本編-0096 火の災いと魔獣狩りの手管
「北」の戦士デウマリッドが巨石のように迫る。ひねりも何も無い、無造作な突貫であるが、その丸太のような両腕で掴まれたら一たまりもないだろう。
にたぁと笑った巨漢が、下げていた方の脚で膝蹴りを合わせようとしてくるが、むしろこれを捕まえるのが目的である。
「うおおッッ?」
そのまま太ももに抱きつくようにしてすくい上げ、姿勢を崩そうとするが――敵も然る者。ほとんど強引な動きで身体をひねるや、背筋と片脚の筋肉だけでこらえてみせたのである。
こうなると、逆に捕まり続けていることが不利となる。改めて上から押さえ込もうと覆いかぶさるデウマリッドの顔面に肘打ちを入れつつ、身を翻して距離を取る。
「頑丈だな」
「闘争の傷は漢の勲章ってなぁッッ!」
鼻を潰そうと鋭く突き入れたはずの肘の一撃だったが、巨漢が動じた様子は全くない。その盛り上がった鼻ですら筋肉の塊でできているかと思わんばかりの鈍い反応であり、わずかに垂れた鼻血を舐める始末。
再度、突貫してきたデウマリッドに対してソルファイドが次に選んだのは乱打戦だった。相手の拳の動きを読み、蹴りを察して押さえいなしつつ、反撃とばかりに痛烈な裏拳を叩き込む。しかし、その分厚い胸板はさながら鉄板を仕込んだかのように、"鱗"に覆われたソルファイドの拳であっても打通できない。
身軽な立ち回りでデウマリッドを、まるで闘牛の牛のように翻弄するソルファイドではあったが――彼自身、竜人であるが故に"鱗"の分の重さも加わって、普通の人間などと比べれば、ずっと重量級ではある。
埒が明かず、再度距離を取ったソルファイドはデウマリッドを挑発するように、淡々と感想を述べる。
「拳打の修練用の砂袋にはちょうどいいが、やはり関節を壊すしかないのか。恨むなよ? 北の戦士」
「ほう、それは頼もしいじゃないかッッ! 誰も俺を傷つけられないッッ! だから、俺は氏族じゃいつまで経っても半端者だったってぇわけだぁッッ!」
己の"旅立ち"理由の一端を吠えるデウマリッドが、再度、両腕を振りかぶって殴りかかってくる。
彼は決して脳みそまで筋肉でできた"愚か者"ではなく――ソルファイドの「関節を狙う」発言の意図を正確に理解していた。すなわち、体格差に勝る相手に対する常套手段としての「下から崩す」ことを逆手に取り、今度こそ上から捕まえようとしていたのである。
だから注意が"下"にばかり向いていた。
「なにッ!?」
最初の突貫と同じく、ソルファイド体を屈めて潜ったかと思った直後。
両腕を振り抜いて殴り飛ばそうとしたデウマリッドであったが、それが盛大な空振りに終わる。そしてほぼ同時に、ソルファイドの姿が消えたのである。
いや、それはデウマリッドの錯覚であったか。
この時、ソルファイドは全身をバネにして、デウマリッドの巨体よりも高く跳躍していた。そして――姿こそ"人間"に近づいた竜人であるが、種族の祖たる天空を舞う"竜"が如く、デウマリッドの注意の外にあった"頭上"から襲来したのであった。
蛮族的闘争心で周囲を見渡すデウマリッドであるが、まさかと思って、弾かれたように"上"を向く。しかし、このタイミングが悪かった。ソルファイドのブーツの踵がズン、ズンッと二連続、顔面の特に両目付近を交互に踏みつけられ、激しい痛みと視界が潰された。
「グゴォオオッッ!?」と猪のような間抜けなうめき声を上げ、思わず目を押さえるデウマリッド。
そしてこの時、ソルファイドは巨漢の鋼の筋肉を文字通り"踏み台"として、さらなる高みに跳躍している。そのまま、石造りの建物の2階にまで手が届きそうなほど跳躍し――空中で反転し、落下する勢いをも加えて"トドメ"の一撃を狙う。
竜人の重量+高く跳び上がった後の落下の勢いを加えた衝撃である。
これには、さしものデウマリッドも耐えきれず、ソルファイドの左腕がラリアットするように延髄から後頭部にかけて叩きつけられ、その勢いのままに大昏倒。
大地に激しく顔面を叩きつけられるのであった。
「……筋肉だろうが"鱗"だろうが、肉体がどれだけ頑丈でも、"目玉"まで鍛えることはできなかったようだな。俺もお前もな」
さすがのデウマリッドも、これには数十秒ほど目を回した。それでも、額からわずかに血を垂らしながら、すぐに立ち上がったのはさすがというべきか。もっとも、既に好敵手は双剣を拾って場から立ち去っており、"巨漢"の銅鑼を打ち鳴らすような呵々大笑がその場に残されるのであった。
――そしてこの時。
当のソルファイドは検問を通り、道を急いでいた。
「全く、余計な時間を取られた」
だが、彼はここで明確に『北の戦士』としてのデウマリッドという男の存在を強く認識した。今回はあくまで、素手による一当てだったが……これが"武器有り、技有り"であったならば、どうなっていたか?
