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廃図書館のトイレの屋根は、半分以上が崩れていた。
見上げると灰色の空がやけに近く、息苦しい。
咳をしながら、あたしは目線を元に戻す。
個室は両側に四つずつ並び、向かって右奥のドアが甲高い音を立てていた。蝶番が外れかけていて、ここだけ中が見える。
でも、白い便座が見えるわけじゃない。
薄暗い、もやもやした何かが淀んでいる。
「――、行くぞ!」
斗真の掛け声に合わせて、あたしたちは次々とそこへ飛び込んだ。あたしは斗真の手をしっかりと握り、目をつぶっていた。
鼓膜に圧力がかかる。肺が押し潰されるような感覚。ここは、世界と世界の狭間。
時間にしてほんの数秒後、体を包む空気が変わったのを実感してゆっくりと目をあける。
窓から差し込む陽光の中に白のタイルが浮かび上がった。座り込んでも抵抗ないほど綺麗なタイルに、プリーツのスカートが円形に広がる。太ももの裏側が床にくっついて冷たい。
斗真が、つないだ手を引っ張って立たせてくれた。彼も緊張していたみたいで、てのひらに少し汗をかき、指はこわばっている。
あたしたちはろくに顔を見合わすこともしないで、そばに倒れている由真ちゃんの背を揺すった。ワンピースのセーラー服は裾がふわふわしてやわらかくて、のぞいた華奢な脚をくすぐる。でも、気を失っているみたいで反応はない。
彼女は斗真の三つ違いの妹、あたしと同じ高校一年生だ。兄に対して、なんだかよく理解しがたい、歪んだ情念を持っているようだった。曰く、「兄さんは嫌い。そんな兄さんに群がる女どもも大嫌い」。そうでありながら、むりやりあたしたちについてきた。
「起きないかな? このまま連れて帰る?」
斗真に訊くと、彼は変な顔をした。どうしてだよ、と質問したあたしに疑問を投げかける顔つきだ。
はからずもあたしたちはしっかりと目を合わしてしまい、慌てて顔をそらす。いまだにつないでいた手も、ぱっと離して背後に隠した。
「えっと、あたしはもう送りとどけてもらったわけだし。斗真と由真ちゃんは帰らなきゃ」
あけっぱなしになっている個室のドアに視線をやろうとすると、斗真の大きな手に遮られた。てのひらには傷跡がたくさんある。小さなのも、大きなのも。
「俺は一花といるつもりなんだけど」
「え」
「由真は……家族がいるから、返してやらないとな」
「家族って、斗真の家族でもあるでしょ?」
「由真だけでもいたらいいだろ」
ふたりの家の事情がどんなだとか、あたしは知らない。なにせ、まだ会って数時間もたっていない。
わかっているのは、斗真たちが向こうの世界の住人だということ。あたしは、こっちの人間だということ。
あたしは試験勉強をしにきたこの図書館で、向こうの世界に迷い込んだのだ。