本編-0091 錆び風の迷宮と魔獣の檻
【~転移125日目】
「渓谷の迷宮」あるいは「鉄の獣の迷宮」。
その迷宮は【人界】では単にそう呼ばれているが、【魔界】における正式名は【心無き鉄戟の渓谷】である。
その名の通り、"異界の裂け目"を通った先には、切り立った崖や渓流をいくつも越えねばならない峻厳な地形が広がっており、踏破には洞窟タイプの迷宮とはまた異なった装備が必要となる。
出現する魔物は彫像に近い魔法生物か無生物系のものばかり。
【生ける鎧】という魔物の出現が最も多く報告されるが――これはオーマにとっての走狗蟲や、リッケルにとっての偽獣に相当する"最下級兵"のようなものである。
次いで武器系の魔物として、【踊る剣戟】【人食い湾刀】などが。
他にも彫刻系の魔物として、【愚者の座像】【片羽のガーゴイル】が知られる。
他の、例えば鳥獣系の魔物と比べると、内臓がない分耐久力が非常に優れており、もしも物理的な手段でどうにかしなければならないならば、いずれも一工夫が必要となる。頻度は少ないが、仮に迷宮から這い出してきた時などには、魔法に心得のある者を含む討伐部隊が差し向けられることが多い。
『長女国』では知られているだけでも数十の迷宮があるが、そのうちナーレフから行くことのできるものが4箇所あり、禁域を除けば最も近い距離にあるのが、この【心無き鉄戟の渓谷】であった。
――そこでは、無機質な"槍の穂"がまるで林のように渓谷の崖面に乱生している。
その間を山颪のように"錆びの風"が吹き抜け、侵入者を拒絶するように吹き荒ぶ。
そこから先まで奥深く進入し、そして帰還した者達の数少ない証言では、この赤茶色の火山灰のような"錆び風"は、武器だろうが防具だろうが、お構いなしに金属製品を錆びさせる悪夢の「風」であり、挑戦者達にとっては難易度を、迷宮領主側にとっては防衛力を急増させる特徴的な仕掛けである。
そのような"錆び風"に装備を侵されながらも、鉄と岩が癒合したような歪な縞模様を描く渓谷の崖面をよじ登る者達があった。
迷宮に挑戦する者達であるが……2点において、彼らの存在は異質である。
第一には、その見た目も装備も人間でありながら、四肢を大振りにして、まるで大猿のような野性的な動きで崖をよじ登る様は本能にのみ支配された野生動物を思わせた。しかし隊列は整然と縦隊を組んで、獣の勘を思わせる即断力で、最も危険の少ない道を選んでよじ登っていく。
……何を隠さんや、彼らこそは、迷宮領主オーマを襲撃して返り討ちに遭った二つの盗賊団の、生き残り達であった。オーマは特に興味を持たなかったことであるが、酒場でラシェット少年に昏倒させられた悪漢バイルを、そこから連れ出して介抱した"取り巻き"も一人混じっている。
最小サイズの『命石』を砕いた欠片を埋め込んで寿命を延ばしたことと、そして奇しくもルクの【精神支配】による『精神破壊』を通して思考が単純化されたことで、寄生小虫が人間のような複雑な生命機構を持つ知性種の「機能」を掌握できるようになって誕生した"捨て駒"である。
すなわち「偵察」役としては、実用に耐えるレベルとなった。
無論、リュグルソゥム家の血を引く者の【精神】魔法によって廃人にしなければならない手間がかかるため、例えば人里には派遣できないし、かといって秘境辺境の類を踏破させるには、魔人ル・ベリの使役する鳥獣達には及ばない――しかし、オーマの言葉を借りれば「使い様」である。
そこに何者かが立ち入ったという「事実」こそ得たいのであれば――敵か味方か不明な迷宮領主に対して【人界】経由で初コンタクトを取るための捨て駒としては、利用価値はあると言えた。
これこそが第二の「異質」に関係する。
『鉄戟渓谷』こそは、【紋章】のディエスト家が【ワルセィレ森泉国】を征服して関所街ナーレフを建設した"主目的"の一つたる「金のなる木」であるからだ。
この迷宮は『長女国』全土に布告された「迷宮開放令」の"第1陣"には本来含まれておらず――秘匿された「金のなる木」のままであるはずだった。
そこに、関所街に『魔石』を大量に出回らせた"密輸組織"の参加組織が討ち入るという出来事が、ナーレフの人々や、諸勢力にどのように受け取られるや否や。
人間の形をした"獣"達が、鉄の槍穂が林立する崖面を登り切るが、その先にも渓谷が幾重にも連なり、どこへ向かえば良いのかもわからない。踏みしめて立つ大地は、ところどころで土と岩の間から無機質な鉄塊――鋳造された高純度の金属塊であり、自然に存在した"不純物"入りの岩鉄などとは全くの別物――が顔をのぞかせた、鈍色の景色が広がっていた。
