さよなら、精霊王
さよなら、精霊王
中天にかかる翠の月。庭園に張り出すように作られたティールームで、板状に加工された
水晶がはめ込まれた小窓越しに、柔らかな月の光を浴びながら、翠の精霊王は濃い緑色の
ローブの上からたっぷりした薄緑色の上衣を羽織り、柔らかな萌黄色のサテンのクッションを
当てたソファにくつろいでいた。
彼は左手で純白のソーサーを支え、右手でやはり純白の、繊細な蔓草の模様の描かれた
カップを摘まむように持ち上げ、カモミール・ティーの香りを楽しんでいたが、ゆっくりと
それらを目の前の小さなテーブルの上に置いた。
テーブルをはさんで反対側の椅子に座る緋の精霊王が、身を乗り出してテーブルの上に
両肘をつく。彼女は真っ赤な前髪が額から流れて右目の上に落ちかかるのをそのままに、
目の前の翠の精霊王を悪戯っぽく見上げてほほ笑んだ。
彼の肩よりも長い髪は透明な、とも言えるほどのプラチナブロンドで、それが絹よりも細い
金の鎖で無造作に束ねられている。その周りの空中を幾つもの小さな光球が各々異なる色で
光り輝きながら思い思いの軌道で廻っていた。
「あの月のすぐ隣に琥珀の月が浮かんでいたのが、つい昨日のことのようだよ、緋の君」
「そうですね、翠の君。それと真珠の月も、ね」
「翠、緋、琥珀、真珠、それにとてもかわいらしかった萌黄…」
「五つの月も残るはふたつ。五大精霊と呼ばれた精霊王も、私たち二人になってしまったわね」
「仕方のないことだよ、そう、仕方のないことだ」
「仕方ない…?本当にそうだったのかしら」
片方の眉を少ししかめると、緋の精霊王の周りにフッと幾つかの赤い光球が湧き、くるくると
彼女の周囲を回り始める。
「ほらほら、君の子どもたちはすぐそうやって顔を出す。私の館では炎の悪戯は勘弁してほしい
ものだね」
翠の精霊王がほんの少し唇の端を上げで微笑して見せると、緋の精霊王は肘をついたまま、
右手の親指と中指とを軽くこすり合わせて、自分の周りの光球たちを消し去る。
「ごめんなさい、つい、ね。この子たちに悪気はないけれど、元気が有り余っているのよ」
「始原のその時代には、本当にこの世界は広く、奥深く、色々なもので満ち溢れていたものだ
けれど、今では随分と寂しくなったものだ」
「本当に…幾たびも滅び、再び新生し、そして滅び、新生する。その限りない繰り返しの中で
気が付けば世界は少しずつ、そして知らぬ間に、小さく狭くなってしまったわ…」
「けれど、ヒトはそれを知らない。生まれては死に、死んではまた生まれるヒトという存在には、
それが救いになるのかもしれないよ」
『そうかしら?』と首をかしげる緋の君は、そっと目を閉じる。
「世界が次第に小さく、狭くなっていって、その最後にはいったい何が待つというのかしら?」
「それを口にしてはいけないよ、緋の君」
いつの間にかソファから立ち上がった翠の精霊王は、テーブルを回りこんでかがみこむと、
緋の精霊王の唇をそっと右手の人差し指で塞いだ。
緋の精霊王が小鳥たちのさえずりで目を覚ます。そこは奥深い森の中にあった翠の精霊
王の館ではなく、砂漠のオアシスのほとりにある彼女自身の離宮の一室。椅子に座っていた
はずの彼女は、今は柔らかいクッションに埋もれるようにしてソファに横たわっている。
「そういう奴だと思っていたけれど、随分とあっさりしたことだこと」
ゆっくりと上体を起こすと、待ち構えていたかのように、色とりどりの光球がどこから
ともなく集まり、彼女の周囲をゆっくりと回り始めた。
「そして、お前たちは残ったのね…」
鮮やかな緋色のソファから立ち上がった彼女が両手を広げると、光球たちは彼女の手の
ひらに踊るように集まってきた。そして手のひらの上でいつまでもくるくると回り続ける。
緋の精霊王は身動きもずに、ひとしきり光球たちの様子を眺めていたが、やがてそっと
両手のひらを合わせた。光球たちはその手の動きに合わせるようにすうっと消えていく。
「さよなら、翠の精霊王……あなたや他の精霊王の子らと同じように、私の子らも残り
続けるのかしらね」
深紅の薄いガウンの裾をなびかせるように、彼女はゆったりとした、しかし力強い足どりで
部屋を後にした。
「お目覚めでございますか、唯一にして至高の精霊王、緋の君」
「湯あみの支度をなさい」
「かしこまりました、緋の君」
廊下の奥からは女主人と侍女たちの会話が聞こえていたが、それは次第に遠く小さく
なっていった。