至聖龍の黄昏
至聖龍の黄昏
世界の果て、およそ人の類では到底辿り着くことのかなわぬ深山幽谷の地に、龍の谷は
あった。
龍の谷のはるか奥、ゆったりと渦を巻く七色の霧の向こう側に、その龍は棲んでいた。
全身を金色の鱗に覆われ、一日のほとんど開くことのない双つの瞼は、その下に黒く燃える
炎を隠している。
七色の霞が風に揺れ、龍の前方に細い小径が姿を現した。風は小径を抜け、龍の鼻面を
撫でる。ふと、龍がその瞼を開いた。きちんと畳まれた翼がゆっくりと広げられ、四肢にも
次第に力が籠められ、龍はその身を起こしていった。
龍はその頭をゆっくりと左右に揺らしながら、長い頚部を持ち上げ、やがて上体を少し
反らすようにして…口をカッと開くと、息を大きく吸い込んだ。
…少しの間が空き、龍はおもむろに始原の言の葉を紡ぎだす。
龍以外の生き物には理解しえぬ「力ある言の葉」が、目の前の小径に沿って流れていく。
その「言の葉」の流れは、龍にとっては色も形もある実体であり、龍は己が発した「言の葉」が
白銀の輝きにきらめきながら、小径の左右にたゆたう霞をふき散らしていくのを眺めていた。
やがて霞があらかた晴れ、小径の奥にかしこまる六体の龍たちの姿が浮かび上がった。
「御前にまかり越しました、至聖なる者よ」
「至聖なる龍」
「始原の者にして至聖なる龍」
「遥か知見の高みを識る者」
「大いなる力の具現者」
「生きとし生くるものの支配者」
六体六色の龍たちの言上に応えるように、金色に輝く至聖なる龍は再び口を開き、そして
ゆっくりと閉ざす。
至聖なる龍の呼びかけに応えて参集したのは、この世界を統べる六大龍の全てである。
五つの大陸一つずつをその住処とする黒龍、白龍、赤龍、緑龍、黄龍の五体と、大海原を
統べる青龍。その六体全てが、黄金の至聖なる龍の呼びかけに応えて参集していた。
「遥かなる輪廻転生の時の流れの中、かつて『闇の大魔王』と呼ばれし存在ありき」
「そは、伝承の中に埋もれし者でございます」
「まさに数知れぬ輪廻転生の中で語られ、今となりては伝承としても定かならず」
「それすなわち神話に等しきものかと」
至聖なる龍は六大龍たちの戸惑いを含む呟きにも似た反応を確かめるでもなく続ける。
「我、至聖なる龍は、そが真に在りし日々を識れり。而して……」
「此度、我、至聖なる龍もまた其くの如くなるべし」
六大龍はその言葉に、まるで物理的な衝撃を受けたかのように、後方に弾け飛ばされた。
実際、龍の言葉と言うものは実体を伴った力の塊とでもいうべきものであり、その内容が
重大であればあるほど、力も比例して大きなものとなる。
至聖なる龍は、己がかつての『闇の大魔王』と同様、復活のない神話の存在と化す、と
宣言したのである。
動揺と狼狽を隠せず、翼をただ広げては閉じ、意味もなく頸を上げ下げするだけの
他の龍から少し距離を置き、白龍と黒龍は互いの頭と頭をそっと触れ合わせた。こうする
ことで、二体の龍の会話は他の龍には聞き取ることが出来なくなる。
「これはどうした事か」
「かねてより至聖なる龍の示唆なされておられた通り、『世界の綻び』がいよいよ繕い難く
なった、ということであろうかと」
「世界が『綴られし物語』であるのは分かる。虫食いにもなろうし、綴じ紐も擦り切れよう。
とは言え、『闇の大魔王』にせよ、此度の『至聖なる龍』の予言にせよ、我には解せぬのだ」
「綴じ紐が擦り切れたなら、新たに紐を用意して綴じ直せば済むこと。しかし事が『世界の
綻び』では、そうもいかぬ」
「そなた、『至聖なる龍』より何やら聴かせ賜ったのか?」
「そもそも我は『世界』なるものがどれほど多くの葉にて綴じられたものは知らぬ。だが、
その葉は無数ではない。限りある葉に物語を記し、語り尽くせば全てをかき消し、再度
『世界』を記すわけだ。書き記しては消し、書き記しては再び消す、その繰り返し。
さて、綴じ紐が擦り切れるように葉もまた朽ちていく。朽ちた葉はその度に、新たな葉に
交換されればよし。だが新たな葉が無ければ、その時はいかがする?」
「少なくなった葉だけで綴じて一冊とし、記すべき事柄を減らして記すことで新しき物語と
なすべし、という事か…」
「減らすべき事柄、減らすべからざる事柄、さらに今後の葉の朽ち方までを鑑みれば、
『闇の大魔王』さらに遺憾ながら『至聖なる龍』こそが…」
「だが、さほどに『世界の綻び』とは喫緊の事態であるのか?如何ともし難いものなのか?」
その時、龍の谷に、凄まじい轟音とともに閃光が走った。渦巻く七色の霞は千切れ飛び、
谷の側壁からはガラガラと巨石が岩雪崩を起こして落下してくる。
六大龍たちは咄嗟に羽ばたき、中空に飛翔して難を逃れた。とはいうものの、単なる
岩雪崩程度では、彼らの鱗一枚といえど傷つけることはできなかったろうが…
激しい土煙と千切れた霞とが少しずつ収まっていく。
六大龍は、すっかり崩れ落ちた、かつて龍の谷であった地を後に、各々の統べる地に向け
飛び去った。『世界の綻び』が綴じ直される日は近いが、それを感じていたのは白龍と黒龍
のみであった。