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鉄戟-0001 渓谷の戦乙女と泉の貴婦人

【盟約暦519年・鳴き鹿の月(2月)・第22の日】

【~転移130日目】


時は3~4週間程度、オーマが『鉄戟渓谷』へ"寄生小虫(パラサイト)"を放った時期に(さかのぼ)る。


"錆び風"を褐色の肌に受けながら、少々露出度の高い踊り子装束を身にまとい、その女性は崖の一角に腰を据えていた。

彼女の名はネフェフィト。【心無き鉄戟の渓谷】に属する魔人ネフェフィトはこの日も、仕える迷宮領主(ダンジョンマスター)の命に従い――例の「虫」の侵入以降、活発化する【人界】からの侵入者への監視と迎撃を続けていた。


"(くろがね)の使い手"5人姉妹の第3女として、彼女は【心無き鉄戟の渓谷】ではそれなりに名の知れた魔人の一人である。

普段は迷宮外の"前線"において、【鉄使い】の主敵である【傀儡(くぐつ)使い】等との小競り合いや陣取り合戦に務めていたが、ここ最近は迷宮(ダンジョン)本体の防衛に回されることが多くなっていた。

入れ替わるように数名の「姉妹」達が前線へ出たため、【心無き鉄戟の渓谷】としての防衛体制に問題は無い。


ネフェフィトには、一つの"願い"があった。

そのため、このタイミングでの配置換えは、ひょっとしたら主たる迷宮領主(ダンジョンマスター)がその願いを叶えてくれる前触れか? と受け止め、期待に高揚していたのである。


「気になる、気になるなぁ。"似姿"達の鍛冶技術はどう進化しているんだ? 暮らしは? 何を食べているんだ? 太陽が『白い』というのは、本当なのか? なのに木々の葉が緑色って……それっておかしいだろ。でもあの人(・・・)達を探しながら、そんなのすぐに真偽を確かめられるよなぁ」


迷宮領主(ダンジョンマスター)として彼女の主であり、また「父」でもあるフェネスや、他の「姉妹」達にも周知のこととして、ネフェフィトは人一倍『【人界】へ行きたい』という願望が強い。

切っ掛けは、10年以上も前の、まだネフェフィトが幼かった時のこと。

まだ、訪れたばかりで地理もよく分かっていなかった、父の支配領域たる【心無き鉄戟の渓谷】内で迷子になった時に、彼女は偶然【人界】から入り込んだ"似姿"――魔人達は人間のことを「似姿」と呼ぶ――と遭遇したのだ。

当時まだ【異形】を得ていなかった幼女を、迷い込んだ子供と間違え保護しようとでもしたのか、その「人間」半日ほどネフェフィトは彼らと行動を共にしたのであった。その後、妹の不明を知った姉2人が襲来し、その人間達は追い払われてしまったが――ワガママ妹を演じてグズりだすというネフェフィトの機転により、迷宮から生還させることには成功できた。


好奇心溢れる幼女の質問攻めにも真摯に答えてくれた体験は、幼いネフェフィトにとっては衝撃的な経験であった。

それが彼女の冒険心の根源を形成している。以来、彼女にとって【人界】へ行くこと――家族にも話していないより正確な想いとしては、幼少時に出会った人間達を探しに行って「質問攻めの続き」をすること、が目標となっていた。


それがすぐ手の届くところまで近づいていると感じて、楽しげに独り言ちながらも、時折り何かを待つように、腰に引っさげた湾刀の抜き身の刀身に目をやるネフェフィト。鏡面のように磨き上げられた曇り一つ無い湾刀は、【(くろがね)使い】フェネスの領域系技能【錆び除けの光沢】の影響下にあり、迷宮の防衛ギミックである"錆び風"に侵されることはない。

それは、単に切れ味の鈍らない武器である以上に、父にして主の【眷属心話】とは異なる"独自通信手段"の媒介であることも示している。近日中にでも伝えられるはずの指令を、ネフェフィトはここしばらくは毎日のように待ちわび、暇さえあれば湾刀の磨き上げられた鏡面を前に、楽しい空想を膨らませていたのであった。


よもや【人界】側の入り口から、明らかに、明白に、露骨過ぎる形で、他の迷宮領主(ダンジョンマスター)の『眷属』が侵入してきたからである――「操られた(・・・・)」似姿という形で。

父の主敵である【傀儡使い】もまた「操る」ことに長けた迷宮領主には間違いないが、であるならば存在するはずの"糸"が無かった。それに、よくよく観察してみれば、姿形は似姿であってもその動きは(けもの)じみたものであり……5番目の妹に解剖させて調べさせたところ、似姿の体内から"寄生虫"のようなものが発見された。

