雨を呼吸する
その日は朝から雨が降っていたが、昼過ぎには濡れても気にならない程度の小雨に変わった。
「傘、いらないね」
彼女が小さくいった。
「そうだね」
彼はさしていた傘を閉じた。その傘を彼女は受け取った。
二人の歩いていた通りの並びに、一件だけ小さい喫茶店が看板を出していた。
「少し休もうよ」
彼女がそれを指して促した。
「うん」
軽く頷くと彼は先に立ってその中に入った。
小さいが、木目調の家具が落ち着いた感じの店だった。二人は窓際の席についた。
若いウエイトレスが愛想笑いとメニューを置いていった。
彼はメニューを開いて彼女に差し出したが、彼女は覗き込みもせずにコーヒー、と言った。
いつも彼女はコーヒーだった。そしていつも、彼はそれを覚えていないのだった。
彼はウエイトレスを呼び、コーヒーを二つ注文した。
その間、彼女はテーブルの脇に立て掛けた傘についた水滴を眺めていた。水滴は布地を滑り降り、床に水溜りを作った。
「傘についてきた雨が、蒸発して空気に混じるわ。私たち、空気じゃなく雨を呼吸してるのよ」
彼女は、独り言のようにそう言った。
「ふうん」
彼は気のない返事をした。
「雨を避けてずっと傘をさしてきたのに。結局、雨が勝つのね」
「……」
彼は彼女のお喋りが理解できなかった。
彼の頭の中には、水を吸い込めば咳き込むし傘をさせば雨に濡れない、という常識以外は住んでいなかった。
彼の興味の対象はそんな想像の世界とは無縁で、もっと違うところにあった。
彼女は、それを知っていた。知っていたが、どうすることもできなかったし、どうにかする方法も見つけられなかった。
しばらくして、ウエイトレスがコーヒーを二つ運んできた。テーブルの上に並べると、愛想笑いをして言った。
「ごゆっくりどうぞ」
淹れたてのコーヒーは湯気を立ち昇らせていた。
彼女は何も入れない主義だった。だが彼は砂糖もミルクも入れるのが好みだった。
彼がミルクをコーヒーに注ぐと不可思議なマーブル模様が生まれた。
彼女はそれを眺めていた。
「私、自分ではなにもいれないけれど、ミルクを入れているところを見るのが好き。その、模様ができるところが」
彼女はそう言った。が、彼はすぐにスプーンで均一にかき混ぜ、模様を消した。もちろん、飲み物を飲む作業として。
二人は一口づつコーヒーを飲んだ。そしてなんとなく窓の外を見た。
雨はすっかり止んでいた。通りを人々や車たちが流れて行った。
そのうち、彼がぼそっと言った。
「あ、いい車」
彼はその車が見えなくなるまで眼で追い続けた。とても熱心に。
彼女には、彼の言ういい車、がどれなのか判別できなかった。彼の見ている方を探したが、わからなかった。
けれど、彼がいつまでも窓の外を見ているので、彼女も彼の視線の方を見続けた。
それから二人はそれぞれのコーヒーを飲んだ。甘いコーヒーと純粋なコーヒーを。
カップが空になるまでずっと無言だった。
沈黙の果てに、彼女は真面目な顔で彼に聞いた。
「ねえ、私といて楽しい?」
彼は今日初めて、彼女と目を合わせた。
彼にとって彼女とは、現在交際している彼好みの容貌の女性、それだけの存在だった。
彼はこういった場合の返答を、一般的な常識で答えた。
「楽しいよ」
「そう、よかった」
彼女は言った。
彼女は微笑み、そして悲しんだ。
彼女は返答の理由を、それを、知っていたから。
やがて、どちらからともなく席を立ち、彼が代金を支払いにレジへ向かった。
店を出るとき、彼女は振り返って小さい水溜りを見、これから片づけられるカップを見、窓の外を見た。
そして、今度ここへ来る時は独りなのだろう、と思った。
終
このお話に最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
1994.11初 2008.04修正