愚直で正直でありわかりやすい性格であるが故に、デウマリッドは"約束"を守るだろう。そして愚直で正直であるが故に、他の理屈を見い出せば"約束"の理解を変えるだろう。
「再戦はしたくないものだ――先を急ぐか」
元々、ウヴルスの里は『長兄国』西方の火山地帯の秘境で隠れ暮らしていた竜人の一派である。他の人種との争いを避けて生きていくには、彼らには行くことが困難な土地を選ぶしかなかった。
すなわち魔境であり、魔窟であり、自然発生した魔物や、魔物化した獣の跋扈する土地であり、そうした土地で生きてきたのだ。
さらに、ソルファイドは【牙の守護戦士】を継ぐ者として、皇統の末裔とともに里をも護る戦士であった。里の戦士達を率いて、近隣を脅かす魔物達と戦った経験には事欠かない。故に、相手の力量を見抜く術を会得しており、デウマリッドを相手にしても、最初からそれが「人間」であるとして対応しないことを即断していたのであった。
そして頑丈さが売りで体格が大きい魔獣に対する常套手段として、鍛えようのない箇所――例えば関節や眼を狙い、怯んだところを「首に縄をかけて」引き倒す、という戦法を取ったわけである。
(……そろそろか)
街道を半ば無心に駆けるうちに、数刻が経っていたか。
周囲の風に漂う「煙」や「火気」の気配が混じるようになっていた。
――そしてソルファイドは、『炎の魔獣』と対峙する傭兵の一団を発見する。
***
かつて【竜帝国】が大陸に遍く君臨した時代には、生きとし生けるものは、少なくとも自然災害への恐怖からは自由であったという。
火竜の一族が火を吹いて"冬"を塗り潰し。
氷竜の一族が吹雪をもたらして夏を鎮圧し。
嵐竜や雷竜の一族は天候さえも望む形に強制し、自分達と――臣民たる生命達にとって、一応は住み良い環境を、強引かつ無理矢理に生み出した。
そうした竜達の偉大なる力が「魔法」と等しい現象であるかは、ソルファイドにはわからない。ただ、少なくともこの「竜の力」が、人間を始めとした種々の生命達の夥しい犠牲の上に維持されるものである……というのも、一つの真実であった。
主オーマが"解釈"してみせた通り、これが『泉の貴婦人』による『晶脈』ネットワークへの抵抗じみた"自然の反乱"であるとしても――竜による"力技"と比べてしまえば、まぁこんなものなのだろう、と無意識に低く評価してしまう。
種族技能【原初の記憶】に刻まれた感覚を通して、ソルファイドは目の前の"光景"を眺め、そんなことを考えていた。
場所は街道を馬の足で王都方面に半刻ほどの距離で、森の中へ多少進んだ窪地。
森を燻すかのような煙が辺りに漂い、他の"普通"の鳥獣達は既に逃げおおせた後だが、「視界」という意味では問題ない。
ソルファイドは【心眼】によって、30メートルほど前方で魔物達と交戦する傭兵達の動きをつぶさに観察していた。
「魔法使いども何してる! "消火"が追いついていないぞ!?」
「弓隊下がれ、矢の無駄だ! 『付呪武器』を使うしかない!」
バイルのような"くずれ"ではない、正規の傭兵中心の戦士達の怒号が響く。
指示に合わせて弓兵達が一旦後退し、森の入口に停めていた馬車まで行き、弩や長弓を放り込む。
そのまま片手用の円盾に持ち替えて、腰の長剣を抜き放ち、走って戦線へ駆け戻る。流れるような無駄の少ない動きから、よく訓練されていることが分かるが――目の前の"魔物"に物理的な手段で挑むのは、なかなかに骨が折れるだろう。
東方の【黄金の馬蹄帝国】では高位の騎獣としても知られる【焔眼馬】。
周囲を圧する"熱"と"炎"と"煙"が、あたりの景色を蜃気楼のようにメラメラと歪めている。血ではなく、炎の紅蓮に近い真っ赤な皮膚と筋肉に覆われた巨馬であり、年を経た強力な個体は、走るたびに全身から火気を発する。
特に繁殖期のオスが危険であり、その頭部から尾までにかけて波打つように伸びる鬣は、比喩でも何でもなく文字通り"燃えて"いるのである。