この"金属塊"こそが【魔石】以外にも迷宮に"価値"があることを【紋章】家に気づかせた。
"錆び風"こそ厄介な防衛ギミックではあるが、対抗手段を用意し、登山道具に気を配りさえすれば、比較的容易に、この「鉄の原っぱ」までたどり着くことができる。つまり、そこに広がる鉄や銅などの金属が採り放題となるのであるが……それ以上に、襲い来る魔物達それ自体もまた「旨み」となることがある。
特に"武器"系の魔物達が、【紋章】家が送り込む「採掘者」達が最も目当てとするところ。なにせ、倒して「魔法生物」としての魔力を抜き取れば、武器系の魔物達は、そのまま己の得物として"使う"ことが可能。
【鉄使い】たる迷宮領主の力によって鍛造された業物という場合もあり、時に【魔石】の塊以上の値をつけることもある。
もっとも、取らぬ狸の皮算用とばかりに、商人達が算盤を弾いたほどの"最大利潤"を叩き出すことができているわけではない。忘れてはならないのは、相手は単なる資源採集地ではなく、魔物が湧き出し、彼らを操ると言われる"迷宮の主"たる悪意の化身が治める土地であるという点だ。
【エイリアン使い】オーマは、そうしたわかりやすい"金属塊"は挑戦者達をおびき寄せる「エサ」だろうと考察している。"最下級兵"が基礎能力の高い【生ける鎧】であることからも、ある程度の経験を積んだ挑戦者を狩って、位階上昇と技能点獲得の種にしようとしている、正しい意味での「迷宮」というわけだ。
まぁ、【魔界】への侵入者を防ぐという迷宮の本来的な役割からは、これはややグレーな動きでは有るだろうが、それもまた【鉄使い】がどのような思想を持った者であるかを測る材料である。
【紋章】家から定期的に【継戦派】各所領に"ならず者"達を招集する「布告」が出され、それを実務的に管理するのもまたロンドール家の仕事である……故に、ミシェールの"桃割り"によってロンドール家の上級工作員モーズテスから得た情報に基づき、オーマはこのような「第二手」を打ったのである。
***
砂をこすり合わせるような、"錆び風"の独特な掠れ音。
それが、突如無数の剣戟の音に変わったのは、パラサイト達が何峰かの崖面を登り越えた、まさにその時だった。
打ち鳴らされる幾重もの剣戟音は、さながら軍勢が衝突する戦場が如し。
と同時に、渓谷の底から暴風が吹き上がる。
事実、それは比喩ではなく、実際に「剣戟の嵐」であった。
大小も意匠もバラバラな十数本の剣が木の葉のように舞い、宙で互いに衝突し合いながら、まるで渡り鳥の群れの如く飛び回る。そして、鉄戟の暴風の中心には、台風の目のように舞う一人の若い女性の姿。
ちなみに、これらの「情報」を、紆余曲折の末、パラサイト達の感覚器官を通して最初に受け取ることになる副脳蟲達の長であるウーヌスは、後にこう証言する。
『いやぁ、あの時は思わずみんなにきんきゅう会議を召集してしまったきゅぴ! 剣と槍のシャワーなんてお肌が傷ついて乙女さんの敵だから、やめるべきだって紳士さん的に言ってあげたかったきゅぴけど、よく考えてみたらパラサイトさん達がその情報を取ってきたのって、ずっと前きゅぴ? だから急いで創造主様に伝言したんだよ! そしたら創造主様は――』
冗長に過ぎるのでこれ以上は切り取るが、時間軸を戻せば、ウーヌスがそれ以上の情報を得ることは、この時は不可能となった。
――剣の踊り子の艶やかな肢体の動きに合わせて、意志を持った大蛇のように剣戟の嵐がのたうち、次の瞬間、「捨て駒」達に雨あられと降り注いだからである。
ウーヌスに伝わったのは、パラサイト達が最後の力で絞り出した"情報"の欠片を総合したものである。
従って、"侵入者"達を殲滅した踊り子が空飛ぶ剣戟達を無造作に大地に「着地」させ、自身も降り立った後に呟いた言葉が、オーマまで伝わる道理も無し。
それは、このようなものであった。
「殲滅したぞ、父上……え? どういうことだ? 計画は中止!?」
健康的で褐色の肌に、肉付きの良い長身の肢体。
深い青みがかった黒髪は波打つ鬣のようにウェーブがかっており、錆び風を受けて薙いでいる様は、艶やかさと勇ましさを兼ね備えている。決して"誘惑"のためだけに露出の多い肌ではなく、鍛えられるべき筋肉は鍛えられている、女蛮族のような機能性を重視した結果であるかもしれない。