少なくとも、それは父フェネスが知るいずれの迷宮領主の眷属とも合致しない。


『期待の新人』の登場に脳天気に口笛を吹いていたフェネス上級伯であるが……【鉄戟渓谷】が十年単位で計画していた"掟破り"を、どこぞの馬の骨に先回りされたということにネフェフィトは怒っていた。

元々【人界】行きは、5人姉妹達の「母」ルシエフィルの任務であったが、彼女は2年前に他界している。この計画のために、フェネス上級伯は数十年もかけて【人界】側の土着貴族との間に奇妙な共生関係を苦心して築き上げており、それまでの投資を今更不意にするわけにもいかず。

迷宮領主(ダンジョンマスター)として迷宮(ダンジョン)から離れられない【(くろがね)使い】フェネス上級伯は、自身の名代として、かねてより【人界】行きを望んでいたネフェフィトに白羽の矢を立てたのであった。


……という経緯があったはずなのだが。

「虫」の侵入を皮切りに、土着貴族側との暗黙の協定を遥かに越える頻度での人間(似姿)達の侵入を受けて、父から下された命は、まさかの「待機および監視の継続に伴う出立の延期」であった。

望みが叶う目前にして、こうなってしまったのも、どこかの先を越した魔人(馬の骨野郎)のせいである強烈な不満感を溜めたまま、父からの更なる連絡も無く何日も過ぎた。


だが、心の中の悪罵がようやっと父に通じたのか、やっと「連絡」が来て、ネフェフィトは父フェネスの真意をすぐに知ることとなる。


【鉄使い】の固有技能【研磨反響の鉄鐸(てったく)】の発動を感じて、ネフェフィトは、慌てて湾刀の刀身を顔に近づけた。磨き上げられた刀身がキラリと瞬くや、その鏡面には眇目(すがめ)の男が映り込む。


『――3番目に美しく、2番目におっちょこちょいで、1番目に可愛いネフェフィトさんや。なんでまだ僕の迷宮(こんなとこ)で油を売っているんだい? とっくに出かけたものだと思っていたんだけれど』


「……? はぁあ!?」


『これは勘なのだけども、ネフェフィトさん。まさか、これ(・・)を使う時の含意を、忘れてたりしないよね?』


沸騰しかけた怒りが、冷水を浴びせられたように収まっていく。

次に生じたのは、恥ずかしさであった。それを誤魔化そうと、ネフェフィトは表面だけの怒りを父にぶつける。


「じゅ、準備に時間がかかったんだ! 忘れてない、忘れてないからな!」


『――そうだね、5番目に賢い娘ネフェフィトさん。女の子は準備に時間がかかる、これは常識だよね……父さんちょっとデリカシーが無かったかな、母さんが生きてたら怒られちゃうな。だから、きっちり頼んだよ?』


先にも述べたように、【魔界】のごく一般的な迷宮領主の例に漏れず、【鉄使い】フェネス上級伯には"敵"が多い。

このうち【傀儡使い】が率いる一派との迷宮抗争(ダンジョンバトル)は『情報戦』においても熾烈であった。迷宮領主(ダンジョンマスター)の中では上位の「諜報力」を有した迷宮領主であり、この者が相手では、迷宮領主(ダンジョンマスター)達の間では眷属や配下との一般的な交信手段である【眷属心話】は、かなりの頻度で"盗み聴き"されてしまう。

故に、フェネス上級伯は自身の固有通信手段である【研磨反響の鉄鐸(てったく)】だけでなく、紙に書いた文字という原始的な暗号、魔法による合図など、様々な連絡手段を組み合わせた撹乱と駆け引きで対抗していた。


その一貫として、娘たる「5人姉妹」らを含む迷宮の配下達に対しても、様々な「情報伝達ルール」が定められている。


今回の事例で言えば……、

・いつ  ―― とある条件を満たした日付に

・どこで ―― 迷宮(ダンジョン)内で

・誰に  ―― 5姉妹に対して

・誰から ―― フェネス上級伯から直接

・何で  ―― 【研磨反響の鉄鐸(てったく)】によって

指令がなされた場合は、その含意は真逆(・・)のものと受け止めるべし、という「ルール」があったわけだが。


迷宮の「外」で日々【傀儡使い】の眷属たる人形系の魔物達と切り結んでいたネフェフィトである。直情的な性格であるがゆえ、彼女にとってはいささか"複雑すぎる"交信ルールの多くを、すっかり忘れていたのであった。


