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北西の国の恋物語

シュテルン子爵邸の侍女は観察する

作者: あやぺん

 夜明けの太陽の眩しさで、目を覚ましました。起きれるように、カーテンを開けてあるので、すぐに天気が分かります。本日は快晴。素晴らしい天気で、洗濯日和です。私、サシャは今日も張り切って働こうと思います。何せ、住み込みで働いているシュテルン子爵邸の仕事は高待遇です。お給料は高いし、広い私室を与えられ、勤務服も可愛い。何より、奥様がとても優しいです。楽しくお喋りしてくれますし、勉強も教えてくれて、ごく普通に働いているだけで、すぐにご褒美をくれます。


 洗濯の前にするべき仕事は、奥様の身支度のお手伝いです。今日は同僚のアンナ、ミレーはお休み。私が奥様を綺麗に着飾ります。支度を終え、私室を出て、シュテルン夫妻の住まう3階へ移動。お二人の私室の扉をノック。旦那様は多分もういません。夜明けと共に、体を鍛えに行くのが日課らしいです。返事なし。ということは、奥様ももう不在。一人で衣装部屋へ行ったのでしょう。私、寝坊していませんが、奥様は気が早いので、いつも間に合いません。でも、これ以上早く起きる気にはなりません。怒られないので、良しとしています。移動して、衣装部屋の扉をノックすると、やはり奥様の返事がありました。


「おはようございますエトワール様。サシャです」

「おはようサシャ」


 扉が開き、奥様が現れました。もうドレスを着ています。今日は紺色に白い薔薇柄のドレス。地味だけど、大変美人なので、何を着ても可愛らしいです。ただ、どちらかというと似合っていない分類。若い奥様に、大人びたドレスは、早すぎな気がします。それよりも問題なのは、髪が鳥の巣みたいになっていることです。


「大変なのよ。サシャが来るまでに、この間の髪型に挑戦したら、酷い有様よ」


 奥様はキョロキョロと廊下を確認すると、私の手を引いて、部屋に入りました。慌てたように、扉を閉めます。おまけに鍵も掛けました。


「こんな可愛くない姿を、フィラント様に見られたら困ります」


 深いため息を吐くと、奥様は私の手を離し、鏡台前の椅子に腰掛けました。私とそんなに歳の離れていない若奥様は、先日政略結婚した旦那様に絶賛片思い中。結婚する前から、褒められる髪型や化粧は何かと、悩んでいます。


「これ、やり直そうとして、余計に酷くなったとかですか?」


 私は櫛を手に取りました。


「そうなの。助けてサシャ。頭のてっぺんだけ短髪にしないといけなくなったら、どうしましょう」

「心配いりません。お任せ下さい」


 奥様の髪は細くて癖っ毛です。でも、私達侍女が蜂蜜で艶々にしているので、注意しながら梳かせば、元通りになる筈。


「サシャがいて助かったわ。ありがとう」

「お休みの日でも、あまり出掛けたりしませんから、緊急時は呼んでください。この間の……」

「チョコレート、よね? 私も好きだけど、サシャはチョコレートが大好きよね」

「はい。大好きです。その時は、よろしくお願いします」


 鏡越しに目が合うと、奥様は微笑んでくれました。私が好きなのは、奥様もです。役に立ち続けて、ずっとこの屋敷で働きたいです。


「痛かったら言って下さい」

「自分でやると、どんどん絡まっていくの。多少痛くたっていいわ。ありがとう」

「そこは私の腕の見せ所です」

「ふふっ、ならきっと大丈夫ね。昨日、マドレーヌを沢山頂いたの。オットーに声を掛ければ出してくれるわ」

「本当ですか⁈ ありがとうございます。有り難く、いただきます」


 髪を梳かすという、通常業務でお礼を言われ、お菓子もゲット。こんな侍女、滅多にいないと思います。この職場から、絶対に追い出されたくありません。気合いを入れて、奥様の髪を編み込みます。


「エトワール様、今日のご予定は?」

「礼拝後、そのまま教会で神父様の手伝いです。数学と、古語の朗読会。昼はフローラに誘われているの。その後、女学院でマナー講義です」


 私は手を止めました。今日は奥様をあまり着飾るべきではないと気がついたからです。学校に通えない子供達に無償で学問を教える活動の支援。立派な事ですけれど、可愛い奥様を見ようと、男の野次馬が大勢集まります。奥様を綺麗に飾ったら、更に人が増えるのは、先週学びました。


「サシャ?」

「今日は風が強いらしいです」

「まあ、そうなの?」

「なので、髪をしっかりあげます」

「そう? 最近太ったので、輪郭がはっきりするのは困るのよね……」


 そう言うと、奥様は拗ねたように唇を尖らせました。自分のほっぺたをムニムニと引っ張っています。最近太った、は確かにそう。初めて会った時の奥様はガリガリでした。貧乏子爵令嬢は、1ヶ月少しで健康的に太りました。今の方が、とっても良いです。しかし、恋する女性に「太った」は禁句。で、輪郭が目立たない髪型の要求。全く必要ないけれど、奥様の要望には答えないと。取り敢えず、顔周りの髪は、少し残しておきましょう。終わったらお化粧。白い真珠のような肌に白粉は不必要。というか、奥様に化粧なんて要りません。世の中は不公平ってくらい可愛い。けれども、本人が納得しないので、薄化粧を丁寧にします。ゆっくり、じっくり、化粧をあまりしていないことを見抜かれないように。化粧当番の日は、結構疲れます。


「私も早く自分できちんとお化粧を出来るようになりたいわ」

「慣れですよ、エトワール様」

「そうよね。不器用だから、何倍も時間がかかるのよね。頑張らないと」


 と、言いながら私の本心は「厚化粧をするからです」というもの。奥様は、もっと可愛く、綺麗になりたいと欲張りなので、かえって素材を台無しにしてしまう。その原因は——……。


「はあ、今日こそフィラント様に褒めてもらえるかしら?」


 しょんぼりと肩を落とすと、奥様は手を弄り始めました。厚化粧の原因は、恋です。奥様は切なそうに結婚指輪を見つめています。知り合って1ヶ月、そして新婚4日目。奥様は旦那様にべた惚れです。結婚を命じられて、旦那様と対面した日に、一目惚れ。しかし、旦那様は大変素っ気ない。こんなに可愛い、天使みたいな奥様に興味が無いって、変な男。私が男なら、狂気乱舞です。