とはいえ、筋肉質と言えるほどでもなく――最初の表現に戻れば、健康的な美女であるといったところか。相手に悪戯っぽい印象を与えるタレ目と、えくぼの存在は、彼女が闊達な性格であることを間接的に示している。
しかし、ある一点において彼女は明確に"迷宮の魔人"であると言えた。
踊り子の額からは、天を衝くような立派な一本角の【異形】が生えていた。
健康的な褐色の肌こそ"人間"じみているが、つまり、彼女は明確に【魔人】の女性であった。無造作に地面から引き抜いた剣を一本、刃面を指でなぞる――と、鈍色の輝きの向こうに、彼女が仕える迷宮領主【鉄使い】の顔が現れ、彼女にだけ聞こえる言葉でいくつかの指示を下すのであった。
……この『会話』については、仮にパラサイト達が全滅されていなくとも、おそらくウーヌス達には単に鉄が打ち合う甲高い音にしか聞こえなかっただろう。すなわち、リッケルの固有技能【木の葉のざわめき】や、オーマの『エイリアンネットワーク』などに類する【眷属心話】の上位互換に相当する"独自通信手段"である。
そこで、如何なる"指示"を下されたか。
踊り子が途端に気色ばみ、怒りを露わにした表情になる。
「――こいつらが? そんな馬鹿な。他に先を越したヤツがいるって意味だぞ、それって! そんな気配はしなかった――は? 直感って、証拠は無いって……あぁ、もう! はいはい、はいはいはいはーい!」
つい先ほど剣戟の暴風が直撃し、原型すら留めない"血だるまハリネズミ"状態となったオーマの「捨て駒」達を訝しげに見ながら、苛立ち、思案気に首をひねる踊り子。
剣戟と共に舞っていた時の艶やかさとは打って変わり、気の荒い口調であった。
「わかった、わかったってば……わかりました! 誠心誠意、防衛に徹しますとも!」
最後には声を荒げ、【通信手段】となっていた鉄剣の"鏡面"を乱暴に指で再度なぞり、主たる【鉄使い】との交信を断ち切った。
そして再び、肉塊となったオーマの「捨て駒」達を、値踏みするように睨めつけるのであった。
「父上の勘は不気味なぐらい良く当たる。残念だな――ようやく【人界】へ行ける好機だと思ったのに……クソ、どこの馬鹿だ? 虫なんか送り込んできやがって。いつか絶対に面を張り倒してやる!」
振り上げた右手に合わせて、彼女の無念の激情を象るかのように、再び数十本もの剣戟が"錆び風"と共に吹き狂うのであった。
***
密輸組織『老い馬叩き』は、関所街ナーレフの裏社会では急速に勢いを増してきた組織である。勢力規模は中堅どころだが、街の発展に伴って様々な立場の人間が訪れるようになり、必然彼らの"仕事"も増えることとなる。
"闇"市場に流れる禁制品や盗品の数々は元より、時には『長女国』の法に触れる類の「禁止奴隷」……つまり借金奴隷か犯罪奴隷以外の人間の奴隷を扱うことがあるという意味では、『奴隷商会連合』との付き合いが最も大きいとも言えるが、これは相対的なもの。
ともあれ、『迷宮開放令』は、彼らの更なる発展を約束してくれたようなものだ。
商隊らしき一団が、雪降る森の中の街道を進んでゆく。無論、彼らは正式な商隊ではなく――一部は本物の"商人"も混じってはいるが――『老い馬叩き』の抱える精鋭密輸部隊である。
彼らの今回の「荷物」は非常に大きい。まるで檻のように頑丈な箱が3頭立ての馬車の荷台に乗っており、それが2台続いている。
そして、それだけではない。
実用性と機能性を重視した商隊の馬車には不釣り合いに豪奢であり、"魔法"的な施しのかかった『檻』であった――見る者が見れば、それが魔導侯【封印】のギュルトーマ家による『結界陣』であることがわかるだろう。
無論、そのようなことまで知らされている『老い馬叩き』の密輸者達ではない。しかし、この"取引"の発注者こそは、関所街ナーレフの代官にして【紋章】家の闇を司る一族の若き俊英ハイドリィであり、直々の指名を受けたのだ。組織にとって数年振りの大型取引なのも然ることながら、これを成し遂げた折には、ナーレフの夜を闊歩する"同業者"達の中で頭一つ抜けることは確実である。
「ついに俺達も、代官邸からお呼びがかかるほど名が知れ渡ったってわけだ」
「中身はなんだろうな? この豪華さだ、貴族連中の"嗜好品"に違いない」
「……金と権力があるってのは羨ましいねぇ! 俺は、貴族連中向けの特別な『禁止奴隷』だと思うぜ」
「"微笑みの代官"様も憎いね! あぁ、俺も美味しい思いがしたいぜ――少し中身を見るだけでもダメかな、やっぱり?」
