張邈伝 ~英雄達の友として~
整備された山の細道。馬の蹄と人の草鞋が交互に砂を踏んでいる。
一頭の馬に乗るのは三十半ばくらいであろう男。顔には常に微笑みが浮かんでいるが、その表情はどこか暗い。身なりや出で立ちから、ある程度高い位の役人か何かだろう。
そして、馬を引く青年は使用人らしい。「今は、どのあたりだ?」
馬に揺られ、男は使用人に何度目になるだろう同じ質問を繰り返す。
「あと二十里程で目的地の『揚州』かと」
「じゃあ、このあたりで休もう。馬はどうも乗り慣れないのだ、腰が痛い」
馬を降りて伸びをする。腰にジワリとした痛みが広がった。
「黄嘉、いくつになった」
「十七です。張バク様にお仕えして、五年を過ぎました」
張バク、そう言われた男は柔らかく笑い、自分の近くに黄嘉を座らせる。近くの細木に繋いだ馬は、鼻息を立て道草を食んでいた。
「今から私が述べる人達の印象を聞きたい。いずれも私とは親しかった者達だ…最初はやはり『曹操』と『袁紹』の二人だ。二人をどう思う?」
「曹操は、残忍で冷酷で…僕は、彼を許すことはできません。張バク様の一族を、皆殺しにしたアイツだけは、どうしても」
「袁紹はどうだ?」
「四世三公と呼ばれる、あの?噂に違わぬ、立派な人物だと聞いていますが」
「ふっ…思わず笑ってしまった。実はこの二人とは幼い頃よりの親友なのだ」
黄嘉の革袋の水が切れているのを見て、張バクは予備の水が入った革袋を差し出した。
「曹操は、実は誰よりも情に脆い男だ。だからこそ、裏切りをこの上なく憎む。袁紹は、名門袁家の名に縛り付けられているのさ。本当は、妻と子を愛する普通の父親なだけなのにな…少し、昔の話をしよう」
親が役人だったということもあり、私は小さな頃から比較的豊かな暮らしをしてきた。
書物を読むのが何より好きだった私は当時では珍しく、成績優秀者として成人前に中央での仕事を任せられるようになったのだ。それを見て安心したのか、すでに老いていた両親は家屋と家財を私に預けて、故郷へと緩やかな余生を送るために戻っていった。
袁紹、字は本初。四代に渡り、朝廷の最高位の官職「三公」に就いてきた名門袁家の長子だ。出で立ちは気高く、若くして既に、見る者の目を引き付ける気風漂う男だった。歳は二つ上、私と曹操は彼を「兄貴」と呼んで慕っていた。
そして曹操、字は孟徳。朝廷の腐敗の元を作り出した「宦官」という身分の出身だったが、本人はそれを酷く恥じ嫌っていた。だからこそ宦官嫌いで有名だった兄貴も曹操には心を許していたのだろう。私とは同い年で、互いに「兄弟」や字で呼び合う仲であった。
仕事終わりや休暇をもらった日など、私達はずっと行動を共にするほど仲が良かった。そんな、ある日の出来事を話そうか。
「なぁ、兄貴、孟卓(張バクの字)…この中で一番女に慕われるのは誰だと思う?」
昼間から酒場で、酒を交わしている三人の青年。その中で最も身長が低く、眼に鋭さを持った曹操が、ふと呟くように問いかける。
張バクは、女性に対する興味関心は人並みだと自称していた。しかし曹操と袁紹は、自他ともに認めるほどの女好きである。酒の入った会話になると、必ずと言っていいほど女性関係の話になった。
そして必ず、このような展開になるのだ。
「曹孟徳、比べるまでもないだろ?」
「いやいや、兄貴の女遊びは俺から言わせてみればまだまだ子供ですよ?」
「酒に酔ってもう寝言をほざくか?」
「兄貴こそ、酔って夢でも見てんじゃないですか?」
こうなった二人を宥めるのはいつも張バクの役目であった。「まぁまぁ」と二人の間をとりなし、少し話題を逸らすことにする。
