18 わるこさん、僕は気付けなかったけれど
「!? わるこさん! どうしたの、しっかりしてッ!!」
出産予定日がそろそろ近くだという頃、彼女は自宅で倒れた。
その頃にはもう家事はほとんど僕がやるようにしていて、あまり彼女に負荷を掛けないようにしていたつもりだ。だからふと、彼女がお手洗いから帰ってきた時にフラリと揺れたのを僕は一瞬見逃してしまった。
「わるこさん! わるこさん! とにかく救急車……いや、僕が連れていった方が早いか……!?」
とにもかくにも、僕は彼女を抱きかかえ、ベッドに横に寝かせる。次いで、直ぐ様病院に電話を掛ける。
担当医と相談した末、簡単な応急措置を行いながら救急車を待つことにした。
「……わるこさん」
彼女は苦しそうに息を荒げる。その額に浮く汗を拭きながら、僕は彼女の頬を撫でるが表情が和らぐ気配はない。
これ以上僕に出来ることは何もない。何が原因で彼女がこうなってしまったのかも、僕にはわからない。
しばらくして、無力さに打ちひしがれていた僕の元へ救急隊員が到着した。流れるような作業の中、僕はただ彼女の冷たくなっていく手を握っていた。
病院に付くと、治療の為に点滴をする説明を受けた。とにかく彼女を助けて欲しくて、僕は医師の言うがままに頷いた。
そして待合室にてかなりの時間待ち、わるこさんの検査は済んだ。病室に行く前に、僕は医師から彼女の状態の説明を受ける。
「奥様の状態は、妊娠貧血によるものでしょう。大体は赤ちゃんに血液を送る事が原因によるものですが、看護師から聞いたところストレスも大部分あるでしょう。体調が落ち着き次第カウンセリング等で対処もできますが……」
医師は告げた。
「この後、旦那さんからも話を聞いてあげてください。我々よりも心の問題を解決できるのはきっと、貴方の方が適任ですから」
僕は頷いた。
わるこさんの眠る病室は個人部屋の綺麗な所だった。幸い病室が空いていたのだろうか。それともわざわざこの部屋を用意してくれたのかは、僕にはわからないけれど。
白いカーテンの揺れる窓際に、白いベッドがある。そして、そこに眠るのが僕の最愛の人。
「大丈夫かい、わるこさん」
返事はない。疲れて眠ってしまったのだろうか。
ある程度の処置をしてもらったからか、その表情は穏やかで、かなり血色が良かった。
僕はベッドの隣の椅子に腰を掛け、彼女の寝顔を見詰める。
「君が何を悩んでいて、どんな不安を抱えていて、それが君にいかな影響を与えたのか……僕は知らなかった。気付いてあげられなかった」
まだ冷たい彼女の手を握る。
「ごめん、わるこさん。僕は一年前……君と僕の子供が出来たことを知ったときに、君を支えると決めたはずだったのに。……本当に、ごめんね」
すると僕の右手が、ぎゅうと握られる。わるこさんは相変わらず目を瞑っているけれど、確かに力が入れられている。
これは……。
「わるこさん……もしかして起き、ってイデデデデ」
「……ふふ」
わるこさんは口許だけ緩めて笑う。僕の右手には彼女のその鋭い爪が食い込んでいる。力はなくとも容易に痛みを与えられる、最も良い方法だと思ったが。同意せざるを得ないが。
僕にそれはしないで欲しかった。
「お、起きてたんだね」
「ええ、寝たフリだったもの。……ごめんなさい、心配をさせてしまって」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げながら目を開いた。彼女が謝るのは間違っている。
謝らなければならないのは僕の方だ
「いいや、僕の方こそごめん。君が苦しんでいることに気が付かなかった」
「そんなことないわ。私が良人くんに相談出来なかっただけだもの」
「…………何を、そんなに悩んでいたの?」
正直訊き辛かった。僕が頼りにならないと彼女が判断したのなら、この質問をすることで更に彼女を失望させるかも知れないと心配になった。
だがそんな心配とは逆に、彼女はしばらく閉じた口をゆっくりと開いてくれた。
「怖かった……いえ、不安だった。心配になったと言うべきかしら」
「うん」
一年前、僕に妊娠のことを打ち明けた時のように彼女は弱々しく言葉を紡ぐ。
「私は昔から良人くんが作ったものは壊してきた。他の人の物も壊したけれど、良人くんの作品を壊すのが大好きだった」
「うん」
「大好きな良人くんが作ったから、それを壊す……きちんと終わらせられる事が嬉しかった。そして今私の中にいる子供も……」
この子は、僕とわるこさんが作ったから。
だから、もし。いつかこの子を壊したくなるんじゃないだろうか、と。
「自分でも抑えきれない破壊衝動があったとき、私はこの子を壊すかもしれない。理性の中では壊したくないと叫んでいるけれど、それでも――」
「大丈夫だよ」
僕は彼女の手を強く握って言う。
大丈夫たと。それは決して慰めでも取って付けた言葉でもなく、僕の本心だ。
「わるこさんが心配してるようにはならない。……絶対にさせない。もし君が僕達の子供を壊したくなったら、この僕が全力で止める。君を傷付けてでも止める」
「良人くん……」
「それに、なにより僕は君を信じている」
気付けば僕はベッドに手をついて立ち上がっていた。横になったままの彼女に覆い被さるような形だ。
「君が君の中の破壊衝動に負けるとは思わない。僕が残しておいて欲しいと言ったものは、全部残しておいてくれているしね」
「……そうね」
わるこさんは僕を見上げて微笑んだ。
心底安心したような表情だった。
僕は彼女が一年抱えていたその不安に気付いてあげられなかったが、それでも今。この瞬間に、彼女の不安が和らいだのを理解した。
「覚えてる? 昔僕が君に言ったこと」
「何の事かしら? 私は良人くんとの思い出はほとんど忘れてしまっているから、自信がないわね」
彼女はいつもの意地悪な笑みを浮かべて告げる。
「『君が壊すのが好きなように、僕も綺麗なものを残すのが好きなんだ』ってね」
「……ふふ、残念。忘れてしまっているわ。そんな事があったなんて覚えていないし、良人くんの言葉も記憶にない。ホントに、残念」
わるこさんは笑う。嬉しそうに笑う。
楽しそうで愉快そうで、喜びに満ちていて。いつも彼女はそんな風に笑っているけれど、その笑みはいつも僕に向けられていて。
こんな時はいつも思う。人間に生まれられて良かった。感情を知ることが出来て、僕は本当に幸運だと。
「全く覚えがないけれど、もしその言葉に返すのなら。『いつもはあなたの作ったものを壊して遊んでいるもの。たまには私の作ったものをあなたに残させてあげる』と言ったところかしらね」
「嘘つき」
僕も笑う。溢れるように笑う。
楽しくて、愉しくて、心が満ちていて。そんなささやかな思い出も彼女はしっかりと覚えていてくれて。
そんなわるこさんを僕は大好きで。
「ふふ」
「ははは」
緩やかな風が穏やかな温もりを運んでくる。揺れるカーテンが日光に輝き、白い部屋の明るみが満ちる。
そんな中、僕達は静かに笑い合っていた。