いつもの3倍の量の「はいはいはい!」を繰り返して、強引に『鉄鐸』による通信を断ち、ネフェフィトがすっと立ち上がって大きく背伸びをする。健康的で無駄のない筋肉がついた、されど女性的膨らみが損なわれていないすらりとした体躯や、青みがかった黒髪の間を"錆び風"が吹き抜けていく。

恥ずかしさやら怒りやらで多少頭に血が上っていたが、"錆び風"のざらざらとしたヤスリのような感触が、いくばくか彼女を冷静にさせる。


「あれもそれもこれも、全部先回りしやがったどこかのバカのせいだ!」


……ネフェフィトなりの「冷静」な思考が、少々物騒であるか否かの判断は、彼女と接する者次第となるであろう。ともかくも、必ずや出会い頭にその顔面に(こぶし)の一撃を叩き込んでやろうと誓いつつ、彼女は出立の準備を始めたのであった。


   ***


【盟約暦519年・鳴き鹿の月(2月)・第25の日】

【~転移133日目】


ネフェフィトが世界の境界たる『銀の水面』から出立してから数日経った頃。


『ちょっとした伝言をちょっとした身分の「人間(似姿)」に届けるだけのちょっとした"お務め"だから、そんなに気張らなくて良いよ、ネフェフィトさん。物見遊山でもしてくる気持ちで、楽しんで行ってらっしゃいなさい』


――と、やたら「ちょっと」が強調された言い方で命じられた任務の"含意"を、またしても魔人の女性ネフェフィトは誤解していた。さすがに『"程度"について3度同じ表現を重ねた場合は、内容通りの指示である』などというルールまで、覚えきれていないネフェフィトである。

あるいは、こうした噛み合わなさがこの父にしてこの娘である、などと彼女の姉妹達は思うであろうか。


話をネフェフィトの現在の所在に移そう。


ジャラジャラと剣戟同士かち鳴らされる鉄音が、街道を外れた森の中に騒々しい。

異星窟の主オーマの行動が無ければ、おそらくは公式には500年来で初の【人界】行きを敢行しようという魔人の行動としては、それはあまりにも無思慮なものかもしれない。

だが、陽光の白さ(・・)や快天の青さ(・・)に一喜一憂する姿は、さも異国の地を初めて訪れた旅好きの若者が、驚異に目を見晴らせる好奇心の塊のようでもある。それ自体は、まさしく彼女の現在の心境そのままではあった。


――とはいえ、その姿格好と「装備」に関しては、とてもとても、旅路の護身で説明できるような穏やかなものではなかったが。


肘当てと脛当ての他、胸と局部を覆う装備は、いずれも魔素の操作と相性の良い真銀(ミスリル)製。加えて、そのミスリルを贅沢に使った糸で編まれた腰布が、木漏れ日を淡く反射しながら、鍛えられた腹筋の周りで揺れている。

一見、踊り子を連想させるような露出の多い格好でもあるが、二つばかり、煽情的と言うには不釣り合いの過ぎる装備があった。


一つは、まるで戦場で猛将が被るかのような黒い無骨な「兜」。

角張った厳しい外観とは裏腹に不思議な色合いを(たた)えており、見るものに与える印象はどこか暖かい。夜空の抱擁を思わせるような、光すら包み込まんばかりの深い闇でありながら、時折、矮星の明滅の如き微細な"紋様"が浮かんでは消えている。

――正しい知識を有する魔人が視れば、それが『古代神語』であると判別できるだろう。そうでなくとも、兜の周囲に渦巻く魔素の流れを見れば『長女国』の魔法使いであれば、価値の高い魔道具であると察するかもしれない。


ただし、ネフェフィト自身は、いかな魔法効果を有していようが、その武器素材(・・・・)としての性能にしか関心を持っていなかったが。

ミスリルよりもさらに稀少な魔導金属である【黒璧鋼(アダマント)】製の装備とはいえ、魔素の操作との相性はあまり宜しくない。故に自分とも相性が悪い(・・・・・)と思い込んでおり――「【人界】での活動に必須だから」などと父が煩く言うので、顔を立ててやるつもりで被っていたに過ぎない。

実際に、ではこの魔導金属の何が何故に父にそう言わしめるのか、彼女自身よくわかっていなかった。

5人姉妹の中では最も座学に疎いこともあり、【鉄使い】フェネスの言い方を借りれば「1番目にお馬鹿さん」であるのが、【心無き鉄戟の渓谷】におけるネフェフィトの評価である。