「落ち着きなよ。そういえば、二人の好みの女性というのは、どのような人だ?」
二人は考えるように少し悩んで、店の外へと顔を出した。
「そうだなぁ…あ、俺はあの人が好みかも」
最初に嬉々として指をさしたのは曹操だ。その指の先、そこには年齢が自分らより上だろう、見ようによっては艶めかしい女性が朗らかな笑顔を浮かべて会話を楽しんでいた。しかし問題なのはそこではない。彼女の手には、小さな子供の手が握られていたのだ。
「いや、兄弟、あれはダメだよ」
「節操がないのか貴様には、恥知らずが」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、正直に答えた結果だろ!?俺はあのくらいの年齢の女性が好きだ、人妻や未亡人だとさらに燃えるね。優しく抱きしめてほしい」
大きく溜息をし、袁紹は代われという様に曹操の頭を押し込めて、自らの頭を窓枠から外へと出す。
「俺の目に適う女がこんなところにいるとは思えないが…強いて言うならアイツかな」
少しどこか誇らし気に袁紹が指した女性。歳は同じか、少し低いか。顔が特に美人というわけでもなければ、スラリとした体でもない。ただおしとやかで女性らしく、清潔感に溢れ、育ちの良さが伺える人だ。だが、特徴がないというわけではない。逆に、特に目が引かれる一点があった。
「なんというか…」
「うわ、胸大きい。兄貴こそ露骨にスケベじゃないですか」
「な、五月蠅いっ。お前にだけは言われたくないぞ、曹孟徳!」
袁紹はそれほど酒に強くはないが、恥ずかしくなったのだろう、器の酒を全て喉に流し込んだ。そして少しの間が空き、曹操は眉を顰める。
「おい、ちょっと待ってくれ兄貴。何かオカシイ感じがしねぇか?」
「…あぁ、それは思った。おい張孟卓、貴様だけ何も言わないのは不公平だ。まさか書物に欲情していると言うのではあるまいな?」
確かに張バクは本の虫ではあるが、そこまで言われると心外だったらしい。さらに、僅かながら酒に酔っていたという勢いもあったのだろう。
「分かりました、そこまで言うのなら。好みの女性について、いくらでも話しますよ?」
曹操が、怪しくニヤリと笑う。張バクが自らの失言に気付くのはその瞬間であったが、時すでに遅かった。
「街に出て自分が好みだと思った女に好かれたらお前の勝ち、今日のお前の飲み代はゼロだ、さらに俺の非も詫びよう。だが避けられでもしたら、お前の負けだ。罰は特にない、お前が恥をかくだけさ」
非常に意地の悪い提案だ、曹操らしいとも思った。袁紹は手を叩いてその提案に賛同する。兄貴が決定したことに易々と逆らえるわけもなく、自分が恥をかけば良いだけだと、張バクは眉間を揉みながら席を立った。
いざ街に出ると、いつも歩いているはずの道が全く違う風景に見える。それもそうだろう、未だかつて女性を物色する為に街中を歩いたことなんてなかったのだから。店中から顔を出してこっちを見ているあの二人の視線も、妙に腹が立つ。
好きな女性なんて考えたこともなかった。屋敷に女性なんておらず、武学に励む弟と自分の二人がいるのみ。使用人を雇う金があるなら書物か、施しをするかに費やしてきたからだ。このまま戻って二人に頭を下げてこようかと、そう考えた時だった。
「あの、すみません…何か恵んでいただけないでしょうか」
自分の脇に立っていたのは、自分よりも一回りも小さい少女だ。痩せた体に、ボロボロの衣服。別に珍しい光景ではなかった。特に施しをよく行う人として有名な張バクには毎日の様に見る光景だ。廃れた政治、各地では賊が蔓延って、流民や戦争孤児などは全国各地に溢れている。