 騎士爵から出世する為に、本来得られない子爵位を得る為に、奥様をお金で買うように結婚したというのも、あまり好ましくは思えません。成金子爵では世間体が悪いと、わざわざ1ヶ月前に屋敷を購入。そこを奥様のお父様の別荘ということにして、奥様を住まわせ、毎日通って見せる。花やお菓子を毎日贈っり、口説き落としたと吹聴。恋愛結婚の方が体裁が良いからです。でも、実際は挨拶しかしていませんでした。贈り物も執事に渡しているだけ。むしろ、側近が用意したものを、執事へ渡していただけかも。屋敷に花が増えていったのも、たぶん花屋が届けていたか、遣いを雇ったとかでしょう。何も知らない人達はすっかり、旦那様と奥様は熱愛電撃結婚というシナリオを信じています。旦那様は計算高い、強か人間です。


 新婚初日に新しい食器を2人で買いに行ったので、奥様の機嫌を取るつもりはあるみたい。婿入りして子爵位を手に入れたので、追い出されたくないのでしょう。奥様の明け透けない恋心は無下にするのに、初夜はちゃんと済ませたよう。奥様が乱暴で雑な扱いをされなかったか心配です。恋は盲目、とは恐ろしい。奥様は目を覚ますべきではないかと思う、今日この頃。


「エトワール様は、本当に旦那様がお好きですね」


 格好良いけれど、旦那様は無表情か、眉間に皺の気難しい表情ばかり。怖くて近寄り難い雰囲気。私は旦那様が、かなり苦手です。奥様の為に、情報収集しようと頑張って話しかけた事もありますが、奥様にヤキモチを妬かれたのでもうしません。


「す、す、好き? え、ええ、そうよ。そう、好きなので、褒めてもらいたいのです」


 顔を真っ赤にして、照れ照れ笑うと、奥様はまた小さなため息を吐きました。私はまだ恋を知らないけれど、いつか誰かを好きになったらこうなるのでしょうか? 自分の容姿で想像したら、気持ち悪かったので、直ぐに止めました。


「きっと褒めて下さいますよ。エトワール様はこんなにお綺麗ですもの」

「そうね、だってサシャがこんなに可愛くしてくれたもの。本当に器用ね。何割り増しかしら?」


 完成した奥様は、正直なところ、身支度前とそんなに変化していません。一度奥様の視界で世界を見てみたい。どう歪んでいるのでしょう? まあ、この1ヶ月、旦那様が褒めてくれないので、自己評価がおかしくなってしまったのでしょう。奥様は自信満々、気合い十分というように立ち上がりました。前向きなのは、奥様の良いところ。


「うーん、ドレス、やっぱり可愛げがないかしら?」


 姿見の前に移動すると、奥様はくるくる回って、自分自身を確かめました。


「でも、明るい色の時のフィラント様、似合わないと言わないでくれるけど……そう言いたげなのよね……。桃色とか水色って、自分に良く似合うと思っていたのに……」


 全くもってその通り。今日の暗い色のドレスは似合っていません。奥様には、明るい色、それでいて淡い色が似合います。


「一昨日は気のせいかと思ったけど、昨日もだったし……」

「私は一昨日の水色のドレスが好きです。奥様に1番似合うと思いますよ」


 今日はその1番似合うドレスとは真逆の、大人びたドレス。体の線や胸が強調されています。寄せてあげたのか、奥様の本来の胸以上の谷間も存在します。元々細いのに、コルセットもキツくしていそう。ご飯が食べれなくて、また痩せてしまわないか心配。今のドレス、奥様には背伸びしすぎに見えるけれど、本人が選んだので、似合わないとは言えません。胸やコルセットの事も、黙っているしかありません。


「私もそう思うのだけど……私に必要なのは自分に似合うよりも、フィラント様好みのドレスよ」


 また小さなため息。祈るように胸の前で手を握ると、奥様は歩き出しました。そろそろ、朝食の時間です。ササッと移動して、奥様の為に扉を開きます。素早く移動しないと、貧乏だったせいで世話されることに慣れていない奥様は、1人で何でもしてしまいます。朝、私が来る前にドレスを着ていたのもそう。


「ありがとうサシャ」


 扉を開くという、ごく当たり前の業務で褒められるのは、大変良い気分。


「いえ、奥様。武勲を祈ります!」

「ありがとう! 頑張るわ!」


 軽口を叩いても、奥様は怒りません。それどころか、親しげな笑顔を向けてくれます。奥様は握っていた手を離し、グッと拳を握りました。それから、勢い良く駆け出しました。廊下をタタタタタと走り、あっ、またドレスの裾を踏んだ。奥様は旦那様に会いたい時、直ぐに走ります。で、良く転ぶ。今日は転ばす、よっとっと、と上手く体制を立て直したので安心。


 さて、私は洗濯の準備です。それで、奥様達の食事が済んだ後に、ほっぺたの落ちそうな朝食を頂きます。初めて奉公した屋敷では、カビの生えたパンの処理係だったのに、朝焼いたばかりのパンを食べられるという至福。おまけに野菜がいっぱい入っている、毎日味の違うスープ付き。シュテルン子爵邸は天国です。


 三階のリネン室から、ご夫婦の洗濯物を一階のリネン室へ移動。旦那様の衣服は無視するように言われているので、旦那様の衣服専用のカゴには触りませんし、近寄りません。昨日もですが、今日もほんのりと血の匂いがして、嫌な気分。旦那様は領主側近と騎士団副隊長の兼務。隼のように罪人を突き刺す姿を、遠くからですが、何度か目撃しています。市民を守る英雄ですから、尊敬していますけど、血の匂いは苦手。朝から血の匂いって、ちょっと憂鬱。


 次は二階。住み込みの従者の洗濯物。全部集めるだけでも一苦労。で、これを洗濯場へ運んでおいて、朝食を摂って、洗って、干して、玄関ホールの掃除をしたら、午前中が終わる予定。


「ご苦労サシャ」


 リネン室で声を掛けられて、振り返りました。衝撃的な事に、旦那様です。初めて話しかけられました。相変わらずの無表情。目が合うと、眉間に皺が出来て、口は少しへの字。何か怒らせた? スラム出身の侍女なのに、奥様に馴れ馴れしくしているのがバレた? お菓子を要求し過ぎだとバレた?


