03 銀色の司祭
『アートルムだ』
『あの黒髪に黒い目……』
『不吉だ』
『神は何を考えておられるのか』
『今に何か災難をもたらすに違いない』
「――ううん……」
千晃は眉を寄せた。
彼女が進むにつれて、廊下の人だかりが割れて道が出来る。千晃が助けを求めるように周囲に視線をやっても、誰も彼もが目を背けるばかり。ひそひそと何事かを囁く声だけが不快に鼓膜を揺らす。
嫌悪に満ちた目。恐れのこもったまなざし。引きつった声が廊下に響く。
『きっと、悪魔の使いに違いありません――』
「――起きろ」
「痛っ!?」
額に走った衝撃に、千晃は目を開く。ぶれる視界が治まると、そこには上から千晃を覗きこむルキフェルの姿があった。どうやら彼にデコピンされたようだ。
「な、何?」
「……授業に間に合わなくなるぞ。従者らしく起こしてやったんだ。崇めろ、契約者」
「ええ?」
時計を見ると、まだ始業には余裕がある。千晃は額をさすりながら、ベッドから身を起こした。
制服に着替え終えて戻ると、ルキフェルは尊大に足を組んで座っていた。千晃は恐る恐る彼に問いかける。
「ほんとにその恰好で行くの?」
「ああ。どこに問題が?」
答える彼の服装は、ブラウスに黒を基調としたベスト、ジャケット、パンツ、そして黒い手袋に黒いブーツであった。やたらきらきらしいというか、どこぞの貴族が着るような服なのはこの際もはや良いとして、問題なのは……。
「真っ黒だね……」
「悪魔だからな」
そう、彼の服装が黒ずくめなことだ。
千晃はため息を吐いた。そして自分の姿を見下ろす。シャツはもちろん白、そこに白を基調として金の装飾の入ったブレザーに、淡いグレーのプリーツスカート。靴下も白。靴に至って、ようやく黒がお目見えする。
そう、こんな淡い色の制服を着た生徒たちの中で、ルキフェルの恰好は悪目立ち一直線だ。千晃はもう一度ため息を吐いた。
千晃が王立コロル魔法学園に入学して数週間が経つ。そこで実感したのは、この世界の人々の信心深さだ。
この世界では神が信仰されている。そして、魔法とは神が与えたもう奇跡だという認識である。ここまではいい。問題はその後だ。
神は白い光をまとって現れたという。つまり、この世界で神を象徴する色は白なのだ。反対に、神の敵対者たる者たちは黒く描かれる。その教えが広まり、この世界ではこう理解されている――白の色彩は神聖なるもの。白に近い、淡い色彩を持つ者ほど尊い存在だ――このように。
つまりである。この世界でのヒエラルキーは、髪や目に持つ色彩が淡ければ淡いほど、白に近ければ近いほど上なのだ。そして、その色彩が濃く、暗い色へと近づくほど下になる。実際に、個人の持つ魔法の強さにおいてもこの傾向があるという。
言いたいことはもうわかるだろう。この世界は、日本人の特徴たる黒髪黒目を持つ千晃にとってかなり生きにくい環境であると。つまりはそういうことだった。
そんな暗黙の了解がある世界において、好んで使われる色はもちろん白だ。次いで、淡い色。だから王立コロル魔法学園の制服も白を基調としたデザインなのである。
そんな中、目の前のルキフェルと来たら――。
「何だ。準備はできたのか」
真っ黒である。
いや、当人も言っていた通り、悪魔なのだ。神の敵対者の筆頭なのだから、黒ずくめなのは当然のことなのかもしれない。それに、王立コロル魔法学園の校則に、従者として生徒に随行する者は制服を着用する義務はないと明記されている。
とはいえ、程度問題というものがあるだろう。言うなれば、ルキフェルの所業は、神聖なる学び舎に喪服で突入するようなものだ。
「準備は……できたけど」
それに千晃はこれ以上悪目立ちをしたくなかった。ただでさえ、マレビトということで注目されていたのに、そのマレビトが黒髪黒目、邪悪なるもののような姿をしていたということであからさまに浮いている。
そんな彼女が悪魔を連れて学園に行くのである。もう悪目立ちの極みのような状況であるのに、その悪魔がこれ見よがしに真っ黒な恰好をしていたら……もはや、神を害そうとしているとでも思われてしまうかもしれない。
「ならばさっさとしろ」
「うん……」
気が重いなあ。千晃は向けられるだろう視線や掛けられる声を想像し、がっくりと肩を落とした。
戸を開けた瞬間、ざわめいていた教室に一瞬で沈黙が降りる。生徒たちの視線が千晃に集中し、そして彼女の背後を見てすぐに散っていった。
千晃は教室の後方の机へそそくさと退避した。教室は講堂のようになっていて、前方に大きなホワイトボードが設置され、それを囲うように長机と椅子が配置されている。
身を縮めるようにして席に着くと、彼女の隣に座る人物があった。ルキフェルだ。彼は周囲を全く気にしていない様子で優雅に足を組むと、大儀そうに目を閉じた。