「定期的に家の蔵を開けてみんなに平等に提供している。誰かを贔屓にしたりすると他の人達が気を悪くするのだ、だから申し訳ない。明後日の朝に屋敷の前に来てくれれば、それなりのものを提供しよう」
酷な話だが、どうしようもなかった。贔屓をすると、他の人間もこぞってやってくる。そうなると際限というのが無くなってしまい自らを滅ぼす。昔、袁紹と曹操に口を酸っぱくして、そう注意されたのだ。
「六日前程、家族は皆、宦官に処刑されました。賄賂を拒んだためです。父は執金吾(治安を維持する職)を勤め、生活には困っていませんでした」
少女は小さく父親の名を告げる。突然明かされた名前は、理由が不明な「反逆罪」として処罰されていた人物として、確かに知っている名であった。
受け答えからしても普通の流民ではなく、しっかりとした教育を受けてきた者のそれである。どうやって逃げ出したのか、きっと両親が尽力したのだろう。物乞いなどするような身分の少女ではない、つまり、恥を忍んでの懇願であった。
「お願いします、数日物を口にしてないのです。それに私は罪人の身、名乗る事も出来ません。義の人である張バク様とお見受けしてのお願いです、私に、新しい名前と少しの食べ物を、どうか」
声は震えていた。幸い周囲に目立ってはいない。親に救われた命を危険に晒す秘密をここまで打ち明けたのだ。気づけば張バクは、笑顔で少女の手を握っていた。
「君に紹介したい人がいる、二人とも私の親友であり兄弟なのだ」
「え?そんな、やめ」
少女の本気の抵抗は弱く、部屋で書物を読んでばかりの張バクでも楽に引けるほどだ。
張バクは少女を連れて袁紹と曹操の前に連れて来た。二人とも同じような顔をしている、これは駄目な人間を見る目だ。
「兄弟、これで文句はないだろ?私はこの娘が気に入った、屋敷に住まわせようと思う」
二人だけではなく少女もまた驚いている。張バクが手元に女を置くと言うのだ、曹操も言い返す言葉が見つからなかったらしい。
「これからよろしく、『僑』。今日は二人の驕りだ、何でも頼んでくれ」
それが自分の新しい名前だと少女が気づくまで少し時間がかかった。そんな中で張バクは機嫌良く席に座り、酒と料理を頼んだ。
「もしかして、それは奥方様ですか?」
「そうだ、懐かしいな」
昔を思い出し、鼻の奥がツンと痛くなる。ひとつ大きく息を吐くと、気休め程度には楽になった気がした。もうあのような日々は戻ってこない。知らせでは「僑」も既にこの世にはいないらしい。
そんな張バクの心中を察したのか、黄嘉はうつむき、主人の次の言葉を待つ。
「それじゃあ、次はこの人間について聞いてみたい。お前は『董卓』を如何に思う」
明らかに黄嘉の表情が変わった。
数年前、帝を操り、何もかもを自らの欲のままに動かし、残虐な行いを続けて都を火の海にした悪魔の名前がその董卓である。黄嘉の父や母も、董卓に殺された。商人であった黄嘉の父母の金や家財を奪う為に、脅されもせず突然殺されたのだ。
「皮を剥ぎ、肉を犬に食わせてやりたい。何度殺しても、殺したりなかった存在です」
「たしかに奴はこの世の害悪の象徴だった。しかし、董卓とて最初からそうであったわけではない。こうなる前の董卓は、私が心から尊敬していた『英雄』だったのだ。特にお前には知っていてほしい、董卓が、いかなる人物であったか」
四百年続いた「漢」朝廷も、もはや終わろうとしていた。早くして崩御する皇帝が何代も続き、朝廷の権力は皇帝の世話役でしかなかった宦官に集中。賄賂や汚職が蔓延し、官職も金を払えば買える程だ。当然政治は機能せず、全国では貧困に苦しむ民の反乱が相次いだ結果、賊が増える事態につながった。