「おはようございます旦那様」

「ああ、おはよう」


 心臓が嫌な音を立てて騒ぎ出します。不機嫌そうな表情。冷ややかな目で私を見据えて無言。こ、怖い。


「何でございましょうか? 仕事なら何でもします」

「そうか。仕事ではなく少し話がある」


 首に手を当てると、旦那様は出入り口脇の壁にもたれかかりました。益々、不機嫌そう。重たい空気。叱責なら、早く済ませて欲しい。


「エトワールの、あのドレスのことだ」


 奥様のドレス? あのドレス?


「申し訳ありません。私、ドレスの着せ方を間違えましたか?」


 奥様が自分で着た事は秘密にしておきましょう。奥様の失敗を被るくらいで、今の生活と釣り合いが取れます。


「その辺りは、信頼しているので任せている」


 私から目を逸らすと、旦那様は床をジッと見つめました。あれ、怒られる訳ではない? むしろ、信頼していると褒められました。


「それであのドレス。それとなく、着替えるように伝えてくれないか?」


 何故ですか? と尋ねたいところですが、私の雇用主は旦那様です。質問を反抗と捉えられたら困ります。あと、困るのは今の状況を奥様に見られること。ムスッと不機嫌になりそう。結婚前、奥様の為に旦那様から情報を仕入れた時、奥様はかなり気分を悪くしました。私に嫌がらせなんてしませんでしたが、自己嫌悪で酷く落ち込んだ奥様は、面倒臭かったです。


「かしこまりました。ご指定のドレスはございますか?」


 領主夫人と昼食をすると言っていたので、地味なドレスだと困るということ? フローラ様はエトワール様と大変親しくなっているので、気にしないでしょうけれど、貧乏子爵夫人と噂されたら自分の面子が潰れるということ? 奥様は長年貧乏だったので、豪華な物が苦手だそうです。それが、旦那様からすると気に食わない?


「明るい色なら何でも。例えば一昨日のような」


 小さなため息を吐くと、旦那様は唇を真一文字に結びました。一昨日は、水色のドレスです。白いマーガレット柄の刺繍があしらわれ、背中に青いリボンが並ぶドレス。愛くるしい奥様にとっても似合う、可愛らしいドレスです。今日の大人びたデザインの落ち着いた色合いのドレスよりも、何倍も素敵。若いうちしか着れない、という点でも、一昨日のドレスの方が今日のドレスよりも数倍良いです。


「いや、着替えなんて大変だ。聞かなかった事にしてくれ。すまない、仕事の邪魔をした」


 はああああ、と深く息を吐くと、旦那様はシーツの入った洗濯カゴを持ちあげて、私に背中を向けました。


「俺は何を言っているんだ……」


 かなり小さな声。恐らく、独り言でしょう。着替えなんて大変、ということは奥様を気遣っています。似合わないドレスを着る奥様が、社交場で笑い者にならないように、気にかけたということ? 質問したい気持ちがムクムクと起きてきました。


「あの……」


 何故ですか? そう尋ねる前に、旦那様はまたため息を吐きました。


「あんな艶っぽくて綺麗なのを、衆人の目に晒すのか……。いや一昨日の可愛らしいのも同じ……むしろ、あれこそ似合い過ぎている……」


 姿が見えなくなる直前に、衝撃的な台詞。予想外の発言。思わず、私は旦那様を追いかけました。旦那様は奥様を人目に晒したくない程気に入っている。今の発言、奥様にとって朗報です!


 あれ? そもそも、どうして旦那様が洗濯カゴを運んでいるのでしょう? 慌てて旦那様の横に並び、カゴに手を伸ばしました。


「ん? 仕事の邪魔をしたのでこれは私が運ぶ」


 私は口をあんぐりと開けました。驚きで声が出ません。


「時間が無いのでこれだけですまない。いや、大変な仕事をしてくれて、ありがとう」


 表情は怖いし、声は低くて威圧感さえあるのに、優しさを感じました。ありがとう、そう口にした時の柔らかな雰囲気。旦那様はスタスタと歩き出しました。足が長いので、歩幅も大きく、あっという間に屋敷の外へ出る扉の近くまで移動しています。私は旦那様を誤解していたようです。


「エ、エトワール様!」


 耐えられなくて、私は叫んで、談話室へ向かいました。朝食後、礼拝に行くまでの時間、いつものように談話室で読書をしている筈。さっきの話をしたら、奥様は絶対に喜んで……いや、2人で話しをしたなんて、またヤキモチを妬かれるかも? 優しい奥様が私を睨むのは嫌。更に睨んだことを自覚した奥様は落ち込み、ぶつぶつ反省の言葉を呟く。あれは面倒臭いです。可愛くて優しい奥様に、ぶすっと睨まれるのは大変辛い。


 談話室前で止まり、どうしたものかと考えます。やっぱり、奥様の嫉妬姿は嫌。なので、洗濯場へ洗濯物を運びましょう。旦那様と奥様が出掛けたら、朝食を摂れます。食べながら悩むことにします。一階のリネン室と洗濯場を何往復かして、今日洗いたいものを運びます。あと一往復、という時に、ゴーン、ゴーンと鳴り響く聖堂の鐘の音が聞こえてきました。これが初回。三度ある朝の礼拝の鐘の音のうち、この一回目はお見送り時間の合図となっています。急いで玄関ホールへ向かいました。


「遅い」


 執事フォンに、耳打ちされました。確かに、奥様はもう手袋、帽子、日傘の準備万端。私の隣に、フォンの妻、礼儀作法の講師ヴィクトリアが無言で立ちました。彼女が奥様の世話をしたのでしょう。目が怒っています。ヴィクトリアは奥様の講師なのに、侍女も鍛えてきます。侍女頭はミレーですが、真の侍女統括者はヴィクトリア。奥様をペチャンコにするヴィクトリア。その旦那様の執事フォンは旦那様のお目付役、らしいです。フィラント様の後ろ盾の公爵様が、旦那様の為に用意したとか、しないとか。だから、ヴィクトリアとフォンには、絶対に逆らってはいけません。反抗したら、即クビにされるでしょう。