そして灼とした紅い眼を持ち、蹄の周囲にまで火をまとう魔獣である。吐息にさえも火気が含まれており、『長兄国』の草原地方においては、走るごとに草地を焼き払う生ける災厄として畏れられている。その気になれば、この付近一帯の森を灰燼に還すことなど容易であろう。
――そんな魔獣が4体も。
戦士達に切りつけられる際にも炎を吹き出して反撃し、蹄で蹴りかかる。嘶きと共に炎を噛みしめる大口を開けて食らいつこうとしてくるなど、その闘争心と凶暴性は獣の魔物としても指折りのものだろう。
傭兵達と同行した魔法使い達は周囲の木々への延焼を食い止めることに精一杯で、とても援護する余裕など無く、手が足りていない。ただ、同時に森の中に誘い込んでいたからこそ、逆にこの巨大な火馬の機動力をある程度殺ぐことができているようにも見えた。
街道に誘い出すべきだ、ということを叫ぶ者が一名いるが、それでは賭けの要素が強くなりすぎるだろう。魔法使い達の消耗と引き換えに、二十数名から成る討伐隊は、4体の焔眼馬を包囲して少しずつ傷を蓄積させていた。
だが、前線の戦士達に疲労が蓄積しているのも事実であった。
傭兵達は文字通り焔眼馬の群れを相手に"手を焼いている"。
接近して剣で切りつけようにも凄まじい熱気に武器が熱されてまともに近づけず、矢を射掛けようにも、燃える"鬣"に遮られて焼き落とされる。
だが、ここで魔法の武器に持ち替えた軽装の戦士達が戦線に参加したことで、均衡が傾いた。切れ味や硬度、魔法による損耗への耐性などの【付呪】が込められた魔法の剣や槍によって、傭兵達が焔眼馬にまともな「傷」をつけることができるようになったのである。
傭兵達の怒号が、苦戦を憂うものから徐々に勝利への余韻に変わりつつある。
いかな凶暴さで知られる焔眼馬とて、得意の火気を防がれ、機動力を封じられた上に多勢で"魔法の武器"で嬲られては、さすがに分が悪く、一体また一体と崩れ落ちているのが見えた。
ただ、討伐者達の被害も決して少なくはない。頭が有能であったのか、奇跡的に死者こそ出ていなかったが、意識不明者が2名に重傷者が数名……片腕を折ることを「軽傷」と呼べば、だが。
実質的な半壊状態であり、これで万が一関所街への帰途を盗賊や強盗団の類に襲われれば、ひとたまりも無いだろう。そうした懸念に加えて、彼らの"会話"を読唇する限り、分前で揉め始めているようにソルファイドには見えた。
曰く「魔法剣を消耗してまでこの被害では赤字だ!」であるとか。
曰く「この珍しい魔物の死体を放って帰るなんてふざけてるのか!」であるとか。
悠長なものだな、とソルファイドは傭兵達の無知を醒めた眼で見つめていた。
(いかんな、そのやり方では……焔眼馬は殺せない)
【火竜】の血統たるソルファイドこそなんとか対抗できたものの、他の里の仲間達には恐るべき難敵の一つであった。ただの、燃え盛る馬と侮ることなかれ。
――火は消えようとも、再び燃え上がるのである。
「熱っ、なんだ!?」
「おい、そいつ動いて――うわああああ!!」
魔法剣で【焔眼馬】を解体しようと、その死体に剣を突き入れた、その瞬間のことであった。突如として強烈な"炎"が柱のように吹き上がり、不運な傭兵一人にまとわり付いたのである。
油を染み込ませた藁人形が燃え上がるが如く、通常では考えられないほどの速さで炭化させられた傭兵が崩れ落ちる。その凄まじい光景に、まだかろうじて無傷な者達が腰を抜かせる。
だが、彼らが絶望するのはその直後のことだ。
まるで炎で燃やされた生命だかが流れ込んだかのように、焔眼馬がむっくりと立ち上がったのであった。
「馬鹿な! 蘇っただと!?」
「死霊系の魔物でもないのに、なんで……」
「こいつら"元気"だぞ、もうダメだ、逃げろ! 命あっての物種だ!」
