02 王子の言葉
フレデリク曰く。
マレビトとは、神の御業によって異世界から突如としてこの世界に現れる人間のことである。過去にもマレビトはこの世界に現れ、そして、大なり小なりの影響を与えてきた。その功罪から、新たにマレビトが現れたときは王家によって選ばれた貴族の後見がつくのが決まりらしい。要するに監視だ。
「ということで、君の後見は僕だ」
「え、えっ? でも、えーと、貴族の方がなるんじゃないんですか?」
あれから数時間。
千晃はフレデリクに連れられ何やら報告に行ったり、かと思えば一人離されて女性たちに体中丸洗いされたり、子供のお人形遊びのように着替えさせられたりと目まぐるしい時間を過ごし、また彼のもとへと戻ってきていた。
そのあれやこれやの間に疑問や焦り、驚きなど様々な感情の波を経験した千晃は、一周回って凪いだ心地を覚えていた。千晃はどうやら、日本から異世界へと飛ばされてしまったらしい。
赤い豊かな髪をポニーテールにしたフレデリクは、大きなデスクにしつらえられた座り心地の良さそうな椅子に腰掛け、泰然と千晃を見つめている。
どうやらここは彼の執務室らしい。護衛らしき騎士たちが控えていて、油断なく千晃を見据えていた。彼女は居心地悪く身じろぎする。
「うん、普通はね。でも、王族がなってはいけないという決まりはない。君は僕のところに落ちてきたんだから、僕が面倒を見なければ」
「は、はあ」
千晃は首をかしげた。
フレデリクは変わらず無表情で、「チアキは特殊だし」と続ける。疑問に思った彼女が問うより早く、彼は言葉を続ける。
「それでだが。早速で悪いけれど、君には学園に通ってもらう必要がある」
「学園?」
「うん。王立コロル魔法学園。僕もここに通っている。寮制の学校だ。僕と同じ場所にいてもらえれば、僕も目が届くし、君も相談しやすいだろう」
「えっ、魔法!?」
千晃は思わず声を上げた。フレデリクは首をかしげる。
「うん。君の故郷は魔法がないところ?」
「は、はい。えっ、ここの人はみんな魔法が使えるんですか?」
「程度の差はあるが」
「も、もしかして私も魔法が使えたり」
「うん。マレビトの中にそういう者もいたと記録されている。君も恐らく、そうだろう」
千晃は胸を高鳴らせた。ファンタジーといえば魔法。一般的女子高生である彼女も、幼いころ魔法の出てくる物語を読んで憧れたものである。使えるというならばぜひ使ってみたい。
「神はあまねく全ての人に祝福を与えるという。であるならば、僕も、君も」
同じはずだ、とフレデリクは青い目を瞼の裏に隠した。
千晃は目を瞬かせる。フレデリクは瞼を持ち上げると、肩をすくめた。
「あの、この世界……の宗教って」
「イーリスには教会があってね。神を崇めている」
「ええと」
フレデリクの簡潔な説明に千晃は戸惑った。そんな彼女を見て、フレデリクは付け加える。
「ああ、神だけではないな。その神話には、天使と悪魔もいる」
「はあ」
どうやらこの簡潔さは彼の性格らしい。あるいは教会に確執でもあるのか、詳しく語る気がないようだ。千晃は余計な火種には突っ込まないよう、慎重に口を閉じた。
フレデリクの青い目が千晃を見据える。
「……君は苦労するだろうが。可能な限り、力になろう」
「?」
フレデリクは口角を上げると、それきり教会について語ることはなく、学園でのことに話を戻した。
「――悪魔と契約した?」
「はい……」
ぱちぱちと青が瞬く。千晃は縮こまった。
フレデリクとの出会いからひと月は経った春のころ。
ルキフェルと契約してしまった千晃は、彼を連れてフレデリクの執務室にやって来ていた。元々、今日は王宮に用事があるというフレデリクに付いてくるよう言われて、王立コロル魔法学園から久々に出てきたところだったのだ。
そんな訳だから、何をするにも、報告、連絡、相談。フレデリクの後見を受けている千晃にとって、彼は真っ先に泣きつくべき人物である。
「成程」
フレデリクの視線が千晃の隣に並ぶルキフェルに向けられる。千晃もつられてルキフェルを見やった。
平均的な日本女性の身長である千晃からして、見上げるような高身長。話を聞いていたのかいないのか、退屈そうに部屋の中に視線をやっていたルキフェルが彼女に気付き、にこりと笑みを浮かべた。
「成程……」
さしものフレデリクもこの事態は想定外だったのだろう、同じ言葉を繰り返すと黙り込んだ。ややあって、青い目が千晃を見る。
「チアキ、君、やるな」
「え?」
咎められるどころか感心されるとは思ってもいなかったので、千晃は生返事をした。
「君、名は」
フレデリクはルキフェルに水を向けた。しかしルキフェルはつんと部屋の一点を見たまま、言葉を返さない。
「ね、ねえ」
千晃は遠慮がちにルキフェルのジャケットを引っ張った。ルキフェルの目が彼女を見て、面倒そうに口を開く。
「……ルキフェルだ」
「ふむ」
フレデリクはルキフェルの無礼な振る舞いを意にも介さず、口元に手をやった。千晃がハラハラしながらその様を見つめていると、意外なことに、フレデリクは微笑んだ。
「成程、成程。左様か」
鉄面皮のフレデリクの珍しい笑顔に、千晃は思わず身を震わせた。
も、もしかして怒っているのだろうか。それもそうだ。だって、自分が後見している異世界人が――いわば王家の管轄の人間が、神を信仰するこの国で、悪魔なんぞを喚んでしまったのである。不祥事も不祥事、大スキャンダルだ。それに怒っているのでもなければ、常に仏頂面のこの王太子殿下が笑顔になるなんて有り得まい!