「すみません」

「新しい生活に、慣れる努力をするように」

「はい」


 執事からの叱責はそれだけでした。ヴィクトリアは何も言いません。それで、旦那様と奥様、どちらも私を咎めません。というより、奥様はポーッと旦那様に見惚れて、私の存在なんて目に入っていないようです。旦那様は、少し眉根を寄せてはいますが、ほぼ無表情。奥様が旦那様の腕に手を添えました。頬がポポポポポと染めて、はにかみ笑い。見ているこっちが照れてしまうくらい、分かりやすいです。旦那様はというと、頬を引きつらせています。旦那様が奥様に好意的だと判明した今、この旦那様の表情は不思議でなりません。奥様は、旦那様の反応を見て、ショボくれてしまいました。昨日、一昨日と同じ光景。


「行ってらっしゃいませフィラント様。エトワール様」


 ヴィクトリアが淡々とした声を出しました。次は華麗で優雅な会釈。


「行ってらっしゃいませ」


 私もヴィクトリアを真似して会釈。採点されてそうで緊張する。


「では参りましょう。フィラント様、エトワール様」

「行ってくる」

「行ってきます」


 フォンが歩き出し、旦那様と奥様が続きます。玄関の扉を第二執事のルミエルが開きました。お見送りが終わると、ヴィクトリアが私と向かい合いました。


「サシャ。午後、会釈の角度を練習しますよ」

「はい、ヴィクトリア様」

「それから、エトワール様の今日のドレスは、今日を境にしまってしまいなさい。あれ、多分お母上のものでしょう。虫が食って、穴が空いているので繕いますとか言っておきなさい」

「はい、かしこまりました。しかし、何故です?」

「奥様に似合わないドレスは取り上げる。それも侍女の仕事です」

「そうなのですか? 初めて知りました」


 どちらかというと、私の常識の範囲外です。小間使い侍女は、奥様のお洒落には、口出ししてはいけません。


「小間使い侍女ではなく、夫人付き侍女だという自覚を持ちなさい。奥様の評判を良くするのは、夫人付き侍女の腕の見せ所よ。茶会への付き添いもあるから、ビシバシ鍛えますからね」

「はい。それなら頑張ります。でも、私が夫人付き侍女?」


 お茶会への付き添いは、貴族侍女アンナの仕事の筈。貴族侍女が夫人付き侍女。ミレーと私が小間使い侍女だった筈……。まあ、確かに今の私の業務内容には、夫人付き侍女の仕事も含まれています。違和感を無視していましたが、まさか、自分が小間使い侍女では無くなっていたなんて。だから高給取りになったのか。


「契約書を確認していないのですね。まさか、まずは読み書きから? そろそろ確認しようと思っていたので、午後はテストね」


 ピシャリと言い放つと、ヴィクトリアは私に背を向けました。


「読み書きは奥様が教えてくれています。テスト? テストとは何ですか?」

「エトワール様が? 随分と親しいのね。ああ、貴女、学校に通えない出自でしたっけ? テストは何か、それはすれば分かります。この私が格式高い侍女に育ててあげますから、励みなさい」


 そう言い残すと、ヴィクトリアはスタスタと去って行きました。奥様宛の手紙の整理や返事の下書きでしょう。この私、とは随分な自信家。それで、私を格式高い侍女に育てる? なんか、面倒臭いけど、従ったら仕事に困らなくなりそう。真面目に励めば、良い環境を得られる。得られなくても、身に付けた事は次に生かせる。私はそれを、前の職場と、今のこのシュテルン子爵邸で学び中。


 とりあえず、朝食を済ませたいです。食事は私の趣味。それにシュテルン子爵邸の従者の食堂は、綺麗に飾られています。お姫様気分になれます。最初の職場の、豚小屋とは雲泥の差。今日の朝ごはんはサラダととうもろこしのスープ、それからふわふわの白いパンでした。幸せ。朝食の後は洗濯、玄関ホールの掃除。予想通り、それでお昼。昼食は野菜とハムのサンドイッチ。ハムなんて最高。大好きなトマト入り。しかも新鮮でした。腐ったものの処理をさせられないのも、このお屋敷の良いところ。私は絶対に、クビになりたくないです。


 ハム入りサンドイッチを食べられるという至福に浸った後は、張り切って三階の廊下と窓掃除。誰も居ないので、つい歌ってました。途中でヴィクトリアが現れ、慄きました。歌ってないで働け! と殴られた事は片手では数えきれません。もう昔の事だから、つい忘れてしまいます。


「貴女、歌が上手いのね。ミレーは音痴でしたから、賛美歌への参加は貴女ね。で、古語の朗読会はやはり無理」

「賛美歌への参加でございますか?」

「まあ、この話はまた今度。それより、基礎学術の確認をするわよ」


 そう言うと、ヴィクトリアは私を図書室へ連れて行きました。テスト、とは恐ろしいものでした。私、多少の字は読めます。しかし、足し算、引き算? ことわざ、って何? 知らない文字だらけの本を読めって言われても、サッパリ。?がいっぱい。ただ、裁縫のテストは簡単でした。


「サシャ、貴女もう15でしたっけ? 良くもまあ、今の職に就けたわね。幸運どころではないわよ」

「私もそう思います」


 この街のスラムにいたら、いつか娼婦の仲間入り。それで8歳の時に、王都まで何日もかけて歩いていき、屋敷という屋敷の扉を叩いて、小間使いの仕事を得ました。12歳の時、お腹が空きすぎて、最初の奥様のおやつを盗み食いしたと言われ、牢屋行きになりそうになり逃亡。濡れ衣です。襲ってきた執事に歯向かったら、そうなりました。それから職を転々として、どんどん良い環境になり、気がついたらシュテルン子爵邸の夫人付き侍女。成り上がり少女とは私の事です。


「そろそろ奥様の帰宅時間でしょう」


 うんとテストをすると、ヴィクトリアはようやくそう言って、私を解放してくれました。確かに、夕刻17時を知らせる鐘の音が聴こえます。


「はい。今日はテストをありがとうございました」

「私は勤務終了。部屋に帰るわ。では、お迎えは頼んだわよ」


 ヴィクトリアは無駄のない動き、かつ優雅な動作で去っていきました。


「頼んだわって、私、初めて任された」


 奥様のお出迎えは、いつもヴィクトリアかアンナ、ミレーの仕事。私一人に任されるなんて、成長を認められたようで嬉しい。玄関ホールへ向かい、ソファの隣の椅子でハンカチの刺繍をしながら奥様を待ちました。途中、第二執事のルミエルが現れ、ソファに腰掛けました。彼は読書。ルミエルはどちらかというと無口だし、年もうんと離れているので苦手。程なくして、奥様は執事のフォンと帰宅しました。


