ずこの街へ戻ってくるはずだが……次は無いとわからせなければな」
もし、明日の"競り"に合わせて不穏な動きを企むようだったら、泳がせるのは終わり。あの不愉快な子分どもと合わせて今度こそ捕らえてしまえ――そう付け足して、ハイドリィはネイリーを退室させる。
そして入れ替わりに、ネイリーの息のかかっていない『鼠捕り隊』の工作員を立て続けに何人か呼び出し、それぞれに具体的な指示を与えていくのであった。
その折、ふとネイリーが以前言っていた「何か見落としている点は無いか?」という問いが、耳の奥に蘇るが、頭を軽く振り払ってそれをどこかへ追いやってしまうのであった。
故に、ハイドリィは退室した直後のネイリーの行動を察知できなかった。
ロンドール家の重鎮たる老間者は、廊下の天井の隅の"暗がり"に向けて、小さな、だがその声の向いた相手に対してははっきりと聞こえるような独特の発声術で、指示を一つ下していたのである。
「"ひよっこ"や。明日の奴隷競り会場に若君が踏み込む段に被せて、ジェローム殿下を拉致してしまうとしようかのう? ほう、ほう」
暗がりに潜む者は、それを聞き取るや、即座にネイリーの前から気配を消したのであった。その隠形術の上達具合に満足したのか、ネイリーは"若君"ハイドリィからの指令を果たすべく、まずは『魔導兵』部隊の訓練場に足を向けるのであった。




