04 チャペルと悪魔
「――主の奇跡がもたらされた。人の子に力を与えたもうたのだ。それを私たちは、魔法と呼ぶ」
「…………」
千晃は冷や汗をかいていた。
横目で隣を窺う。冷たい美貌に微笑みを浮かべたルキフェルが、講師の話を静聴していた。視線を戻す。
二限目の授業は、何やら教会の偉い人が一年生に話をしてくださるとのことで、千晃たちは学園に併設されたチャペルに集まっていた。
そう、チャペルである。信徒が礼拝する場所だ。千晃は宗教に関してあまり知識を持っていないが、神聖な場所という理解で合っているはずである。
千晃はもう一度隣を窺った。ルキフェルはくつろいだ様子で長椅子に腰掛けている。
なんだコイツ。千晃は内心でドン引きしていた。一体どこの世界にチャペルで神の教えを大人しく聞く悪魔がいるというのか。いや、大人しく聞いているというのは語弊があるかもしれない。どちらかと言うと馬鹿にした様子ではある。不遜な態度だ。
千晃たちの周りに座る生徒はいなかったが、時折ちらちらと視線は感じる。そりゃあそうだ、悪魔がチャペルにいるのである。もっと……何かこう、聖なる力に苦しむとかそういうのないのか? 千晃は半目になった。
「何だ」
そんなふうに内心で好き勝手考えていると、ルキフェルが視線をこちらに寄越した。千晃はひそめた声でルキフェルに問いかける。
「なんでここにいるの?」
「自明だろう。契約者が在るところに、俺は在る」
「そうじゃなくて……チャペルなのに」
「チャペルに悪魔がいたら悪いか?」
「悪いでしょうよ」
ひそひそと会話しているうちに、説教は終わったらしい。生徒が解散していく。講師である教会のお偉いさんに声を掛けに行く者もいた。
千晃はため息を吐く。
結局、ルキフェルの様子が気になって講師の話はろくに聞けなかった。この世界の魔法は、神の御業と深く結びついているそうだから、魔法に興味がある者としてよく聞いてみたかったのだが。まあでも、悪魔と契約した者として、もはや千晃はこの世界の神に見放されているかもしれない。もしそうだったらろくに魔法も使えないかも、そんなことを考えながら席を立ったときのことだった。
「ああ、そこの方。少々お待ちください」
チャペルに響いた声に、何の気なく千晃が振り返ると、講師と視線が交わった。千晃は肩を揺らす。周囲を窺うも、講師の目は真っ直ぐ千晃を見つめていた。
説教の間にルキフェルと話していたのを見咎められたのだろうか? それともやっぱり、悪魔と契約なんてけしからん、という話だろうか。千晃は恐る恐る前へ歩み出た。その後ろをルキフェルが付いてくる。
前へ進むと、講師は話していた途中だったらしい生徒に断ってこちらを向いた。生徒が離れていく。その緑がかった髪色に、千晃はおやっと思った。彼の髪色はずいぶん暗い。ともすれば黒髪にすら見えそうなほどである。自分とルキフェルの他にそんな髪色の人物を見たことのなかった千晃は注意を引き寄せられたが、掛けられた声に我に返った。
「突然お呼び立てしてすみません。少々お話ししたいことがあったもので」
向き直ると、講師がこちらを見て微笑んでいた。その長い髪は薄淡いクリーム色をしていて、後ろで三つ編みに編まれて肩にゆったりと垂らされている。細められた目は甘い蜂蜜色で、片方の目にモノクルを掛けていた。体格で男性であることはわかるが、どこか柔和な、女性的とすら言える雰囲気をまとった人物である。彼は聖職者の証らしい、厳格そうなボタンの多い服――もちろん色は白だ――をきっちりと着込んでいた。
「教会で大司教をしています、ユストと申します。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします、千晃です」
丁寧な挨拶に気圧されつつ、千晃は言葉を返した。どう見ても優しいお兄さんといった風情のユストだが、これから千晃は叱責されるのだろうか。
「ああ、そんなに緊張なさらないでください。私は貴方を責めたい訳ではないのです」
「は、はあ」