「おかえりなさいませ奥様」

「おかえりなさいませ奥様」


 ルミエルの挨拶の次に、すぐにご挨拶。我ながら完璧なタイミング。手袋、帽子、日傘を受け取ります。これも問題なし。私って、優秀! でも、自惚れは失敗の元。気を引き締めましょう。


「ルミエル、フィラント様はまだお仕事ですか?」

「はい、エトワール様。王都へ行く前で、準備もあるので、今夜も早く帰宅されると思います」


 瞬間、奥様はパァァァっと明るい笑顔を浮かべました。実に分かりやすい。先程まで、疲れた様子だったのに。その時、ガランガランと玄関扉の鐘が鳴りました。奥様が勢い良く振り返ります。その次は走り出す。トトトトトッと、まるで飼い主の帰りを待ち望んでいた犬みたい。


「おかえりなさいませフィラント様。今日もお怪我はありませんね」


 奥様の後ろ姿に、花びらが舞っているように見えます。旦那様はというと、険しい表情。おまけに一歩後退しました。ふわふわ揺れていた奥様のプラチナブロンドヘアーが、動かなくなりました。旦那様が自分から離れて、ショックを受けたのでしょう。


「はい。怪我はしていません」

「あの、それは……安心しました」

「ルミエル、頼む」


 旦那様は上着を脱ぎながら、奥様の脇を通り過ぎました。いつも通りの無表情。こちらを向いた奥様は、上着や鞄を受け取ろうとしたような手付き。顔は完全に落ち込んでいます。旦那様のお世話をしたかったのでしょう。無視されて、しょんぼりしています。


「旦那様、それ……」

「ん? ああ、大した事ない」


 旦那様の白いシャツ、右腕に血のような斑点。あれは絶対に怪我です。包帯を巻いているのも、透けて見えました。旦那様は上着でシャツを隠し、ルミエルと何か話しながら、二階へ上がっていきました。騎士団副隊長、フィラント・シュテルンは現場で大活躍だという噂なので、何かの事件で怪我をしたのでしょう。それなのに奥様には、嘘をついた。

 

「今のは見なかった、聞かなかったことにしろ」


 フォンに耳打ちされ、私は小さく頷きました。


「エトワール様。談話室でお寛ぎ下さい。サシャが手足を軽く拭いて、化粧や髪型も直します」

「談話室? 化粧道具を持ってくるのが大変よ」

「それも仕事です。あまり侍女を甘やかすのは、本人の為になりません。今と次の職場とのギャップが激しくなり、困るのは本人ですから」

「そう? それならサシャ、お願いするわ。フォン、進言ありがとう」


 腑に落ちない、というように奥様は談話室へ向かいました。


「フィラント様も、持ち帰った書類をしまったり、手紙の確認が終わったら談話室へ降りて来られるでしょう」

「そうだと嬉しいわ」


 奥様は談話室へ向かっていきました。私はフォンに聞いておきたい事があります。


「あの、フォン様。私に次の職場があるのですか?」


 シュテルン子爵邸の侍女になって、まだ1ヶ月と少し。実は落第点をつけられていた?


「決めるのは旦那様や旦那様の上官だ。追い出されたくなければ、今のように真面目に働いてなさい」

「はい。ここは天国みたいなので、絶対に追い出されたくないです」

「それなら、エトワール様にこう言うと良い。明日のドレスは水色が良いと思います。で、今日のドレスを繕いますとかなんとか言って隠せ」


 ドレスについてはヴィクトリアと同じ指示内容。


「はい、ヴィクトリア様にもそう言われました。似合わないものを奥様が着ないようにするのも、夫人付き侍女の仕事だと」

「いや、似合わない訳ではないし、流行物だが……旦那様が気に入らなそうだからだ。追い出されたくないなら、フィラント様の機嫌を取りなさい」


 ニヤリと笑うと、フォンは肩を揺らしました。


「気に入らない? 綺麗だと褒めていましたよ。旦那様の独り言を聞きました。あっ! 人目に晒したくないとも言っていました」

「ははっ! 何だ、サシャも聞いたか。それだ、それ。あと、多分だが、フィラント様はエトワール様の一昨日のドレス姿をかなり気に入っている。旦那様が本人に言えれば、何もかも上手くいくんだけどな」

「そうですね、奥様は大喜びすると思います」


 想像は簡単。奥様がニコニコ、デレデレしている顔が浮かびます。情報をまとめると、旦那様は奥様が好き。で、照れ屋か口下手? 貴族男性は呼吸をするように女性を褒めますが、旦那様はつい4日前まで騎士爵。結婚して子爵位を手に入れても、中身は変わりません。騎士爵は貴婦人やご令嬢と接する機会は少ないので、慣れてないだけ? この街の騎士団員も、女たらしは少ないです。


「さり気なく手助けをすると、長く働けるぞ、というアドバイスだ。では、エトワール様を頼む」


 そう言い残すと、フォンは二階へ向かっていきました。私は洗面器、お水、タオルの準備をしに、奥様専用のお風呂場へ向かいました。先に身綺麗にして、化粧はその後。洗面器などを持って談話室に入ると、奥様はソファに腰掛けて、項垂れていました。


「エトワール様、お待たせしました。あの、疲れました?」


 十中八九違います。先程の旦那様の素っ気ない態度に落ち込んでいるのでしょう。


「いいえ。元気よ。ううん、疲れてはいないけど、元気はないわ」

「何かお手伝い出来ます?」

「ありがとう、サシャ。自分の問題だから、大丈夫よ」

「そうですか」


 私は奥様の前に腰を下ろし、靴を脱がせました。かかとに靴擦れが出来ています。化粧道具を持ってくるときに、変えの靴も必要です。足を拭き始めると、奥様はまた「ありがとう」と言ってくれました。あと「慣れないわ」とぼやきもしました。つい最近まで貧乏子爵だったので、侍女に世話をされたことが無かったらしいです。


