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16 理由

 息を吸って、吐く。


「ごめん、カロン。私はそんなことしたくないよ」


 千晃はカロンの手を取らなかった。カロンの金色の瞳がすうっと細くなる。


「そうですか。残念です……チアキならわかってくれると」

「確かに、カロンの言うことは理解できなくもない。けど、私は――きっと、ひとりではなかったから」


 目を伏せる。


「私はこっちの世界に来てから、確かに髪と目の色のことで色々言われたりもしたけど。でも、やっぱり……私を後見してくれるフレデリク殿下は何かと気にかけてくれたし、ルキフェルだっている。エゼキエルも心配してくれたし、カミーユ先輩だって、良くしてくれる。それに――」


 千晃は瞼を持ち上げて、カロンを見据えた。


「何より……二人組を作ってくれって言われたときに、カロン、あなたが声を掛けてくれた。魔法を全然使えない私にも嫌な顔をせず、コツを教えてくれた。そのことに、私はずいぶん救われたから――だから、そんな人たちがいるこの世界を、壊すなんてしたくない」


 カロンは一瞬きょとんとした後、不意に俯いた。そして肩を揺らす。


「ふふ、はははっ。まさか、理由がおれだなんて……皮肉ですね」

「それに、ルキフェルにお願いしたところで聞いてくれないよ。別にルキフェルは私に従っている訳じゃないし……私の差し出せるものはもうないんだから」


 そう、ルキフェルと千晃の契約は既に成立している。千晃の“ひとりは嫌だ”という願いを叶える代わりに、彼女の魂を差し出す。これ以上はもはや望めないのだ。


「はは、そうですか。……それで? あんたたちは一体おれをどうするつもりですか」


 千晃は唇を湿らせた。


「まずは、フレデリク殿下に報告、かな。私は殿下と話した結果、こうして調査をすることになった訳だから。そこからのことは……私にはわからない。殿下がどう判断するかによると思う」

「ふうん。あの王子殿下ねえ……」


 カロンは考え込むように目を伏せる。千晃はそんなカロンの手を両手で包んだ。


「どんな結果になるかわからないけど、ねえ、罪を償ったら――今度は一緒に、一から私たちの手でこの世界を変えていこうよ。難しいことかもしれないけど……カロンは優秀だし、真面目だから、きっとどんなことだって乗り越えられる。私も、微力ながら力を尽くすよ」

「……!」


 カロンは目を丸くした。千晃は微笑む。


「生まれ持った色彩で、神の祝福がどうとか能力に影響するだとか、私も馬鹿げてるって思う。だから、私たちで変えていこう。黒だって、暗い色だって、そんなもの関係ない! ……そのためには、カロン、あなたの協力が必要だよ」

「……」

「だからきっと、戻ってきてね。私、待ってるから」




「――長い一日だった」


 千晃はため息を吐いた。時刻は夕暮れ時、茜色に染まった空が千晃とルキフェルを見下ろしている。


 あの後、千晃たちはカロンをフレデリクのもとへ連れて行った。

 仔細を説明すると、フレデリクは成程、と頷いたのち、後のことは僕に任せてくれと言った。これ以上千晃が関われることもなさそうなので、彼女はフレデリクに事の後始末を任せ、この非日常から離脱したのである。


「あの後、授業にも身が入らなかったし」


 そう、あの事件は昼休みに起こったこと。色々なことが起こりすぎてばたばたとしていたが、千晃は学生の身である。カロンをフレデリクに引き渡した後は、教室に戻り、午後の授業を受けていたのだった。


 それにしても、まさか同級生のカロンが事件の犯人だったとは。元はと言えば、最近起こっている事件について自分たちが疑われていたために、必要に迫られて行なった調査であった。それがこんな結果に繋がってしまうとは、当初は想定もしなかったことである。


 千晃は大きなため息を吐いた。これで平和な日常が戻ってくる、とは到底思えない心境であったのだ。せっかく仲良くなれたと思った相手がこのようなことになってしまうなんて。カロンの沙汰がどのようなものになるかも心配である。それに。


「ルキフェル……」

「何だ、契約者」

「なんであのとき、契約外だからできないって言わなかったの?」


 千晃はこの悪魔の態度も気がかりであった。あのとき――カロンにルキフェルに命じればいいと言われたとき。そんなことはできないと言えばよかったのに、ルキフェルは千晃の反応を窺っているようだった。


「はは。別に、契約外だからできないという訳ではない。差し出すものさえあれば、俺は何だろうと望みを叶えてやる」

「その差し出すものがないって話じゃん」

「果たしてそうかな?」


 ルキフェルは笑った。千晃は半目になる。


「ないでしょ。魂を渡すんだから、それ以上に渡せるものなんてないよ」

「ふふ……そうとも限らない。例えば、お前の――」


 ルキフェルの指が千晃の顎を掬い取る。


「心だとか」


 赤い目がじっと千晃を見つめている。その囁きに、しかし千晃は嫌な顔をしてルキフェルの手を打ち払った。


「からかうのはやめてよ。そんなものに価値がある訳がない……」

「ははっ、ずいぶんと己の価値を低く見積もるのだな。悪くないだろう? 好いた相手の心がほしくて、そのために世界を壊す悪魔だって」

「何? なんかそういう本でも読んだの? ……知らないけどさ、私は現状で満足してる。だからこれ以上を願うことは、きっと、ないよ」


 千晃はルキフェルを見上げた。


「だから、私を試してるんだとしたら、それは意味がない。私は最初の願いが叶えばそれでいい。――だからルキフェルも、あれこれ目移りしないで、私の魂だけを狙っているといいよ」


 ルキフェルは目を丸くする。ややあって、声を上げて笑い出した。


「ははは! 何だ、嫉妬か? かわいいことを言うものだな、契約者」

「なっ、は!? なんでそうなるの!」

「確かに、あの人間にだって俺に願うチャンスはあった。その魂と引き換えに、この世界を壊してくれと――あいにく、その考えは浮かばなかったようだが」

「!!」


 千晃は動きを止めた。

 確かに、あの場でカロンがルキフェルに契約としてそのことを持ち出していれば……。誰にもそれは止められなかったに違いない。千晃は背筋の凍る思いがした。


「安心しろ、今はお前との契約で忙しい。仮にそんなことを願われても、俺は相手にしなかったさ――ふふ、これで満足か?」

「むっ、だから、別に嫉妬とかそんなつもりではないって!」


 千晃は抗議した。ルキフェルは目を細めて千晃を見下ろしている。千晃はむくれながらのしのしと寮への帰路を歩いた。


 長い一日が終わる。真犯人がカロンだとフレデリクに伝えたことで、千晃が犯人ではないかと疑う者たちもやがて大人しくなることだろう。千晃の心境はどうあれ、事件は収束し、いつも通りの毎日がやって来る……そのはずだ。




「え? フレデリク殿下から、話したいことがあるからまた生徒会室に来てって」


 数日後、やって来た手紙にはそんなことが記されていた。千晃に平穏な日々が訪れるのは、まだ少し、先のようである。

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