動機
おそらく世間はこう思う。これじゃあ、おいそれと舌打ちも出来ない、と。たったそれだけの理由で殺されてしまうなんて、なんて社会なんだ。
ぼくだってそう思う。だけど現実に起きてしまったのだ。ぼくは取り調べでこう述べる。
「殺すつもりはなかったんです。でも、」
言葉に詰まりながら、言葉が浮かんでこない。真っ白になった頭の中を悟られないように、目の前の刑事からさらに目を逸らした。
この人は何を思っているのだろう。
何を言ったとしてもぼくはあの見ず知らずの男性を突き倒したのだ。事実は変わらない。ごく自然に腕が伸びた。そして、ごく自然に大量生産された背広を押していた。少しばかりよれている青い背広の塊が階段を転げ落ちていく様が目に焼き付いている。
会社には行きたくなかった。気持ちをやっと奮い立たせて寝床を出る。朝食を押し込む。服を着替える。シャツの袖のボタンが緩くなっていたのに気付き、まるで自分みたいだと愛おしくなった。
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中、出社拒否は募る一方。郊外にあるために、30分も乗って行く。人は徐々に減っていき、空席すらちらほら現れる頃、会社の最寄り駅はやって来る。ぼくには座ることすら許されないのだろうか。
電車の扉が開く。部屋の扉から始まり、玄関、改札、電車の扉、踏切り、オフィスの玄関、部署の扉。毎日、毎日、地獄への扉を一枚一枚通り抜けていく。
落ちた彼は同じ駅でいつもぼくを追い抜かしていく奴だった。名前も年齢も、どこへ向かうのかも知らない。だけど、ぼくとそれほど変わらない年齢に見えた。
彼はいつもパリッと背広を着こなしていて、背筋も自信に満ちて見えていた。
そして、ぼくは、袖口のボタンが気になってほんのすこし立ち止まった。その瞬間にあの音が胸の奥底まで響いてきた。
あの時のぼくは苛立ってもいたし、深く沈んでもいた。
今朝はきっと彼も苛立っていたのだろう。のろのろと歩くぼくを追い越す前に舌打ちをしたのだ。それが合図だった。まるで、ぼくの腕を縛っていた縄が綺麗に切れてしまったかのように、腕に力が入り、自由に動き出したようだった。彼が転げ落ちていく様を、数名が見ていた。若い女性もいた。それなのに、ぼくが一番に悲鳴を上げていた。ぼくの悲鳴は、彼が階段を一つ落ちた時から始まっていた。
最後まで転げ落ちた彼は、白いシャツをズボンからはみ出させて、不自然に足を階段に残していた。踊り場に押し付けられた頭、苦しそうに縮められた首、その視線はぼくにあった。彼にもはや、視線なんて存在しないはずなのに、ぼくはその彼の視線を確かに感じていた。
床に染み出る赤い染み、乱れた髪が額にへばり付き、眼光はぼくへと。
彼の靴がその頭上に落ちていた。赤い飛沫が鮮やかに目に映った。
悲鳴を上げ続けるぼくに真っ先に近付いてきたのは駅員だった。そして、女の声で「もしもし警察ですか」と聞こえた。
彼を殺したかったのではない。しかし、殺意はあった。ぼくが消してしまいたかったのは、役立たずだとののしる奴ら。同情の声を視線を向ける奴ら。見て見ぬ振りをする奴ら。手を差し伸べてくれない奴ら。
そんなぼくが存在するというこの世界。
たくさんのことを伝えたいのに、どうしても伝えることが出来ないのだ。思っていることとは違うことを口にしてしまう。仕事を覚えるのがとろい。新しい物を受け入れにくくなってきた。誤魔化すように笑うようになった。黙っていれば、ぼくがぼくを陥れることはないだろう。それでも、伝わらないということはもどかしかった。何度も諦めようと、仕方のないことだと、全てを呑み込もうとした。
他人の憶測を自己完結させるようになった。何年も何年も。
ぼくはこういう奴なんだ。仕方がないのだ。言い聞かせる度に笑顔が上手になり、顔色を窺わなければ笑うことも出来なくなった。何をするのも許されなくなった。
「ちっ」
まるで、この階段を下りることすら否定されたかのようだった。ぼくはここで生きているんだ。何が悪い。どれだけの思いでここに立っていると思うんだ?
お前はぼくの何を知っているという?
生きたかったんだ。
目の前の刑事は死んだ彼と同じくらいの年の頃。ぼくよりも少し年下かもしれない。
生きたかったんだ。
人を殺しておいて、何を言っている?
ぼくはこの言葉を恐れて、また言葉を呑み込んだ。
何を言っても、結局は無駄なのだ。刑事の鋭い眼光にぼくは怯えていた。そして、袖口にぶらぶらと未だに未練たらしくくっついている不安定なボタンをそっと左手で引きちぎった。