そんな中、およそ三十万にも膨れ上がった黄巾賊による「黄巾の乱」が発生。
兵力差も劣勢である中、黄巾賊に対して善戦していた将軍「盧植」は宦官への賄賂を拒み免職となり、その抜けた穴に入ったのが「董卓」であった。
「わざわざこんな最前線の戦場に足を運んで、苦労をかけたな。張バク殿」
「いえ、これも仕事ですから。董卓将軍の勝利を願い、朝廷から贈り物を届けるようにと。駿馬や食料、美酒などがあります」
「フン、とか何とか言いながら、宦官の腐れ野郎共に渡す賄賂の受け渡し役であろう。賄賂はもう用意してある、持っていくといい。名士と名高い貴殿も、面倒な立場だな」
董卓は、喜怒哀楽のはっきりとした剛直な人物であった。体は逞しく、規格外の大きさ。張バクも身長は高い方だったが、董卓は上背も厚みも比較にならないほどである。
流石、異民族の幾度の侵攻を食い止め、百戦百勝したと言われる噂に違わぬ豪傑だ。第一印象から、張バクはそう思った。
されど不思議と威圧感はない、むしろ親しみ易い人物である。よく笑い、貰った恩賞は全て部下や兵士に与え、決して身分などで人を差別しない人だった。
「張バク殿、儂は辺境の地の、ただの名も無き武人に過ぎなかった。しかし徐々に功績を挙げ、今では最強の呼び声が高い騎馬兵を持つ有力な将軍の一人となった…そこで分かったことがある。儂は、この国を変えたいのだ。身分など関係なく、流民でも有能ならば国の頂点に立つことが出来るような、そんな国にしたい。そうすれば常に有能な人間が国を治め、永久に亡びない」
美酒の入った樽を一つ空にして、董卓は酒宴の席で張バクにそう語る。まるで子供の様に、剛直な豪傑が夢を語っていた。そして張バクは、その夢が到底成しえないものであることを同時に理解した。董卓の語る世界は、中華の歴史の根底にある、皇帝制度そのものを否定している内容であったからだ。
夢は所詮、夢だ。そう頭では分かっていても、その夢に張バクは耳を傾ける。この老将は曹操にどこか似ている。そう思った。
「とはいえ、儂はこの戦いに敗れるだろう」
「え?まだ、小競り合い程度にしか兵を動かしてないのに、どうしたのですか?」
「この兵士達は儂の配下の者達ではなく、朝廷の兵。ろくに馬に乗れないやつが多く、さらに儂はこのあたりの地形を全く知らず、策にも疎い。敵は失うものは何もない、死ぬことさえ恐れない『死兵』。地理感、士気、これらが欠けて勝てる見込みは少ない。正直、いかに被害少なく負けるかを考えている」
百戦百勝の董卓将軍には似合わない弱気な発言だった。張バクはそれに微笑んで返す。
「大丈夫です。かの高祖である劉邦の最大の敵であった、天下無双の豪傑項羽。その項羽の再来とまで言われている董卓将軍ならば、必ずや勝利するでしょう」
「はっはっは!褒め達者だな。儂の配下に貴殿の様な人間がおればどれほど心強いか」
「吉報を心よりお待ちしております」
酒宴も終わり、張バクは深く礼をして幕舎を後にした。現実的にはとても成しえないだろうが、彼の言う世界が実現すれば、と心を躍らせながら帰路に就く。まさに董卓こそ、英雄だとも思った。
それが大きな間違いであることなど、露ほども考えなかった。
都に戻って間もなく、董卓将軍の敗走の知らせが都である洛陽に届いた。やはり、董卓自身が懸念していた通りに事が運んでしまい、敗走したのだという。
そしてまたすぐに後任が決まる。それは各地の黄巾族の討伐で最も功績を挙げていた「皇甫嵩」将軍だ。曹操は、皇甫嵩将軍の下で功績を挙げていたとか。
そして結果は、皇甫嵩の大勝利。黄巾の乱を鎮圧するに至った。