千晃の胸に何とも言えない感情が広がる。ここまで目立っているのはルキフェルのせいなのだが、しかしこれまでの千晃も学園で浮いていたのは同じだ。そう思うと、隣に人がいることは心強いような、でもやっぱり目立っている原因なんだよなあという気持ちも湧き、どう捉えたらよいものかわからなかった。
そうして縮こまっていると、徐々に教室に話し声が戻っていく。ひそめられた声が耳朶を打った。
「黒髪黒目のアートルムが……」
「ああ、恐ろしい」
「やはり災いの前触れでは」
「神は我らに試練を与えたもうたか」
「悪魔なんて、正気ではない」
「邪悪なるものを引き連れるとは、どういうつもりなのだ」
「アートルムなぞ……」
――バン。
俯いていた千晃は、突如鳴り響いたその音に肩を揺らした。
教室に静寂が広がる。驚いて視線を上げれば、ルキフェルとは反対隣りに、一人の青年がやって来ていた。視界の端に、ルキフェルが片目を開けたのが映る。どうやら、先ほどの音は青年が机を叩いたことによるものらしい。
「失礼。チアキ、ごきげんよう」
「えっ、ご、ごきげんよう?」
千晃は恐る恐る挨拶を返した。青年はその厳しい表情にほんの少し笑みを浮かべる。長い銀髪が揺れて、照明の光をきらりと反射した。
「私のことは知っているか」
「え、えーっと……」
視線を泳がせる。
千晃は慌てた。まだ入学して数週間であるし、王立コロル魔法学園は決まったクラスというものがない。一年生は一年生で、選択した授業のある教室にばらばらと集まるものであり、千晃の知る中学や高校のような制度とは違っていた。
「……ごめん。名前を聞いても?」
「構わない」
千晃は青年に向き直り、その姿を見つめた。紫色の目が彼女を見返す。
「私はエゼキエル。教会の司祭をしている。以後、お見知りおきを」
「!」
千晃は身を揺らした。教会の人間だ。フレデリクからうっすら話を聞いてはいたが、学園で出会うことになるとは。
「ご、ご丁寧にどうも。御影千晃です。マレビトらしいです。よろしく」
「よろしく頼む」
そう言うと、エゼキエルは千晃に向かって手を差し出した。千晃はまじまじとその手を見る。
「何か」
「い、いや! よろしく」
千晃は握手を交わしながら驚いていた。この世界に来てからというもの、千晃に触れるどころか話すことさえ避けるような者が多かったのに、エゼキエルはためらうことなく手を差し出してきた。間違いなく、珍しいタイプだ。
千晃はぽかんとしていたが、やがてその頭に疑問が浮かんだ。教会の人間が急に声を掛けてくるなんて、一体どうしたことだろう? 彼女は数瞬そう思ったが、フレデリクとの会話を思い出してはっとした。もしかすると、エゼキエルはルキフェルのことを退治するために声を掛けてきたのかもしれない。
そう考えると千晃はなんだかそわついて、思わず口を開いていた。
「え、えっと! ル、ルキフェルには、そんなすごいお願いとかしてなくて、ごく個人的なことで、だからみんなに迷惑を掛けることは多分ないというか!」
「む」
力説する千晃に、エゼキエルは眉を寄せた。
「それは違う。悪魔というものは、存在だけで人心を乱す。あの者は願望を叶えたのか、そうであるならば自分も……という考えに至るのは容易いことだ。堕落を導く悪魔を、私たちは排除せねばならない」
「うっ」
エゼキエルの正論に、千晃は二の句を継げなかった。言葉を探す彼女を見やって、エゼキエルは真っ直ぐな眼で言う。
「であるから、お前が悪魔との契約から逃れたいというのなら、私たちはいつでも力になろう。気軽に声を掛けるといい」
「――では、その時は永劫に訪れないだろうな」
「!」
肩に回された手に、千晃は思わず後ろを振り返った。ルキフェルの赤い目と視線が交錯する。ルキフェルは嫣然と微笑んだ。
「そうだろう? 契約者は、自ら、望んで、俺に願ったんだ。そこに考慮の余地は存在しない――こいつの魂は、俺のものだ」
ルキフェルの指先が柔らかく千晃の頬をなぞる。くすぐったさに千晃は顔をしかめた。
「ふん、どうだか。お前が甘言でも弄して願いを引き出したのだろう。……とにかく、そういうことだ。チアキ、覚えておいてくれ」
そう言ってエゼキエルは去っていった。どうやら、彼の目的は千晃への助言だったらしい。嵐のようなエゼキエルの行動に唖然とする千晃の肩に、ルキフェルが顎を乗せる。
「つまらんやつだ。まあいい。契約者? 言っておくが、この俺に――」
そうしてルキフェルが何か言いかけたとき、始業の鐘と共に教師が教室へ入ってきた。
千晃はべったりくっついていたルキフェルを雑に追い払うと、授業に臨むべく気持ちを立て直した。
本日ももう一話投稿予定です。