「ああああの、殿下、ごっ、ごめんなさい!! あ、悪魔を喚ぶものだとは知らなくて、その、廊下にロザリオが落ちていたから、落ちてるなと思って拾って、ええええと」
「ん? うん。他の人間だったらいざ知らず、僕に謝る必要はない」
「そっ、それは陛下に正式に謝罪すべきとかいう、い、いやむしろもはや謝る必要はない、処分するからみたいなことですか!?」
「え?」
フレデリクは目を瞬かせた。そしてわずかに眉を下げ、首を横に振る。
「そうではない。君がわざと悪魔を召喚したのでもなさそうだからな。……ふむ、そうだな。少し昔話をしよう」
そう言うと、フレデリクは優雅にカップに口をつける。
「この世界で、悪魔が召喚されたことがなかった訳ではないのだ。かつて二度、この大陸は悪魔の災害を受けたと記録されている」
「えっ」
それならなおさら悪魔を召喚したなんてやばいことなのでは。千晃は青ざめた。
「悪魔は人と契約し、その内なる願いを叶える。単に、富豪になりたいだとか、意中の人の心が欲しいだとか、そういった個人的なことならば問題ない。人知れず願いが叶い、そしてその者の魂が刈り取られるだけだ」
「!?」
フレデリクは何でもないことのように言ったが、契約した者の魂が悪魔に取られている。つ、つまり、この話のように、千晃の魂も捨て置いて構わないものだということだろうか?
「……話は最後まで聞きなさい。問題は、その願いが、もっと大規模なものだったときのことだ」
フレデリクは千晃の目を覗きこむように首をかしげた。吸い込まれるような青い目が彼女を見つめる。
「つまりだ。君の願いが、王家の断絶だとか、この世界を破壊するだとか、そういうことだった場合。もしそうだったら、既に僕はここにいないだろうね」
「ち、違います! そんなことお願いしてません!!」
「だろうよ」
目もとを和らげ、フレデリクは背もたれに背を預ける。
「起こった二回の災害はそういう願いだったのだ。まあ、つまり――君の願いが邪悪なものだった場合、事は既に起こっている。こうして平和な日々が続いている以上、君に咎めるべきところはないということだね」
「そ、そうなんですか……?」
千晃は安心していいのか嘆くべきなのかわからず微妙な顔をした。
「でも魂は取られるんですよね」
「――契約に基づき、お前の魂は俺のものだ。それは変わらぬ事実」
ふいに、今まで黙って退屈そうにしていたルキフェルが口を開いた。ぎょっとした千晃が彼を見ると、ルキフェルは冷たい笑顔で彼女を見下ろす。千晃は体をびくつかせた。
「ふむ。まあ、どうしても言うのなら、手がない訳ではない」
フレデリクの言葉に、千晃はぱっと彼に向き直る。
「それって?」
「教会を頼ることだ。やつらは神を信仰し、邪悪なるものを退けることを使命としている。悪魔への対処も、多少は知っているはずだ」
千晃は大人しく彼の言葉を聞いていたが、隣でルキフェルが鼻を鳴らした。
「試したいのなら、試してみるがいいさ」
その馬鹿にした調子は、どうせそんなことでどうにもなりはしないけれど、というメッセージを含んでいた。
「それで、どうする。チアキは普段コロル魔法学園に通っているけれど、君、大人しく待っていられるか」
フレデリクがルキフェルを見やって言うと、ルキフェルは嫌そうに顔をしかめた。
「それでは契約者の望みを叶えられない。俺は契約者の傍に在る」
「そうか。では、そうだな。チアキの従者として、ルキフェルのことは登録しよう」
「えっ」
瞬く間に話が進んでいって、千晃は困惑する。
「コロルには高位貴族も通うからね。そういう制度がある。寮には従者のための部屋もあるから、心配はいらない。ただ、そうだな……」
フレデリクはルキフェルを見る。ルキフェルは何かを心得たように指を鳴らした。瞬間、ルキフェルのシルエットが縮む。
「これで良いだろう」
そこに立っていたのは、成人男性の姿をしたルキフェルでなく、どこかあどけなさを残した青年の姿の彼であった。あの角と大きな翼もなくなっている。
「うん、問題ない」
フレデリクは満足したように頷いた。千晃は事態についていけず、ぽかんとその様子を眺めるのみだ。そんな彼女にフレデリクが視線を向ける。
「チアキも、構わないね?」
「は、はい」
千晃は曖昧な声を発した。もっと盛大に怒られるものだとばかり思っていたのに、大したお咎めもなく、何なら一緒に学園に通ってもいいよとお墨付きを出されてしまった。本当にこれでいいのだろうか?
「それで」
「!」
フレデリクの声に千晃は顔を上げる。
「これは個人的な興味なのだが――」
青い目がきらりと輝く。嫌な予感に、千晃は思わず半歩後ろに下がった。
「チアキは悪魔に何を願ったんだ」