15 わるこさん、覚えてる?
「あれ……わるこさん?」
小学二年生の時だ。その日僕らは遠足で。近所の公園に来ていた。
「さっきまで一緒にいたのに」
大人になってから来てみても広い公園だ。子供が迷うには十分で、探し出すのも大変な程だった。
先生に聞いてみても、わるこさんの事は見かけていないらしい。僕とわるこさんは幼稚園のときから公園には来ていたので、ある程度場所の予測を立てて僕は走り出した。
「……いない」
まずは大きな滑り台のある広場。この場所は僕が作った泥団子を、わるこさんが滑り台に投げ付けて壊した、思い出の場所だ。
他のクラスの子供たちはいるけれど、わるこさんはいない。
「はぁ、はぁ……ここもいない」
次は蛸のような滑り台のある所。階段で中に入り込むと五方向程に滑り出せるようになっている。
その中のところに僕が木の枝やシートを集めて、秘密基地を作った。そして見事わるこさんが蹴り壊した思い出がある。
まあ、あれに関して言えば。僕が皆の使う所へ作ったのも悪かった。
蛸滑り台にも子供はいるが、わるこさんはいない。
「……ここも」
交通公園まで来た僕は、もう息が切れ切れで。その場所をくまなく探す力はなかった。
パッと見る限り、居そうな雰囲気はないのだけれど……。
「ん……?」
辺りを見回していたとき、一つ気になるものが僕の目に止まる。
二日程前に確か雨が降っていて、日陰のところはまだ乾いていなかった。だからその上を誰かが歩けば足跡が残る……。
「……」
まさか、と僕も思った。何故ならその先は池しかないからだ。実際にそこから、その足跡の向こうから池へ行ったことはなかった。
けれど公園の地図では、公園自体が池を囲むようにあることを僕は知っていた。
「先生やお母さんは、池の方へは行っちゃダメだって言ってたけど……」
当時の僕にとって、大人の言うことは絶対で。禁止されたことやルールを破ることは大罪だった。
けれどそんなルールを諸ともしない人を、僕は知っている。
「…………」
僕は生まれて初めて禁忌を犯した。大袈裟に聞こえるけれど、前述の通り、当時の僕にとってそれは物凄い事だった。
「わるこさーん……?」
微妙に地面がぬかるんでいる所を僕は進む。大人達にバレることを恐れて、大声を出せずに彼女の名を呼ぶ。
足跡はまだまだ続いていて、僕はそれを追う。
「ん……?」
そしてしばらく進んだ頃、足跡が突然消えた。
そこは池の真横で、切り立った崖……と言うとかなり大袈裟だけれど。とにかくもう、そこからは池に落ちてしまうような所だ。
足跡が消えたところ、その下を僕は恐る恐る覗き込む。
「……わるこさん」
「……あら、良人くん」
彼女はそこにいた。高さにすれば大人一人分と少しくらい。
その下で彼女は足を押さえて座り込んでいた。
「どうしたの」
僕はそれまで必死に探していたのを抑え込んで、ぶっきらぼうに訊ねる。
僕の心配とは裏腹に、存外元気そうな彼女に。僕は何かつまらない気分になったのだろう。
「……別に、大したことないわ」
しかし、よく見なくても彼女は明らかに足を押さえている。服は泥が付いていて、大したことないわけがない。
僕は近くに落ちていたロープを、生半可な知識で木に一生懸命縛り付けると。それを伝って彼女の元へ下りた。
「良人くん」
「どうしてここにいるか、とか。足がどうしたの、とか。たくさん聞きたいことがあるんだけれど」
「それは――」
「その前に」
近くまで下りた僕は、彼女の様子をその時初めて見たのだ。そして、その様子から言ってやらなければならない言葉があることに気付いた。
決して優しげとは言えないその目は赤くなり、薄い唇は必死に何かを堪えたのか噛み締めた跡が付いていた。
幼い僕は彼女の前に膝を付くと、その頭に手を置いた。
「すぐに見つけてあげられなくてごめんね」
「――――ごめんなさい」
僕が謝ると、彼女も思わず謝ったようだった。
それから彼女は僕の服を引っ張って、その裾の所へ顔を押し付けていた。だからどんな表情を浮かべていたかは、僕は知らない。