だが、弁護するのであれば、彼女は彼女で、考えるよりも先に鉄拳を突き出すことが多いが故の短慮であり、決して思考能力までも低いというわけではない。

今も、森の薮や木の根を踏み分けながら、「魔人」と「似姿」の違いについて珍しく頭を使っている。


「やっぱり私が一番"似姿"っぽい(・・・)からかな? でも父上は気まぐれだしなぁ」


兜の額から伸びた一角獣(ユニコーン)の如き見事な捻れ一本角に触れる。

無論、それは兜の無骨さを表わす装飾の一つなどではない。


「似姿達にはこういうの(・・・・・)が、無い。そんなの魔人(私達)の中でも珍しい少数派なのに。それなのに、それ以外は同じような見た目……うーん、なんでだろ」


それは、ネフェフィトが紛うことなき"魔人"たるを示す【異形:一角】そのものであった。

【異形:多腕】だとか【異形:鶴翼】だとか【異形:四方耳】なんかを有する姉妹達と異なり――このように「工夫」することで、ちょうど「異形なき魔人」に姿形の似ているらしい人間達の多く住まう【人界】での偵察を問題なくこなすことができる。それが、少なくとも、この任務に自分が選ばれた理由だろうとネフェフィトは考えていた。


だが、兜の装飾と誤魔化すことかろうじて【魔人】としての素性は隠せるとしても――もう一つの装備の騒々しさ(・・・・)がより問題であった。


「寒いな。クソ! あんな【火】属性の魔物が居たんだから、軽装で来たらこれだ……ついてない」


孔雀羽根の如く、放射状に屹立する大小の鋭槍。

その他、直剣、湾刀、短剣など種別を問わず蒐集された「剣戟」の類が、まるで巣を守る蜂の群れの如くネフェフィトの周囲を浮遊している。それだけでなく、腰布に巻き付けられるように上半身に纏われた薄透けた長布(トーガ)にぶら下がった非浮遊の剣戟がさらに十数。

数え上げれば、実に30振りもの刀剣が周囲を旋回しているのであった。


魔法の道具と見紛う(いかめ)しい"兜"といい、一見は煽情的なる踊り子に見紛う姿で冬の凍てつく寒気の中を悠然と闊歩していることといい、魔人と悟られずとも……人間に見つかれば確実に魔物の類と断定されるような異様な出で立ちであった。

そうならなかったのは、彼女が街道を行って人里を目指すことよりも、深い森の中へ分け入ることを優先した――という一点に尽きるかもしれない。


今しがたネフェフィト自身も言及したように、【人界】へ出て早々、東へ駆け去る3頭の"燃える馬"達に遭遇した彼女は迷宮領主(ダンジョンマスター)の気配を察して、それらの来た道を辿ってきた。

無論、道に迷ってなどいない、彼女自身の認識においては。

森も積雪もますます深くなっていくが、ネフェフィト自身、人間達がどのような場所に住んでいるのか、その「街」がどのような形をしているのかを知らないのであるから、結果的に人里からどんどん離れていることを認識しようがない、という意味であるが。


ともあれ、ネフェフィトが【人界】へ出で立つ直前のことを思い出されたい。

【心無き鉄撃の渓谷】より這い出す数日前、予定に無かったタイミングで侵入してきた似姿達の中に混じる「虫」の存在から、いずれかの迷宮領主(ダンジョンマスター)か、またはその配下……少なくとも何らかの"魔人"が【人界】に侵出している可能性が高まった。

時に鋭くも、時には能天気なる父フェネス上級伯は、当初の目論見通りの単なる「伝言」以上の指令を出したつもりは無かったが――【人界】側に他の迷宮に属する魔人の活動の痕跡があることの防衛上・戦略上の意味を理解できぬ「娘」達ではない。

父親には内緒の「姉妹会議」の結果、ついでに(・・・・)そちらも調査することが決まったわけだが……それを幸いとばかりに、ネフェフィトはネフェフィトで、己より先に"掟破り"を敢行した「どこぞの馬の骨」に一発くれてやるために【迷宮領主(ダンジョンマスター)】の痕跡を探すことを優先していたわけである。


そうした心がけがあったからこそ、【火】属性の魔馬と遭遇できたとも言えるかもしれない。

焔眼馬(イェン=イェン)】達が駆けて来た方角に感ぜられる『領域』の気配は、【魔界】でのそれと異なり微かなものであり、同時に「容れ物は同じでも中身が違う」甘酒のような違和感があったが……それでも気配は気配だ。【人界】では【魔界】とは魔素の性質が違うらしいことは、かろうじて座学の知識が頭に残っていたネフェフィトは、故にその違和感を深く考えなかった。