実直で決して驕らず、民を労り、頑なに堅実であった皇甫嵩には当然の様に人心が集まった。しかしそれを恐れ、折り合いの悪かった宦官らは難癖をつけて彼を追放してしまった。腐るところまで腐ったな。誰しもが抱く感想がそれであった。
その後、功績を挙げた曹操は皇帝を護衛する近衛兵の隊長の一人に、袁紹は名門の力もありその隊長らをまとめる将へと昇格した。
そんな中であった。正史に残るだろう一大事件が起きたのは。
『十常侍の乱』当時の大将軍「何進」と袁紹が起こした事件だ。
大将軍に取り入った袁紹が最初に目指したのは宦官の根絶やしだった。名門の生まれとして、宦官に実権を握られていたことが、長い間彼の心に深く傷をつけていたのだろう。
袁紹に唆された何進は、各地の群雄に招集をかけ、その兵力を背景に宦官を脅して掃討するという計画を立てた。
「兄貴は、復讐のことしか考えてない。宦官の排除は近衛兵だけで十分なのに、これじゃあ新たな脅威を都に招き入れるだけだ」
二人で会うと、曹操はいつもそうやって愚痴をこぼした。
そして、時は急に訪れる。
身の危険を感じた宦官の長達の「十常侍」は、大将軍の何進を暗殺。それに激怒した袁紹は、近衛兵全軍を率いて皇帝の屋敷である宮殿に入り、宦官の虐殺を開始した。しかし十常侍はそんな混乱の中、まだ幼い皇帝を連れ都の外へと逃げだしたのだ。
その皇帝を救い出したのが、号令に際して逸早く駆け付けていた董卓将軍であった。
「儂が、最高官位の『丞相』になろうとは。全く人生とは分からんな、張バク殿」
「混乱の中から陛下をお救い致したのです。恥ずかしながら、近衛兵達は結果として陛下の御身を危険に晒してしまいました。したがって最もの功績者は董卓将軍の他にいません。胸を張って下さい」
「覚えておるか?儂の語った夢を。所詮夢だと思っていたが、今はそれが手に届きそうなところまで来ている。お主がおれば心強い、世を正す為に協力してくれ」
正装がむず痒いのか、董卓は大きな体をすくめて張バクに照れた笑みで頭を下げる。
「そんなっ、頭を上げて下さい。宦官に流浪にされてしまった役人にも優秀な人材は多々おり、中でも『王允殿』『蔡邑殿』の才は抜き出ています。そういった優秀な人材を用いて政治を行って下さい。微力ながら、私も尽力しましょう」
頭を上げた董卓は、大きく笑った。
それからの朝廷の政治は、あまり褒められた内容ではなかったが、宦官が支配していた時より何十倍も良いと評価できるだろう。
董卓はまず勧められた通り「王允」「蔡邑」を始めとした人材を重職につけ、名士と呼ばれ名声の高かった人物達に洛陽以外の主要な土地を治めさせた。その名士の中で張バクは筆頭として名前があり、土地も豊かで民も多い「陳留」を治めることとなる。
袁紹は、自分の手柄を全て横取りされた様な現状にプライドが大きく傷つき、董卓と激しく口論の後、洛陽を出た。
曹操は張バクの勧めもあり、側近として董卓の補佐にあたることに。
幾日が過ぎただろうか。気候も穏やか、悪政の払拭に奔走する毎日。そう長い月日はかかってないように思う。
「…孟卓、董卓は、殺さなければならない」
張バクの屋敷に飛び込んできたのは、髪も乱れ、やつれて蒼白となった曹操であった。
曹操は屋敷につくなり安心したのか気を失い、数日間石のように眠り続けた。事情は全て、曹操と共にここまで逃げて来た「陳宮」という気が強そうな男が話してくれた。
「張バク殿は、今の洛陽の現状を知らないのか?そんなはずはない。忠臣は忠義故に処刑され、小帝弁陛下並びに何皇太后様は毒殺された。宮殿の女官は全て召し上げられ、民は衣食や金のみならず血肉まで絞られる有様だ。全て、董卓の手で行われた惨劇だ」