「そういえばエトワール様」

「なあに?」

「今朝なのですが、たまたま、偶然、廊下で旦那様の独り言を聞きました。すれ違った時です。目を合わせてませんし、話してもいません」

「まあ、サシャ。そんなに気を遣わなくても、私は嫉妬を克服するわ」


 奥様は呆れ顔を浮かべました。余計な事を口にするのは、私の悪い癖。奥様は不安そうな表情。旦那様の独り言、の内容を良い意味だと想像していないのでしょう。


「それは置いておいて、旦那様の独り言です」

「何と言っていたの? 食事のことかしら。フィラント様、食べることが苦痛らしいの。食べやすい食事を検討中です」

「食事が苦痛?」

「何度も戦地へ行って……味覚が無くなってしまったそうなの。今日ね、お医者様にそれとなく聞いてみたけど、精神的なものなら、そのうち落ち着けば治るだろうって……」


 旦那様の秘密という大事な話をされるのも、あの澄ました旦那様にそんな心の傷があることも、驚愕。


「サシャ、貴女もオットーと色々考えて欲しいの。食べやすいもの」

「それは、勿論……頑張ります……」


 何だか、胸が痛くなってきました。武勲を上げて、褒賞を貰ってきて、歓楽街で大盛り上がりする騎士を大勢多く見てきたので、味覚が無くなるとか、そんなこと考えたこともありませんでした。


「赤いものも苦手らしいの。苦手というより、嫌いみたいに見えるわ。フォンが赤い物を次々と買い替えているけれど、何か見つけたらフォンやルミエルに言ってね」

「かしこまりました。それで、二階の絨毯も変わったのですね。カビ臭くないのに、カビ臭いって、変だと思っていました」

「私もそう思っていたわ。早く知れて良かった……」


 心の底から悲しいというように、奥様は遠い目をしました。こんな話をするということは、旦那様は奥様に心を開いているのでしょう。フォンの言っていた旦那様の機嫌を取れ、は旦那様と旦那様大好きな奥様が上手くいくように、お互いの背中を押すようにってこと?


「あの……旦那様はエトワール様が綺麗だから人目に晒したくない、とボヤいていていました。あと一昨日のドレスの方が可愛らしくて似合っていた、というような独り言も聞きました」


 私が教えた瞬間、ピンッと奥様の背筋が伸びました。


「一昨日? サシャが今朝褒めてくれた、あのマーガレット柄の?」

「さあ? 旦那様と話していないので分かりません。でも、多分そうです。フォンやヴィクトリアも、一昨日のドレスはエトワール様にとてもお似合いで、大変可愛らしいという話をしていましたから」

「今朝、貴女の意見を聞いておくべきだったわ」

「明日はあのドレスを着ると良いと思います。髪ならすぐ直せますから、この後サササッと変えますね。あと今のドレス、先程糸のほつれを見つけたので、預かって繕っておきます」

「ええ、ええ! よろしくお願いするわ。ありがとう、サシャ」


 そう言うと、奥様は私からタオルを奪い、袖を捲り、自分で腕を拭き始めました。目が、早く髪型を変えて欲しいと訴えています。私は会釈をして、奥様から離れました。化粧道具や櫛が必要です。三階へ上がると、階段を登りきったところで、旦那様が座り込んでいました。


「うわっ! だ、旦那様! こんなところで何をしているのですか⁈」

「す、すまない!」


 立ち上がると、旦那様は首の後ろに手を当て、無表情で俯きました。黒いシャツに着替えています。これだと、血の滲みや包帯は全く見えません。


「あのー、怪我は大丈夫なのですか?」

「えっ?」


 少し旦那様の目が大きくなりました。でも、無表情に近いです。


「ああ、大した事無い」

「そうですか」

「サシャ、エトワール様は?」

「談話室で寛いでいます。軽く化粧や髪を直すのに、衣装部屋へ道具を取りに来ました」

「いや……」


 沈黙。空気が重いです。旦那様への誤解が解けても、苦手なものは苦手。でも、優しいようですし、奥様もヤキモチ焼きを卒業するようなので、情報収集くらいしてみましょう。


「エトワール様は……」

「エトワールは怪我の事……」


 同時に声を出したので、また沈黙が横たわりました。


「怪我の事を知っているか? ですか?」

「ああ」

「旦那様が上手く隠したので、気がついていません。私もフォンに口止めされたので言いません」


 そうか、と呟いた後の旦那様はやっぱり無表情。何を考えているのか、表情からは何も見抜けません。


「それで、エトワールがどうした?」

「エトワール様の身支度をします。なので、私に少しお時間を下さい」

「身支度?」

「髪型を変えたいそうです」


 旦那様に褒めてもらいたいのです。と言いかけて止めました。旦那様が怖くない事が発覚しても、雰囲気が恐ろしいので、余計な事を言うのは躊躇われます。


「そうか、すまないが、終わったら呼びに来て欲しい」


 旦那様は私に背を向けました。私室とは反対方向へ歩いて行きます。廊下に座り込んでいたのは何故? 体調不良? 部屋じゃないのはどうして? 何処へ行くの? 行き先にある部屋は、どこも使用していない筈。


「あの、旦那様。お疲れですか?」


 振り返ると、旦那様は首を傾げました。


「ん? いや」

「あの、そちらには部屋とか……ありません」

「ああ。エトワールが居ないのに、勝手に部屋に入るのは、慣れないというか、気が引けてな。そこらでボンヤリする方が気が楽なんだ」


 今日、何度目かの衝撃。


「それならせめて書斎とか……図書室もありますし……」

「書斎はフォンやルミエルが仕事をしてくれている。図書室はヴィクトリアが本を読んでいた。そもそも、二階は従者に与えたフロアだ。俺が必要もないのにうろつくと、気に触るだろう?」


 これは、もっと衝撃的。旦那様がそこまで気にしいだとは驚き。


「旦那様! ここは旦那様のお屋敷ですよ! それなら私か執事にこう言って下さい。三階にも書斎が欲しい。旦那様専用の書斎です。明日にでも、直ぐに空き部屋の掃除をします!」

「いや、いい。部屋はある。すまな……いや、ありがとう」


 少し眉根を寄せると、旦那様は私に背を向けて歩き出しました。どうするのかと思ったら、廊下の端の窓から、外を眺め始めました。とりあえず、超特急で奥様の化粧を直して、髪も可愛らしくしましょう。私は走って衣装部屋へ行き、道具と靴を持って、全速力で談話室へ向かいました。談話室に入室する前に深呼吸。


