17 良人くん、私達の子供は
「良人くん」
「どうしたの?」
妊娠中、彼女は僕を度々呼んだ。用はいつも大したことはなく。手を繋いで欲しい、アイスを買ってきて欲しい、僕の作る料理が食べたい。
僕にとってそれらの願いは苦痛でもなんでもなく、むしろ彼女が甘えたがっているのかと僕は少し嬉しくなっていた。
勿論、それが嘘だったわけではない。きっと口に出してお願いしてくれる時は本当に甘えたかったのだろう。
「…………」
だけれど、時折彼女は僕を呼ぶだけで何も言うことが無いときがあった。ただ静かに口の端を結び、黒い瞳は僕の目を見てはいなかった。
「わるこさん?」
そんな時、僕は彼女を抱き締めた。腕の中に彼女を収めて、初めて気付く。
わるこさんは小さく震えている。
マタニティーブルーという言葉を知ったのは、妊娠が発覚して半年が過ぎてからだ。
妊娠中の女性が不安になったり、気分が落ち込んだりしてしまう症状。ホルモンバランスが崩れることによって起きてしまうそれが、わるこさんにも起きているのだろうか。
「……いいえ、それとは少し違うかもしれない」
僕が訊ねると彼女は首を振った。
「確かにそういうことはよくあるわ。けれどその時は良人くんがいつもお願いを聞いてくれるし、不安を和らげてくれるから大丈夫」
「……そっか」
その時のわるこさんは柔らかに微笑んでいた。だからやはり、その言葉に嘘はないのだろう。
愚かな僕は気付かない。
例え嘘をついていなかったとしても、それが全て本心だと言うことにはならないことを。
「ね、良人くん」
「んー?」
ある日の病院帰り。わるこさんは上機嫌に僕を呼んだ。
「私達の子供、女の子なのね」
病院で医師から告げられた性別。僕らとしてはどちらでも良かったけれど、女の子と告げれるとそれはそれで気に入ってしまった。
「そうだね。名前の候補が出しやすくなったし、お義父さん達にくらいなら言っても良いかもしれないね」
僕は返す。
性別はエコー検査で、外性器による判断のみだから割りと変わることがあるらしいけど。まあ多分女の子だと医師は笑っていた。
多くの人に触れ回る程ではないが、身内には早めに告げても良いと思う。
「私女の子なら一緒にしてみたいことがあるのよ。料理とか、そういうこと」
「ああ、それ凄くいいね。僕はそれを後ろから眺めていたいよ」
僕達は自然に手を繋ぐ。指を絡め合い、自然に目が合うと、僕達は溢れるように笑みを浮かべた。
「あと膝枕で耳掻きとかしてあげたいわね。子供の耳って小さくて可愛らしいから、思う存分掃除してあげたい」
「む……膝枕か」
思わず口を溢すと、わるこさんはクスリと微笑む。
「もう嫉妬してくれてるのかしら、良人くん? そこは僕の物だぞー、って」
「ちがっ! わ、ない、けどさぁ」
「……ふふふ」
繋いだ手に力が入る。何てみっともないんだろう。
まだ生まれてない子供に、わるこさんを取られるような気分になってしまう。
「あら、私だって心配よ? 良人くん優しいから子供に凄く懐かれるんじゃないかしら。それこそ私よりよっぽどこの子を可愛がったりして」
「それはないよ。確かに僕はこの子を可愛がるだろうし、世界一大切にするかもしれない」
けれど、と僕は続ける。
「けれど、やっぱり。僕がこの世界で、唯一『恋』したのは、君なんだ。君だけに僕はずっと恋しているよ」
「私もよ。愛してる」
「……っ」
ああ、やっぱり僕はみっともない。
もうすぐ父親になるというのに、僕は彼女の一言で赤面するのを自覚してしまう。まったく良い大人だと言うのに。
これはやはり、僕は彼女に一生勝てないと言うことだろうか。
「そんなことないわ。良人くんが気付いていないだけで、私は良人くんに負けっぱなしよ」
「……そんなことある?」
「あるのよ」
僕は首を傾げる。
その様子を、彼女は嬉しそうに見ていた。