「なんだお前、新入りみたいなこと言ってんじゃねぇよ、ダメに決まってるだろそんなもん。俺達は『秘密厳守、安全速達』がモットーなんだ馬鹿野郎」
「わかってらい、だが、お代官様も人並みに薄汚れてて安心だぜ。これからももっとヒイキにしてくれりゃ良いんだが――」
他愛も無い軽口を叩きながら、商人に扮した密輸者達は街道を行く。
だが、彼らは知らなかった。【封印】家の『結界陣』には複数の種類があり――彼らが運ぶ「荷物」が入った"檻"には「対魔獣用」の『結界陣』が刻まれていた。
そして、彼らが今後そのことを知る機会もまた、永久に訪れることは無かった。
「……それにしても、『欠け月』と『三本短剣』の連中はまだか? そろそろ迎えに来ても良いはずなんだが」
「縄張りが被ってて仲悪いからなぁ、あいつら。まったく、誰のおかげで仕事にありつけると思ってるんだか」
「わかってないなぁ。わざと被らせてんだろ? 競わせて互いに監視させる寸法」
「だから新入りは黙っとけ……お、見えてきたぞ。おーい、こっ――」
街道に沿って大きく曲がったところで、ならず者風の一団が密輸部隊を出迎える。合図をしようと一人が手を振った、次の瞬間のことだった。ヒュ、と風を切る音がするや、一本の矢が喉を貫通して、続く言葉が血泡に溺れ沈む。
「な!?」
その一矢を合図としてか、周囲の森林からさらに何倍もの「賊」が現れ、同時に弓や弩を射かけてくる。
完全なる不意討ちで、瞬く間に雨あられの如く矢を射かけられ、怯んだところに抜刀した前衛が切り込む。だが、密輸部隊も『老い馬叩き』の精鋭。決して単なる"運び屋"などではなかったが、多勢に無勢の逆境を覆す猛者がいるわけでも無し。
血路を切り開くこともできず、呆気なく全滅したのであった。
「よし、このまま"積み荷"を確保しろ。ハーレイン、部下に死体を始末させろ。この事態の発覚を可能な限り遅らせるんだ」
「あっけなさ過ぎます、団長。こいつらには手下の盗賊団が2ついたはずですが、単に遅れているだけですかね? 警戒態勢を取るべきでは?」
「あぁ、それか。大丈夫だ、実はな、2日前の未明に連絡員から報せがあったんだ――『三本短剣』と『欠け月』が内輪揉めを起こして、相討ちで壊滅したらしい。俺達はツイてるな」
団長、と呼ばれた男と副官らしき男が部下達にテキパキと指示を下しながら、少し抑え気味の声で意見を交換し合う。
森から現れた者達を含めて総勢80人にも上り――彼らが「待ち伏せ」相手のことを調べ上げていたとすれば、襲った『老い馬叩き』の人数に対しては、明らかに過剰な戦力であった。その理由は、今しがた『団長』が答えたとおりであるが、副官ハーレインは不服な様子で表情を曇らせる。
「……なぜ、私にも伝えてくれなかったんですか? 我々の台所事情はカツカツだ、せっかく『内』の連中が作ってくれた好機だってのに、過剰な戦力投入で団員達を遊ばせておくだなんて」
「悪かった、そこまで気が回らなくてな――だが、俺達が今回得た成果はデカいぞ。なにせハイドリィの野郎が『泉の貴婦人』を弱らせるために……ッっがは……?」
団員達がそれぞれの役割に徹してキビキビと働く様は、彼らが、決して統率の取れぬ単なる"賊"などではないことを示している。
そして、もしこの場にナーレフの衛兵か『鼠捕り隊』がいれば、今の副官の発言から即座に彼らが『森の兄弟団』の関係者であると看破しただろう――しかし、奇しくも先日行われた材木職人エボートと浮浪児ジャニアンの処刑以来、ナーレフの治安担当者達の目は関所街の内側に向いていた。つまり、街道の警備が相対的に緩んでいたのである。
その間隙を縫っての襲撃であったわけである。
――だが、襲撃の最中で、時の『兄弟団』団長たるアルグは、敵の反撃による不幸な事故死を遂げる。その後【封印】家の『結界陣』が刻まれた魔獣の檻は、副官ハーレインによって回収された。
そしてさらに数日後、『森の兄弟団』は団長代理を務めていたハーレインの推挙により、斬り込み部隊の猛者達を率いる若手の勇士サンクレットを、新たな団長に選出することとなる。
――そして。
ナーレフ近郊で、雪降る真冬の最中にも関わらず、大規模な森林火災の被害が発生したのは、その翌日のことであった。
すぐさま情報の収集が代官邸から行われ、その原因として、遥か東方の『長兄国』の支配域に生息するはずの魔獣が出現したことが判明した。