「…小帝弁陛下は、ご病気で崩御なされたと、知らせが来ている。皇太后様は、その後を追われたと」
「ハッ、名士と名高い貴殿がまさかそんな話を信じていると?」
「曹操は、どうしてこのような」
「董卓をその手で殺そうとしたからだ。直に手配書も届くであろう」
度々、洛陽の現状は耳にしていた。そしてその度に、にわかには信じられないと、深く考えなかった。考えたくなかったのだ。
董卓には、理解者が圧倒的に少なかった。元々の身分も低く、政治経験もなく学も高くはない。さらに、黄巾の乱での敗北の印象も大きかった。そして、彼の抱える夢は、あまりにも人々の反感を買うに値する内容である。だからこそ張バクは洛陽を離れる際に、名残惜しむ董卓へ、波長が合うだろうとして曹操の抜擢を勧めた。
つまり、逃げたのだ。世間体を保つ為に、董卓から離れ、責任を曹操に押し付け、逃げてしまった。その結果がこれだ。張バクが洛陽に残っていたら、また結果は違ったのだろうか。だからこそ「逃げた」という事実が、より一層自らの胸を締め上げる。
「董卓殿は、どうなされている」
「急に肥え始め、軍人の面影すら残っていない。少しでも逆らう人間がいたら激しく怒鳴り散らした後に斬り殺し、その肉を焼いて、宮中の臣下達に無理やり食わせていた。常に周囲には美女十数人をはべらせ、天下一の猛将と『呂布』を従えており、下手に近づく事さえ出来ない」
正義心の熱い男だ。声の端々に怒りが見え、強く握られていた拳は震えている。
その時だ。先ほどまで寝息を立てていたはずの曹操は飛び跳ねるように起き上がり、張バクの両肩を掴んだ。痣でも出来そうなほどに、その力は強い。
「孟卓、よく聞け。各地に檄文を飛ばし兵を集めろ、群雄の力を合わせて董卓を討つ。盟主は兄貴がふさわしいだろう、逆にかの袁紹本初に反論できる者などいない。直ちに兵を集めるぞ、力を貸してくれ」
これが逃げた者の責任の取り方なのか。
張バクは不意に出そうになった涙を堪え、一つ頷いたのだった。
「その反董卓連合軍がどうなったのか、それはもうお前も知っているだろう。結果は、敗色濃くなり解散となった。集まった群雄達は、名目上集まっただけという者ばかり。袁紹に戦わせて、損をせず良い思いだけをしようという者が多すぎた。袁紹もまたそれを感じ、出し抜かれない為にも兵を積極的に出すことはなかった。本気で戦っていたのは、負い目を感じていた私と、曹操。名を上げたかった『孫堅』。そして、最後の最後まで董卓を信じていた、敵の『呂布』だけだ。いくら変わっても董卓は董卓、直属の兵達は心から董卓を慕い、命がけで呂布の指揮の元で抵抗してきた」
「でも…董卓は、その呂布将軍に」
「あぁ、裏切られ殺された。誰よりも忠義に厚かった呂布が手をかけたのだ、もうすでに董卓は、元に戻ることなど出来ないくらいに狂っていたのだろう。本当はこの役目、私がすべきだったのかもしれないな…」
正直、黄嘉の手前で董卓を擁護するようなことをいうのは心苦しかったが、どうしても伝えたかった。彼は、最初から悪魔ではなかったのだと。これも一つの罪滅ぼしなのだろうか。既にもう本人は居ないというのに。
もうそろそろ出発しますか?黄嘉はそう述べ腰を上げるが、張バクは首を横に振る。
すると、遠くから馬の重い蹄の音が聞こえてきた。音からしてその馬は、旅ではなく戦場に出るような馬のそれだと分かる。
巨大で雄々しい馬に乗るのは、軽装だが鎧を身にまとった、筋骨隆々の男であった。張バクはゆっくりと腰を上げる。
「久しぶりだな『典韋』、曹操配下で最も勇猛な武将という噂をよく聞くぞ」
「お久しぶりです。張バク殿がゴロツキだった俺を、曹操様に推挙して下さったから、今の自分があるのです」