「ありがとう、サシャ」

「お待たせ致しました」


 旦那様を廊下でぼんやりさせていてはいけません。朝とは違い、ポポポポポン! と白粉を薄く塗り、チークをサッとつけます。この間手に入れた、キラキラ光る粉を目元にオン。髪は、ふわふわの巻き髪を生かしたハーフアップに変更。奥様お気に入りの、星が連なる髪飾りをつけます。早くて完璧! 靴もサッと取り替えます。


「まあ、サシャ。貴女……今朝と違って早いのね。魔法の指みたい。ありがとう」


 私が渡した手鏡を、奥様は感嘆の表情で見つめています。


「そうですか? 今日は調子が良いから早くできました。お綺麗なのは素材が良いからです」


 バババババッと道具をカゴに戻し、ゆっくりとした動作で談話室を出ます。奥様はまだ手鏡を見ています。談話室を出て直ぐ、走りました。三階まで駆け上がると、旦那様はまだ窓辺に立っていました。近寄ります。


「フィラント様! 終わりました! 奥様がお待ちです! 夕食前に夫婦団欒して下さい!」


 ゼイゼイ、息が荒くなっています。疲れました。でも達成感。私の手で更に可愛らしくなった奥様を見たら、旦那様は喜ぶ……筈。多分。それで、私の株が上がり、屋敷から追い出されるのが遠ざかる……筈。奥様を褒めるでしょうか?


「そんなに急いでどうした」

「旦那様をこんなところで立たせていたくないからですよ」

「気を遣わせたな。次からは、何とか部屋に入ってみる。すまな……いや、ありがとう」


 すまない、をありがとうに言い直すのはさっきも聞いた気がします。癖? 旦那様は不機嫌そうに歩き出しました。機嫌が悪いのではなく、気を遣われて申し訳ないと、落ち込んでいる? にしては、怖い顔。せっかくなので、旦那様が奥様を見た時の反応が見たいです。私は旦那様の後ろに続きました。下がれ、とは言われないみたいなので、遠慮なく。一階へ降り、玄関ホールから談話室へ。談話室は玄関ホールと続いていて、出入り口に扉は無いです。談話室に足を踏み入れる前に旦那様は立ち止まりました。斜め前方に、ソファに腰掛ける奥様が見えます。まだ手鏡を見つめていて、前髪をちょんちょんと触って、そわそわ、そわそわしています。


 そーっと旦那様の顔をのぞいて見ると、心底嫌そうな表情でした。むしろ、激怒っぽい。日焼けした肌が、少し赤黒く見えます。


「どうです? お綺麗ですよね? 可愛いですよね?」


 問いかけてみましたが、返事、ありません。旦那様の視線は私ではなく、奥様へ一直線。激怒というより、悲しそうに見えます。


「あんなに緊張して……。やっぱり怖がられているよな……。はあああああ、どうするべきなんだ……」


 旦那様は深いため息を吐くと、しゃがみ込んでしまいました。ブツブツと、呟きが聞こえます。「やはり怯えられている」とか「怖がらせたくないけど少し喋るくらい」とか、実にトンチンカンな事を、ブツブツ、ブツブツ、呟いていきます。へえ、旦那様って超鈍感。奥様の明け透けない、誰が見ても分かる好意——というか熱愛——に、気がつかないどころか、真逆の勘違い。何故? 益々こう思います。


 変な人。


「あのー……」

「っ! サ、サシャ。いつからここに?」


 ずっとです。と言って良いのでしょうか? 良くない気がします。


「あー、今です。あの、ご気分が優れませんか?」

「え? いや」


 フラリ、と立ち上がると、旦那様は談話室から離れ始めました。えええええ⁈ 奥様と二人きりで寛いで、準備が出来たら一緒に夕食なのに、何処へ行くのですか⁈ えっーと、これは……。私は談話室を覗き、奥様の様子を確認しました。まだ手鏡を見つめています。とっても、うきうきして見えます。ピンク色に染まっている頬。期待に輝く瞳。旦那様はまだか、まだか、早く褒められたいと待ち焦がれている態度です。


「旦那様、風邪ですか⁈」


 届け、奥様に、この叫び。私はわざとらしい大声を出しました。よし! 旦那様が振り返り、足を止めました。それに、トトトトトッと靴音が聞こえてきたので一安心。


「サシャ、フィラント様の体調、優れないの?」

「分かりません。そう見えて、つい大きな声が出ました」

「まあフィラント様、疲れた表情をされて……。家での仕事、大変でした?」


 奥様が旦那様に近寄りました。私は少し離れます。旦那様は先程見た、激怒のような表情。奥様はしおれ顔です。


「いえ、別に。大した事はしてません」


 その通り。旦那様は廊下や窓辺でボーッとしていただけです。


「熱はないですか? 喉は痛くないですか? 頭痛はしませんか?」

「大丈夫です」


 旦那様は、キリリと精悍な表情になりました。


「大丈夫そうには見えません。ソファで休んで下さい。オットーに、滋養の良い夕食を頼んでおきますね」

「すみませ……ありがとう」


 また言い直してます。奥様は旦那様の手を取り、談話室の方へ歩き出しました。私の目の前を通り過ぎた時、旦那様の横顔は泣き笑いに見えました。


「やはり手が冷たいです。温めたタオルを用意しますね」

「ありがとう、エトワール」


 その言葉で振り返った奥様は、実に幸せそうな満面の笑顔。まるで天使みたい。旦那様は一瞬だけ、無表情に近いけれど微笑を浮かべました。その後はしかめっ面。旦那様、笑うのが苦手なのでしょう。で、照れるか嬉しいと怖い顔になる。やっぱり変な人。


 新婚のシュテルン夫妻は、多分、そのうち、おしどり夫婦になれるでしょう。そんな予感がします。今日のおやつのマドレーヌを食べそびれていたので、夕食後の楽しみにすることにします。明日は同僚のアンナとミレーが出勤。今日の奥様と旦那様の話をして、特に旦那様についての新発見を伝えて、大盛り上がりしようと思います。

【日記】


◯月×日

 読み書きの練習として、日記を書く事になりました。ヴィクトリアが訂正してくれるそうです。何を書いても良いと。今日の奥様は、張り切って化粧をして、道化師みたいになっていました。化粧道具を取り上げることにします。今日のおやつは、シュトーレンの残りでした。しっとり、どっしり。フルーツやナッツが沢山入っていて、とても食べごたえがあります。