その方角に「どこかの馬の骨野郎」がいると即断。

こうして、食わず眠らずで数日間ぶっ通しで"森"をしらみ潰していたのである。

無論、父の言いつけ(当初の目的)などはすっかり頭の片隅に追いやられてしまっていた。


幸か不幸か、このことが彼女の存在を人間達に察知させずに済んでいた――という一面は確かにあったわけだが。


――そして、ネフェフィトのこの行動が、一つの邂逅に繋がる。


森という森をかき分け。

雪という雪を踏み分け。

深山という深山の奥の奥という秘境に達したネフェフィトは――そこに一つの"泉"を見つけるのであった。木々の深緑を鏡のように映す静寂な水面には、さざ波一つない。良く言えば素直、悪く言えば直情的なきらいのあるネフェフィトをして、息を呑まずにはいられない。

とっさに何かを考えたり、感じたりすることすら難しい、この世ならぬ神秘的な光景であった。


「これは、『領域』か? 狭いし、小さいな。【准男爵(バロネット)】ですら無さそう……ん? いや、でもなんか変だな」


この段に及んで、ネフェフィトはようやく【魔界】における『領域』と、目の前に広がるそれ(・・)の違いについて、違和感について意識した。

中身が同じでも「容れ物が違う」こともそうだが――その『領域』には、本来あるべき存在の気配が感じられなかったのだ。


迷宮核(ダンジョンコア)が、無い? え、ちょっと待て……これは、本当に迷宮(ダンジョン)なのか!?」


それは、およそ【人界】の異文化・異環境に対するものとは、根本から性質の異なるものに起因する"驚愕"であった。それは【魔界】におけるネフェフィトの常識とはかけ離れた推測であったからだ。

だが、続け様に辺りに突如として吹雪が吹き上がったことに反射して、とっさにしゃがみ込みつつ臨戦態勢を取る。


「――ッ!!」


何処(いずこ)より投擲された獣の頭ほどもある氷塊を身をよじって躱し、ほとんど同時に右腕を振って技能【武器操作】を発動。

ネフェフィト自身の周囲を漂う十数の剣戟が、巣を攻撃された蜂の如く氷塊の飛来した方向へ飛びかかり、雪煙の中に隠れていた何者か――魔物の類の気配を滅多打ちにする。そこから、氷の彫刻でも粉々にしたような独特な悲鳴が聞こえた後、吹雪が直ちに止んだ。


「浅かったか。逃げられたな」


呟きつつも、不意討ちを警戒して臨戦態勢をすぐには解かない。

そして間隔を研ぎ澄ませていたがゆえに、ネフェフィトは、また別の微かな気配に気づいたのであった。


「誰だ!」


威嚇の意味も込めて、腰に(ひっさ)げていた剣達まで【武器操作】で飛来させ、30あまりの剣戟全ての切っ先を()の方へ差し向ける。合図一つで、次に滅多打ちにされるのは、水面のすぐ下に潜む何者かとなるだろう。


睨み合うこと数十秒。

ふと、泉の水面の下から感ぜられた"圧"が緩む。

そしてその次に、"圧"のあった箇所からやや後ろの辺りから。

ザバァと、海草色の長い髪をした「貴婦人」が浮かび上がってきたのであった。


敵意が無いと察するネフェフィトだが、先の【氷】の魔物のことといい、「迷宮(ダンジョン)のようで迷宮(ダンジョン)とは似て異なる何か」であるこの『領域』のことといい、状況や事態の説明を求めて声を荒げかける。

だが、その様子を察して「貴婦人」は唇に人差し指を立ててネフェフィトを制し、また耳にもう片方の掌を当てて、静かに周囲の様子に耳を巡らせるよう促した。


――聞こえたるは、まるで雪崩が発生する前兆であるかのような、ピシ、ピシという細かい氷のひび割れ音の集合体。


「おい、お前、まさか」


加速度的にひび割れ音の音量と密度が増大し、瞬く間に雪煙と共に周囲を泉ごと埋め尽くさんと暴れ溢れるのと、泉に潜った「貴婦人」が、何か"長いもの"を伸ばして、ネフェフィトの胴体を捕らえ、泉の中に引きずり込む(・・・・・・)のは、ほぼ同時のことであった。

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