これこそが焔眼馬が『長兄国』でも高位の騎獣とされる所以である。
連中は、殺しても死なないのである――火そのものか、または燃料を与えられることで再び燃え上がり、戦線に復帰する……時には騎乗した騎士ですら燃料となる。
一応は"殺し方"は存在するらしいが、ソルファイドはそれを知る前に魔界落ちしたのであった。そんな『長兄国』の秘密兵器でもある凶獣の特性を、迷宮布告令をキッカケに商機を求めて『長女国』へ来たばかりの傭兵達が知る由も無し。
慌ただしく撤退の準備を始める傭兵達であった。"秘蔵"らしい魔法の剣も何も放り捨てて身軽になり、怪我人に手を貸しながらその場を離脱しようとしている。そして隊長らしき男を含む数人が、決死の覚悟で剣を構え、焔眼馬を牽制していた。
ジリジリと下がる殿達であったが――生命の危難を前に、彼らは気づいていなかった。既に焔眼馬の"敵意"が他に向けられていることに。
一瞥をくれることもなく、蘇った4頭の焔眼馬達は森の奥を灼熱の瞳で真っ直ぐに見つめており。
遅れること数拍、ソルファイドも気づいた。
かすかな、気のせいかと思うほどの地の揺れと共に、木々が動いていたのである。
だが、それは【魔界】で主の指揮下相対した"樹木"の魔物の類ではない。
木それ自体ではなくて――地響きが徐々に近づいてきていた。
「そうか、お前達は……そのために来たということなのか?」
【心眼】の力を限界まで張り巡らせる。
さすがに障害物の向こう側はぼやけて、明確にその"形"を捉えることは難しいが、巨大な存在が地響きを起こしながら地中を掘り進んでくることが確認できれば、何が起きているかを理解するには十分すぎた。
やがて、土砂崩れのような"咆哮"が森中に響き渡った。
***
傭兵団『蒼き帆』の小隊長マーディーは罵声を撒き散らしたい衝動を押さえ、とにかく負傷者を運ぶことを優先するように指示を飛ばしていた。と同時に、どうしてこうなったと内心で頭を抱える。
元々『長女国』行きなど彼の趣味ではなかったが、団長の指示で仕方なく子分達を引き連れて「迷宮開放」の実情とやらを偵察に来たのだ。
そのついでに内乱の気配がにじみ出てきた『長女国』での"営業"活動も任されていたのだが、存外に「稼ぎ」が良さそうであることから、代官邸が発した『魔獣討伐の布告』に参加したのが、今回の不運の始まりである。
元々は船乗り達で結成した傭兵団【蒼き帆】は魔物退治の経験も有しており、子分達も実力者揃い。『長女国』の魔物も『次兄国』のそれと大して変わらないだろう、と踏んでいた。
案内と戦闘の補助としてナーレフで何人か使えそうな者達を雇い、せっかく『長女国』に来たのだから噂の【魔法使い】達も、その実力を確かめる意味も込めて"流れ者"達を雇ったところまでは良かった。
だが、つい先ほど苦労に苦労を重ねて斃した――と思っていた矢先に蘇生した「炎の馬」から受けた被害は甚大である。
途中までは死者こそ出さなかった己の采配、もとい幸運を自賛したかったが、それも潰えた。長年の相棒であるケレボスが瞬時に燃え上がったかと思うや、そのまま物言わぬ灰と炭の混合物と化してしまったのである。
かつて軍船数隻で以ってようやく狩った【長牙海象】を思い起こすほどの強力な魔物である。保険として一応持ち出した『付呪術士協会』折紙付きの超高額な【付呪武器】が無ければ、さらに被害が出ていたろう。その大事な"魔法の剣"もケレボスと共に燃えてしまい、忌々しい「炎の馬」の足元に転がっており、回収できるかも怪しいところ。
最終的にこれがどれだけの赤字になるのかを思うと、頭も腹も痛くなってくるというものである。ケレボスが天涯孤独であったことから、家族への手当てで悩まずに済むことがせめてもの気休めか。
――だが、人間、ツキに見放される時はとことん底まで落ちるものだ。
「冗談じゃねぇ、【島負い亀】だと!? なんでそんな化物まで森にいやがる!」
