19 良人くん、この子の名前は?
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
僕は走る。穏やかな夕暮れの橙が輝く街を、一心不乱に走る。
スーツのジャケットなんて、とうの昔に脱ぎ去って。現在は鞄と同じく、今の僕にとって煩わしい手荷物と化している。
義母から連絡が有ったのは数分前だ。念のために上司には予め了承を得ていた為、すぐに会社を抜けてくることが出来た。
立ち会いはしないことにした。わるこさんが嫌がったからだ。
「私は壊すのは見られても平気だけど、生み出す所は見られたくないの。……だから産み出す所も見ないで」
真っ赤な顔を背けるわるこさんを見て、僕の心は愛しさで掻きむしられた風になった。
あんな顔で言われれば、僕は泣く泣く仕事に向かうに決まっているじゃないか。
「すみません! 玄浄です! 妻の部屋はどこですかッ!!」
病院の自動扉に、蹴破るように飛び込んだ僕は、転がるように受付で叫ぶ。驚いたナースだったが、何かを察したのか僅かに微笑みながら病室の番号と場所を教えてくれた。
病院内を駆けるなんて危険だし、マナーに反するから普段の僕では絶対に許さないことだけれど。この時ばかりは逸る気持ちを抑えられず、想いのままに僕は行く。
目的の病室の前に付くと、僕は何度もその番号とプレートに書かれた名前を確認する。
「瑠子……玄浄瑠子。僕の妻、奥さんの名前。……よし、間違いない」
四度、五度程見た所で、僕はなんとなく深呼吸をする。身なりを正し、その扉をノックした。
「はーい」
義母の声が返事をする。出来る限り落ち着いて扉を開け、中をゆっくりと覗く。
妻の眠そうな目が僕を捉える。義母は扉の付近まで来ており、僕と入れ替わるように部屋を出ていった。わるこさんに促されるがままに、僕はベッドの脇の椅子に座る。
「わるこさん」
「お疲れ様、良人くん」
彼女の方が心底疲れた顔をしていると言うのに、そんなことなど何ともないような風に彼女は僕に笑いかけた。
「ほら、この子が貴方と私の子供なのよ」
わるこさんはその腕に大事に抱えていた赤子を僕に差し出す。赤ちゃんと言う程であるから、その顔は本当に赤く。猿のようにも見えるその顔を見て、僕は進化論もあながち間違いではないのではないか、なんて考えてしまう。
そんなことよりも。
(だ、抱き方がわからない)
僕は震える手を差し出しながら、だけれども赤子を抱くまでには至れない。
「ほら、首の下に腕を入れて頭と首を支えて。首がすわってないから手で支えて受け取ってね。反対の手はお尻を支えて、大事に」
わるこさんはいとも簡単に言うけれど、とてもじゃないけど抱く勇気が湧かない。
赤ちゃんって僕が思ってるよりずっとずっと小さくて、柔らかで。少し力を入れたらすぐ壊してしまいそうで。
「ふふ、良人くん。肩に力が入りすぎ」
「そ、うは言うけど……わわ」
ゆっくりと受け取るとその意外な重量により一層緊張する。僕みたいな、赤ちゃんを抱いたことのないド素人が抱いてしまっていいのだろうか。
重いようで軽い。けれど軽いようで重くて、こんなにも小さな体にきちんと一つの魂が備わっているのが信じられない。
「こ、 こんにちは……赤ちゃん」
「ぷっ、くくく」
赤子の顔を覗いて挨拶をすると、わるこさんが堪らず吹き出した。僕は至って真面目なんだ。
なんだか緊張してしまって思わず変なことを言ってしまった。
「君が僕達の子供……」
ここに来てやっと少し落ち着いた気がする。僕が急いで帰って来たのは、この子が産まれたという連絡が来たからだ。
前述の通り立ち会いは止した僕だけれど、産まれたらすぐに飛び出す準備はしていた。だから昼間はソワソワしてしまって全然仕事が手に付かなかったのだけど。
「女の子よ。誰かさんに似てよく泣く女の子」
「ほぁあ……可愛いなぁ」
「…………無視されちゃった」
僕のカチコチに固まった腕の中で眠る可愛い可愛い娘。物凄く肩が凝ってくる気がするけれど、赤い顔を眺めていればそれも気にならない。
わるこさんが視界の端で何やら呟いているけど、ごめん。今はこの子の顔を見ていたい。
「可愛いなぁ……」
「むぅ」
この子が僕の……そしてわるこさんの娘。何回も同じ事を言ってしまうけれど、それが嬉しくて仕方がない。
僕はお礼を言おうと顔をわるこさんに向かって上げる。そこで初めて視界が滲んでいることに気が付いた。
「ありがとう、わるこさん。この子を産んでくれて、僕を父親にしてくれてありがとう」
「もう、やっと構ってくれるのかと思ったら、やっぱり泣いてるじゃない。良人くんはホントに泣き虫なんだから」
「だ、だって仕方ないじゃないか」
何度噛み締めても飽きることのない幸福感に、僕は包まれているのだから。
「ふふ……それで、良人くん。この子の名前は?」
「うん、もう決めてるんだ。この子が出来たことを知ったあの日、わるこさんが倒れてしまったあの日。この子を授かってから色々なことがあったけれど、その時その時にこの子が僕たちを明るくさせてくれた」
だから僕は決めた。この子の顔を見て、改めてその名で良いと確信したんだ。
この子の名は。
「あかり。玄浄明里」
そう告げると、あかりは小さく微笑んだ気がした。
「あかり……とっても良い名前だと思うわ。私達をいつも明るくさせてくれる可愛い可愛い愛娘」
わるこさんは優しく笑う。僕も涙を拭かれながら笑う。
今日程めでたい日は世界中探してもどこにもないだろう。僕達はじっとあかりの顔を見つめ続けていた。