1
「アリス」
やめろ。
「アリス。起きて」
――その名前で呼ばないでくれ。
うめいて、俺は目を覚ました。ぼんやりとした頭で、ぼんやりした世界を見つめる。頭が重くてなかなか上がらない。背中に冷たくて硬い感触。フローリングの床に直接寝ているような感覚だった。仰向けに寝転んだまま天井を見上げるに、どうやら俺は夢から覚めたわけではないらしかった。どう考えても俺の部屋ではない。天井も壁も真っ白で、家具も何も無い部屋。そして、俺を呼んだ声は嬉しそうに笑った。
「起きたねアリス!」
その鈴の音のような声に少なからず俺は絶望した。誰かが俺を助けてくれたわけではなかったらしい。俺の予想通り、ウサギの耳の少女が俺を覗き込んだ。薄い水色の瞳が俺の顔を映す。どう見ても俺の顔は怯えていた。残念ながら長い金色の睫毛も愛らしい唇も、俺の心を軽くはしてくれない。
「……俺、生きてたのか」
弱弱しく呟くと、彼女はうふふと笑った。
「もちろんだよアリス」
何が「もちろん」なんだ、何が。文句を言おうにも、腹に力が入らない。そして痛い。どうやら刺されたのは紛れも無い事実らしかった。身体を起こすのもツライ。これでは隙を突いて逃げることも出来そうにない。首だけ持ち上げると、腹には服の上から布らしき何かが巻かれていた。俺の腹にナイフが刺さっているという、ショッキング過ぎる状態でないだけマシかもしれない。
恨めしげな目で少女を睨むと、彼女は初めて悲しそうな顔をした。
「ごめんねアリス。おなかいたかったよね」
そりゃもう。凄く痛かったです。
「でもね、こうしなくちゃダメだったから……」
何が駄目だったのか、それを知る前に少女は急に黙った。ぴくり、と長い耳を立てる。聞き耳を立てているように見えた。
「じょうおうさまが呼んでる」
「……じょう、おう、さま?」
俺の言葉に応えず、少女は立ち上がった。絶賛負傷中の俺を置き去りにして、真っ白い部屋から出て行こうとする。
「ちょっとまっててね!」
無邪気な顔で、そして無邪気な声でそう言うと、少女は跳ねるように走って部屋を出て行った。
「……」
しんとした部屋に取り残されて、俺は一人ただ寝転んでいた。というか、動くことが出来ない。黙って色々考えようにも、頭の中はぐちゃぐちゃだ。第一に、このよく分からない状態が夢なのかそうでないのかも分からない。お手上げだ。
これがホラーな夢や物語だったら、この間に逃げないときっとバッドエンドだ。あの無邪気に可愛い女の子に殺されるに決まってる。俺は嫌な予感に慄きつつも、動くことすら満足に出来ない自分に腹が立った。思い切って身体を起こそうとすると、猛烈な痛みに悲鳴を上げそうになる。
「……いてえ」
つらい。これが夢とは思えない。でも、だったらなんなのだ。
「誰か、助けてくれよおお」
叫んだつもりだったが、口からは擦れたような弱弱しい声しか出なかった。ただただ真っ白な部屋が、威圧的な空気を醸し出している。このままこの部屋にいたら精神不安定になりそうだ。
「夢なら、覚めてくれ。そうじゃないなら……」
――誰か、助けてくれ!
……と、その瞬間に誰かが颯爽と登場して助け出してくれれば良い感じだったのだが、そんな都合の良い展開にはなりそうも無かった。人生甘くない。
俺はしばらく鈍い腹の痛みと格闘しながら、白い部屋に寝転がっていた。しかし、うさ耳の少女はなかなか戻ってこなかった。「女王様」とやらに呼び出されて、説教でも食らっているのだろうか。なにせ、人刺したからな、あいつ。
そのとき、遠くの方でなにかが爆発するような音が響いた気がした。
「……ん?」
ぼぐわああああん。
今度はもっと近くで聞こえた。やっぱり爆発音だ。だんだん近づいてくるその音に、耳をふさぎたいが腕がなかなか持ち上がらない。俺は顔をしかめた。
――なんだ? 今度は爆弾テロかなにかか?
もう何が起きても驚かないつもりだが、俺はこの部屋から逃げ出した方が良いのだろうか。とにかく少しでも動かねば。俺はなんとかかんとか手足を動かして、部屋の隅の方に身体をずるずると移動した。それだけで息が上がる。白い壁に寄りかかり、一息つく。
「はあ、もう、誰だよ今度は」
その問いに、数秒後に答えが現れた。
激しい音を立てて入り口のドアが粉砕された。白い壁が豆腐のようにくだけ散る。その瓦礫がさっきまで自分が横たわっていた場所に降り注ぎ、俺はぞっとした。危うく生き埋めになるところだった。
「見つけたぜ、アリス!」
また、その名前だ。
俺を呼んだらしい男は、大穴の開いたドアの向こうからどしどしと部屋に入ってきた。「荒々しい」という形容詞がぴったり当てはまるような見た目だった。肩まで伸びた茶色い髪に、無精ひげ。がっちりとした体格に、日本の武士と西洋の騎士をミックスしたような甲冑をまとっていた。顔からして、二十代後半か三十代といったところか。
「だ、誰だ……?」
震えながら聞くと、男は歯をむき出して笑ってから、俺を抱えあげた。
「痛っ……」
思わずうめくが、男は俺の腹を一瞥すると、そのまま歩き出した。
「悪いなアリス。怪我の手当てはここを出てからだ」
敵か味方か分からないが、怪我の手当てをしてもらえるなら、言うことはない。素直に抱えられたまま、俺は痛みにひたすら耐えることを選んだ。
「それにしてもひでえよなあ。アリスをこんなとこに閉じ込めるなんてよお」
ぶつぶつ言いながら、男は俺を抱えて歩いていく。結局自己紹介はしてもらえないようである。俺は返事も何も言えないまま、ただ苦しげに息を吐いていた。
「まあ、将軍様ならなんとかしてくれんだろうさ」
「……しょう、ぐん?」
凄く現実感のない単語に、俺は思わず聞き返していた。
「アリスも前に会ったろうが。忘れちまったのか?」
……。とても、聞き捨てならない。
「俺、は、そんなの知らない」
途切れ途切れになりながら、やっとこさ吐き出した言葉に、男の動きが止まった。同時に、甲冑がすれてかちゃり、と音が鳴る。
「……アリス?」
「俺は、アリスなんて名前じゃ、ない……!」
大体、なんでそんな有名な童話の主人公みたいな名前で呼ばれなければいけないのだ。意味がわからない。まったくもって。――ああ、話をするのも段々億劫になってきた。息が苦しい。まぶたが重い。
「――なあ、アリス。俺のことは、覚えてるよな?」
男が、じっと俺の顔を覗き込む。少しだけ不安に駆られつつも、俺は正直な言葉を口にした。
「……しら、ない」
それだけ口にして、俺は意識を手放した。目を閉じる直前に映った男の顔は、ひどく悲しげだった。