傭兵稼業を始めてから最初に死の恐怖を味わった、巨大海獣マクァーラに匹敵する威圧感。小さな山が一つまるまる迫りくるような地響きと共に、森を割り地中から姿を現したのは巨大な"亀"の魔獣であった。
思わず連想した海獣である【島負い亀】の成獣と比べれば、まだ可愛いサイズではある。だが、この"森負い亀"とでも言うべき魔獣は、片足だけでも余裕で人間を踏み潰すだけの大きさがあるのである。
「くそ! おい、強欲な魔法使いども! 荷物も全部捨てて逃げるぞ! ……あぁ!? 馬鹿野郎、代官邸に"あれ"を報告すりゃ報奨金ぐらいはもらえる、そいつで埋め合わせろ!」
抜き放った剣で脅すように部隊の撤収を急がせるが、次の地響きが轟いた瞬間。
あまりの揺れにマーディーを含む誰もが大地に立っていられず、膝をついてしまうのであった。
「【土】魔法か!? 【対抗魔法】をかけろ、逃げられんぞ!」
「今やってる……くそ、もう魔力が……」
「おい、お前が倒れたら誰が治癒魔法使える!」
背中の甲羅に老若問わない木々を幾本も生やしながら、森の木々を踏み折りながら、地響きを慣らして一直線にこちらへ近づいてくるのである。そして反対側には、こちらが弱り果てるのを嘲るかのように佇んでいる「炎の馬」。
もう終わりだ、絶対に絶命だ、死ぬ前に故郷の宿屋の看板娘ジェミーの尻を撫でたかったぜ、とマーディーが再び崩れ落ちる。それは地響きで揺らされて体勢を崩されたから、だけではない。壊滅的な敗北に直面した新兵のように腰が抜けてしまったのだ。普通ならそれを叱咤激励するのもまた、小隊長を任される彼の役目であったのだが――。
瞬間、凄まじい熱波が周囲を包み込み、"森負い亀"に向かって「炎の馬」達などとは比べ物にならないほど強烈な橙色の灼熱の風が吹き付けたのが見えた。
「なん、だ?」
マーディーと他の"逃げ遅れ"達は、闖入者が一人歩いてくることに気づく。
「理由は分からんが、この『馬』どもは『あれ』を抑えるために現れたようだな」
「竜人――!!」
「ほう、お前も"俺達"を知っているのか? ……と言いたいところだが、今はこちらが先だな」
そう言いながら、竜人の男が血を流していた部下の傷を赤熱した剣の刀身で強引に焼き潰す。そんな乱暴な「治療」もそこそこに、顔の半分が"鱗"に覆われた赤髪の竜人の男が、大胆にも【焔眼馬】達の元まで近づく。
その竜人は、どうしてか両目を眼帯で覆っているにも関わらず、何もかも見えているかのように行動しているのだが――もはや驚きすぎて何から突っ込みを入れたら良いかすら、マーディーには判断がつかない。
「お、おい待て、お前何をする気だ!」
だが、今度は竜人の男は一瞥もくれなかった。
そして驚くべきことが起きた。
――炎の馬達が、まるで"主"でも迎えるかのように、燃え上がり逆立った鬣すら垂らすように頭を下げたのである。
その様子を眺めながら、小さく「そういうことか」と述べたソルファイドの呟きは、マーディーの耳には届かない。
だが、怯みから回復したらしい"森負い亀"が再び怒りの咆哮を上げたことで、ほとんど反射的にそちらを振り向くことしかできないマーディーであった。
そして。
すっかり竦んでしまった彼の見ている先で。
4体の炎の馬が火気を巻き上げ、周囲の草木を燻しながら駆け出す。それに続いて二振りの赤熱した『真の魔剣』とも言うべき双剣を両腕に構えながら、盲目の竜人が凄まじい速度で炎の馬達の後に続いて地を蹴る。
――"森負い亀"が引き起こす【土】魔法と、竜人と4体の「炎の馬」達が巻き起こす【炎の乱舞】の衝突は一刻ほども続いた。
そして、信じられないことであるが、炎の馬という凶獣達の助けを借りたとはいえ――竜人の男は、ついに"森負い亀"の首を落としてしまう。それは、炎の馬達が亀の背に負われた「森」へ突入し、それを盛大に炎上させた直後のことであった。