会話は実に穏やかだ。だがどうしてか、黄嘉は胸騒ぎを抑えられない。張バクの笑顔が、悲しく映るのだ。
何があっても張バクの命だけは助けたい。そう思った時だ、黄嘉はふっと意識が曖昧になり、その場に膝をつき、体を横に倒した。
「すまない、水に眠り薬を混ぜたのだ。典韋、さぁ、私の首を取れ。だがこの子は助けてほしい。私亡き後、屋敷に暮らす孤児達の世話を年長の黄嘉に任せたいのだ」
張バクは、数日前に曹操を裏切った。
曹操は「徐州」という地で、そこを治める陶謙に父親を殺されたのだ。父の死を大いに嘆き、張バクですらその姿を見るのが忍びないほどであった。
父の敵を討つ名目で、曹操は徐州に出兵。張バクは陳宮と共に曹操の留守を守っていたが、戦線から届いた知らせに愕然とした。
曹操軍は関係のない民や動物に至るまでを殺し、川が堰き止まる程の死体の山を築いたというのだ。曹操は誰よりも情に厚いが故に、大切な者の為ならいくらでも残酷になれる。張バクは、それを失念していた。
この知らせに驚き、怒りを露わにしたのは陳宮だ。正義感に厚く物怖じしない性格の知恵者、そんな陳宮から提案を受けた。呂布をこの地に招き入れて、曹操の拠点を奪おう。という提案だ。呂布ならば面識もあった、話が分かる人物だということも分かっていた。
張バクは、陳宮の提案に頷く。呂布がどうこうではなく、裏切らなければならない理由が張バクにはあったのだ。
拠点が危機だと知れば、曹操は慌てて戻ってくる。そうすれば、無理にでも虐殺を止められる。極論であったが、これを試すしか他は無かった。天下を統一して平和を保つという夢を持つ曹操に、董卓と同じ道を歩ませたくなかった。今度こそは、友として、止めなければならないと。
「曹操様が、どうして俺一人を送ったのか、分かるでしょう。恩を感じる俺だから、貴方を殺せないと踏んだ上で出向かせたのです。貴方の首を取れば、俺が怒られます」
「曹操は私の裏切りを知ったとき、どんな様子でしたか」
「この上なく、怒りに震えてました。でも曹操様は、本当に怒っているとき、人前で笑うんです。決して真意を表に出す人ではない。だから、一緒に参りましょう、きっと貴方をお許しになるはずです。奥方や一族の命を奪いはしましたが、それは人の上に立つ者としての責任。貴方まで失えば、きっと曹操様は酷く心を痛める」
「そうです、曹操はもうすでに人の上に立つ存在。これは、子供の喧嘩じゃない。責任をきちんととらないと、この先、天下を取る者としての威厳が保てない」
天下。この二文字に典韋は大きく目を見開き、馬から降りて頭を地につけた。
「お願いです、俺に殺させないで下さい。曹操様を心から理解されている貴方を殺すことは、俺にとって、曹操様を殺すことと同じなのです」
「この乱世を治めるには、曹操の様な英雄が必要なのだ。民を労り、知恵者を用い、誰よりも痛みを知る英雄が。それに、私はもうこれから先の世を見たくはない。遠くない未来に、一大勢力を持つ袁紹と曹操はきっと、殺し合う運命にある。親友達が殺しあう姿など、どうして見れようか」
変わらず、張バクの顔は優しくも、寂しそうな笑顔であった。
張バクは典韋に近づき、彼の腰にある長剣を抜く。典韋はそれに気付きながら、頭を地につけたまま動こうとしなかった。
「世が再び平和に戻った時に、来世でまた逢おうと、伝えてくれ」
喉に深く刃が走る。視界はぼやけ、音が遠のき、体は寒くなっていく。
このまま子供のままで、大人なりたくないな。青年の時に、袁紹は酔いながらそう漏らしたことがあった。今更ながら、私もそう思う。張バクは静かに目を閉じた。