そんなことを言われるが、緊張しないのは無理という話である。千晃とルキフェルがチャペルの前に進み出ただけでも既に残った生徒たちの注目を集めているし、しかも話の相手が教会の大司教ともなるとそれはなおさらだ。
「チアキさん、私が貴方に声を掛けたのは、ひとつ質問したいことがあったからなのですが」
「はい……」
来た。千晃は何を言われてもいいように心構えをする。
「貴方は学園で楽しく過ごせていますか?」
「……え?」
千晃は瞬きをした。
「いえ、急にこんなことを訊いてすみません。チアキさんはマレビトですよね?」
「はい、そうですが」
「貴方の噂を聞いたときから、突然知らないところに飛ばされて、困っているのではないかと心配だったんです。貴方は未成年ですし、それに……」
ユストは千晃の髪をちらりと見た。
「……口さがない噂話もたくさんあったでしょう」
「あ、え、いえ」
千晃は曖昧な声を出した。ユストが首を横に振る。
「主を象徴する色が白なのは事実です。しかし、それと反対の色を持つ者のことを見下したり、あのように言う者がいるのは悲しいことです」
千晃は狐につままれたような心地だった。まさか教会の大司祭に、悪魔との契約のことを咎められるのではなく、自分の学園生活を心配されるとは。まるで親戚のお兄さんのようだ。
「神はあまねく全ての人に祝福を与えられる。チアキさん、忘れないでください。貴方はまぎれもなく主に祝福された子であり――マレビトという身分は、それを証明しています」
「?」
首をかしげる千晃に、ユストは微笑んで言う。
「マレビトがこの世界に訪れるのは、主の導きによるものです。主は、貴方をこの世界に必要な子とご高察された。貴方は決して見捨てられた子ではありません――」
「――大層な言説をどうも」
ユストの穏やかな声を聞いていると、不意にその調和が破られた。ルキフェルだ。千晃は彼を見上げる。
「だが、そんなことは関係ない。契約者に、よその神がどうこうだなんて全く意味のない話だ。契約者は契約者の世界で祝福されて生まれ、生き、そして――俺に魂を捧げる。これが変わらない真理だ」
「おや……」
「ル、ルキフェル」
千晃はルキフェルのジャケットを引っ張った。ルキフェルが千晃を見る。千晃は背伸びをすると小さな声で彼の耳もとに囁いた。
「ちょっと。そんなこと言ったら、大司教さんに退治されちゃうかもしれないよ」
「……ハハッ! 退治。退治ねえ」
ルキフェルは一瞬目を丸くすると、今度は声をひそめることなく大きな声で笑った。千晃はぎょっとして彼の肩に手をやったまま固まる。
「殊勝なことだ。だが、俺にその心配は必要ない。この俺が退治されるなど、そんなことは有り得ないからな。契約者、お前のすべきことは、ただひとつ――こんな耳触りの良い言葉に惑わされずに、俺を。俺だけを見ることだ」
ルキフェルは千晃の腰に腕を回すと、彼女を自分のほうに引き寄せた。千晃はよろめいて彼の腕の中に収まる。
「貴方がチアキさんに喚ばれた悪魔の……」
「はは、貴様らに名乗っても意味はなかろうよ。契約者の魂は俺のものだ」
「そう、ですか」
ユストは考えるように手を口元に当てる。やがてその唇が小さな声で何事かを呟いたようだったが、千晃には何を言ったのか聞きとれなかった。
「ふむ。ずいぶん仲がよろしいようですね」
ユストの言葉にはっとして、千晃はルキフェルを押しのけた。ルキフェルは笑みを浮かべたまま、千晃の弱い力で押しのけられてくれる。
「……チアキさん。貴方が悪魔との契約を解除したいと願ったのなら、いつでも私たちにご相談ください」
千晃が眉を寄せていると、ユストは真面目な顔をして言う。こんな言葉を先ほども言われたな、と千晃は記憶を辿った。
「確か、今年の一年生にはエゼキエルくんもいましたよね。彼は優秀な司祭です。私から彼に言っておきますから、いつでもお声がけを」
「ふん、要らん世話だな」
ルキフェルは高慢に腕を組んだ。千晃はユストを見上げる。
「どうか、貴方が悪魔に篭絡されることのないよう……」
ユストの蜂蜜色の目が、千晃を見つめていた。