「ねぇ、どうしてここへ居たの?」
「……何か壊したくなって、この辺りなら木の棒とか。捨てられたゴミとかあるから、それを探しに」
「そうなんだ」
相変わらず彼女は僕の理解を超えていた。
「それで足を滑らせちゃったんだね。……今は痛くない?」
「少しだけ。だからもう少し休みたいわ」
「わかった。僕も一緒にいるよ」
僕はそう言うと彼女の手を取った。ひんやりとして冷たく。それでも子供特有か、女の子特有か。
柔らかさを感じる手だったと記憶している。
「ここ、綺麗ね」
わるこさんは池を眺めていった。
さっき話した通り公園は池を囲むようにある。だから池の向こうには遊具がちらりと見え、人の気配を感じる。
けれど、何よりも。池の周りには木々が。夕方が近くなってきた為、薄ぼんやりと橙色が混じった空が綺麗だった。
「こう言うのは壊したくならないの?」
僕は彼女の手を繋いで、景色を眺めながら訊ねる。
「どちらかと言うと壊したいかしら。無理なことを知っているからそれ以上は無いけれど。……例えば絵に描いて、それを壊すことでなら代わりになりそうね」
ちなみに一年後、その絵は僕がもらい受ける。
「君は僕の予想以上の解答をしてくるね」
「あなたが優しいだけよ。形あるものはいつかその美しさを失う。どうせ失ってしまうのなら今壊したい私と、その輝きが輝ける限り見守りたいあなた」
彼女の言葉には含みが多過ぎて、僕には何が何やらよくわからなかった。
「わるこさん、そろそろどう?」
「……少し、右足を怪我してしまったかもしれないわ。あのロープを伝って上に上れるかどうか……」
それなら、と僕は考えた。
彼女の冷たい手を離すと、僕は彼女の前にしゃがんだ。
「どうしたの?」
「僕が君をおんぶするよ。足は引きずっても良いけど、手は頑張って僕にしがみついてね」
「そんなこと……出来るの?」
とにかく僕は彼女の足を庇いながら、彼女を立たせる。
「ちゃんと捕まってね」
彼女を背負うと、彼女の足に僕は手をかける。一度姿勢を安定させる為だ。
すると彼女は腕と足で僕の体にしがみついてくれた。
これなら手を離しても少しくらいは大丈夫そうだ。
「じゃあ上るから、離さないでね」
「わかったわ」
僕はロープに手をかける。人一人を背負っているし、子供の体で。しかもかなり疲労した状態だったから、物凄く大変だった。
彼女の体を重いなんて言うつもりはないけれど、僕には相当な負荷だ。
「ぐっ……ぅう……!」
それでも一度カッコつけた手前、僕は薄い感情ながらも根性を振り絞り。気合いと頑張りだけでどうにか上りきった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「大丈夫? 私降りる?」
「だ……大丈夫。足が痛いんじゃ、無理して歩くと絶対によくないと思うから。僕がこのまま、君を皆の所へ連れていくよ」
「……そう。じゃあお願い」
僕は少しだけ息を整えると、また彼女の足に手をかけて歩き始めた。
「ね。チョークスリーパーって知ってる?」
「全然知らない。けれど、凄く嫌な予感がするから絶対にやめてね」
そんな会話をしながら。僕は集合場所へ遅れて到着した。
僕達は先生に怒られるかと思ったけれど、案外大したことはなく。むしろ心配されていたので、どうにか助かった。
「なんて事あったの。わるこさんは覚えてる?」
「全然覚えていないわ。けれどあの日かけ損なったチョークスリーパーをするのもいいわね」
「バッチリ覚えてるじゃないか」
彼女は悪戯な笑顔を浮かべると、僕の首に手を掛けた。
「もう、わかったよ」
「それでこそ私の旦那様よ」
「まだ籍は入れてないよ」
そして彼女は僕の首に手を掛けたまま、僕の背中に飛び乗った。
「わ、わるこさん!? しまる! 絞まってるよ!」
「あら、おんぶして貰おうと甘えただけのつもりだったのだけれど」
「いいから肩に掴み直してよ!」
そんなことを叫びながら。僕達はもういい大人だったはずなのだけれど。
昔よりはしゃいで、じゃれた昼下がりだった。