◯月×日


 奥様と旦那様、王都へ新婚旅行だそうです。奥様は浮かれっぱなし。旦那様はなんと子爵からいきなり伯爵になるらしいです。それって凄いことみたいだけど、よく分からない。政治は私と無縁。それより、新婚旅行のお土産がお菓子だと嬉しいです。何日も奥様が不在なんて、つまらない。今日のおやつは牛乳プリンとかいう、白くて甘い、素敵なものでした。つるりんと喉越しが良いので、何個でも食べられそう。


◯月×日


 ヴィクトリアの宿題は辛い。旅行で奥様もアンナもいないから教えてもらえない。マルクの友人、騎士のルデルも役立たず。今日のおやつはありません。隠していたマドレーヌを食べようとしたら、カビていました。奥様と旦那様、早く帰ってきて欲しい……。


◯月×日


 日記、忘れてた。奥様と旦那様が帰宅。白蝶貝のネックレスをお土産に貰いました。可愛いけれど、お菓子ではなくてガッカリ。この街は治安が悪いから、ネックレスなんて引き千切られる。まあ、私は反撃するけど。お菓子……と思ったら隣街で買ったクッキーも貰いました。幸せ。少し変わったクッキーで、アーモンドの香りがして、口に入れるとホロホロと溶けました。


◯月×日


 新婚旅行後、奥様と旦那様は仲が良さそう。旦那様、良く笑っています。まあ、相変わらずかなり無表情に近いけど、雰囲気が前よりも柔らかいです。奥様は毎日ウキウキしています。お洒落にも余念がなく、また髪の毛を、踊るタコの足みたいに、変にしました。化粧道具に続いて、櫛も取り上げる事にします。今日のおやつは、お土産のクッキーです。この街では見かけた事がないクッキーなので、一度に食べ過ぎるのは禁止。でもカビる前に食べないと。


◯月×日


 旦那様が鬼のような形相で、玄関ホールをうろついていて怖かったです。ブツブツ、「良かったら、これ」と呟いていました。手には小さな箱。奥様にプレゼントを渡す練習のようです。今日のおやつは蜂蜜トーストでした。焼いたパンに、甘い蜂蜜をかけて食べる。それだけでも美味しいのに、チーズと少しの塩を足されています。絶品。


◯月×日


 朝、いきなり奥様が階段から転げ落ちそうになりました。執事ルミエルが偶然支えて、事なきを得ました。起きたら枕元にプレゼントがあったと大興奮。ルミエルは奥様の惚気に、辟易していました。旦那様が現れて、奥様を「走ると危ない」と叱りました。めちゃくちゃ怖かったです。なのに奥様は、心配されて嬉しいとデレデレ顔。旦那様はというと、呆れたのか、それとも照れたのか、よく分からない表情でした。今日のおやつはリンゴゼリー。つるんとしたゼリーの中に、シャクシャクとした食感の林檎。相性バッチリ。


◯月×日


 奥様、旦那様の部下の弟妹と玄関ホールのソファで寝ていました。起こして、寝室へ案内しようとしたけれど、丁度旦那様が帰宅。私、手際が悪過ぎ。やる事が無さそうだったので退散してきました。でも謝っておこうかと三階の廊下へ向かったら、お邪魔虫になりかけました。次からは夜、三階には行かないようにします。旦那様が奥様を、優しく、宝物みたいに抱き締める。お二人は、ついにおしどり夫婦になったようです。


◯月×日


 旦那様のお兄様は苦手。奥様は旦那様の愛情に気がつかない、鈍感人間でした。旦那様と同じ、変人みたいです。奥様は、旦那様へ誕生日プレゼントを贈り、誕生日会の開催も成功させ、感激して貰い、恋人に昇格すると張り切っています。恋人は妻の格下なのに昇格? この間、抱き締められていたのに、何をそんなに張り切っているのでしょう? フィラント伯爵騎士は愛妻家だと、街中で噂されて、羨ましがられていて、旦那様にも大事にされているのに、片思いだと思い込んでいる奥様。愉快なので、従者はみんな放置しています。今日のおやつは、奥様が試作した、誕生日用のケーキでした。シフォンケーキという、軽やかな生地のケーキ。上品な紅茶の香りと味がしました。


◯月×日


 新しいノートです。錬金術師のエリーが、私の話——というか奥様と騎士伯爵の話——を根掘り葉掘り聞いてくるので、面倒臭いから日記を貸しました。おやつの話は良いから、奥様と旦那様の事をもっと詳しく書け、とパン屋のアイシャが言ってきました。魚屋のナミもです。私の日記、旅行しているみたい。


◯月×日


 書けと言われたので、書きます。昨日の奥様と旦那様は、一緒にサンドイッチを作ってイチャイチャしていました。奥様が「猫の手」をした姿が可憐だったので、旦那様は照れたようです。旦那様の照れ顔は、一見怒り顔なので怖いです。見分けがつくようになって、旦那様の纏う空気が丸くなっても、怖いものは怖い。隼の異名を持つ旦那様の包丁捌きは華麗でした。トトトトトン! と人参があっという間に千切りにされる。奥様は、旦那様の格好良い姿に、うっとり見惚れてました。その奥様が一生懸命、ゆっくり野菜を切る時は、旦那様が怖い照れ顔。これで、お互い片想いだと思っているなんて、二人してとてつもない変人。


◯月×日


 今日のおやつは「ようかん」という謎の黒い塊。少し固いけれど甘くて美味しかったです。あんこ? とかいうものから出来ているらしいです。奥様が紅葉草子という、異国の話に夢中なので、旦那様が異国のお菓子を買ってきた。奥様は太るからと、あまりおやつは食べませんが、わざわざ旦那様が買ってきた「ようかん」には大感激。ペロリと平らげていました。


◯月×日


 お菓子辞典と奥様と旦那様の観察日記に分けて書け、もっと細かく教えろと、エリー、アイシャ、ナミ、オリビア様、フローラ様、アンナとミレー、沢山の人がうるさいです。フローラ様が質の良い、革張りのノートをくれました。なので、書くしかありません。ヴィクトリアに、奥様と旦那様のことは小説風にしたら? と言われました。面白かったら、お金になるそうなので、儲かるとお菓子が買える。頑張ってみようと思います。

 

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