第七話:仕様変更と恐るべき襲撃
濃い霧に覆われた山道を歩く。足元は泥濘み、気温もこれまで歩いてきた平原と比べて数度は低い。
一寸先も見えない山道。足元の悪さといい、NPC用の安全な道が必要になるのも納得がいく話だった。
時折道を黒い影やら火の玉が横切っていく。魔物の影だ。サイレントも、いつもとは異なる視界に警戒を強めているようだった。
能天気なのは上を向いて口を開けながら歩いているフラーだけだった。まったくこの子は。
ふと霧の向こうから黒い塊が飛び出してくる。サイレントに似たどろどろし粘性の身体。弾けるような動き。
名前はブラッドスライム。サイレントが自分のアイデンティティを傷つけられたかのような顔をして飛びかかっていく。
いい機会だったので戦闘はサイレントに任せ、僕はちょっと距離を取って後ろからついてきていたノルマを振り返った。
【ミストハイランド】には『霧』のフィールドエフェクトがかかっている。命中率が下がる他、一部眷属のステータスにペナルティを与えたり与えなかったりするまあまあ厄介な特性だ。
サイレントには通用しないし、フラーはむしろ喜んでいるが、現実ではその厄介度は跳ね上がる。濡れるのだ。
ノルマはびしょ濡れだった。額に張り付いた髪に青ざめた顔。外套はぼろぼろのせいか防水性が僕のものよりも低いらしい。寒いのか、ぶるぶると震えている。
NPCは脆弱だな。
「ところで、なんで君ついてきてんの? 安全な道行けばいいのに」
「……え?」
別に僕はついてこいなんて言ってない。ついてくるなとも言っていないが、安全な道とやらを行けばこんな思いもしなくて済んだことだろう。
ノルマが眉をぴくりと動かし、縋り付くような目で僕を見る。そんな目をされても困る。
何かを潰す音とともに、ブラッドスライムが飛散する。ノルマが小さくひゃっくりをしてぼそぼそ言った。
「だって……お金、ないし……」
「この貧乏人め」
確かにノルマは小銭しか持っていなかった。ゲーム内でのノルマを知っている僕からすると信じられない。
「竜玉もッ……と、取られちゃったし……」
「いやいや、降参したのはノルマの方だから。命があっただけラッキーだと思わないと」
「……」
一瞬ノルマの目尻が上がり、顔が鬼のように険しくなる。本当のことしか言っていないのだが。
僕が彼女に無償の愛を振りまいてやった理由は情などではない。
僕がノルマを助けてやったのは歩く宝箱がなくなるのは勿体無いと思ったからと言うのももちろんだが、同時にこれから来るかもしれない他のプレイヤーがノルマに会えないのは可哀想だと思ったからだ。
ろくでなしではあっても名前持ちのNPCである。もしもグリーンウルフに襲われていたのがノルマではなくその辺のNPCだったら――。
……間違いなくクエストだな。
服はノルマの身体の線が露になるくらいにぐっしょり濡れている。雨も降っていないのに酷いフィールドだ。
見た感じでは、このままだと途中で行き倒れてしまいそうだった。ご飯をあげて魔物も倒してあげてるのに、なんて足手まといだ。
僕はため息をついて、ブラッドスライムの死骸をぺんぺん踏みつけてるサイレントに呼びかけた。
「おいおいサイレント見ろよ」
「んん?」
「お優しいこの僕がノルマに外套まで恵んでやってるぜ。これはななしぃに報告すべきだな」
ポケットの中から以前着ていた灰色の外套を取り出し、ノルマに投げつける。安物だがちゃんと水は弾いてくれるので今ノルマが羽織っているボロボロの物よりはだいぶマシだろう。
ノルマは無言でそれを掴み受け取ると、濁った目で見下ろしていたが、しばらくしてゆっくりとした動作でそれを着込んだ。
「…………それをこみで報告したとしてもすさまじいマイナスだとおもうぞ」
ノルマの震えは一枚着たところで止まっていなかった。がちがちと歯が鳴っている。
リヤン人は頑丈設定があったはずだが、この分だとあまり過信できないようだ。
礼を言えとは言わないがせめて死なないで欲しい。これまでのすべてが無駄になってしまう。
再び魔物を蹴散らしながら先に進む。大きな蛙に浮遊する火の玉。スライム系の魔物に、【戸惑いの森】でも見たトレント。
もちろんレアモンスターも存在する。【ミストハイランド】に出現するのは『ミストハイランドオオトカゲ』と呼ばれる亜竜である。平均的に高い能力を誇る魔物で、特に防御力とHPが高いので現れたらカベオをぶちかますことになるだろう。
うっすら残った道なりに沿ってまっすぐ進む。
【ミストハイランド】はそれほど広いフィールドではないはずだが、夜が来る前になるべく進んでおきたい。
今にも倒れそうなノルマを眺めながらサイレントが尋ねてくる。
「あるじはさ、だいじょうぶなのか?」
「【カッサ砂漠】よりだいぶマシだね。フラーも喜んでるし」
プレイヤーは死なないようだ。疲労しないとは言わないが、フィールドエフェクトは通じない。
服が水を吸って重くなるのには閉口するが、許容範囲内である。
砂漠はつまらなかったが、霧で包まれた山道はもう少し面白い。現れる魔物も砂漠より可愛げがある。
「あるじは凄いなぁ」
サイレントが呆れたような感心したような声をあげた。
§
傾斜が緩やかになったところで宿を取ることにした。
日が落ち、世界が暗闇に包まれる。乳白色の霧が立ち込めた夜はゾットするくらいに恐ろしい。
本当に少し先も見えない。はぐれたりすれば厄介なことになるだろう。ノルマもさすがにその危険性は理解しているのか、平原を歩いていた時は距離を取っていたが、フィールドに入ってからはぴったりとついてきていた。
ポケットから着火剤を取り出し火を起こす。多少の湿気には負けない実用的な代物だ。火属性の魔法を使える眷属を手に入れるまでのつなぎで買っておいたものである。
焚き火を起こすとようやく人心地がついてくる。ノルマが震えながら火に当っている。
座り込み、何気なくコンパスを開くとぐるぐる針が無秩序に回っていた。嫌な感じだ。
無言でコンパスをポケットに戻す。目ざとくサイレントがそれを見つけて言った。
「あるじさ……もしやまた迷子か……?」
「え!?」
俯いていたノルマが悲鳴に似た声をあげ僕を見る。僕はため息をついた。
「サイレント、空気読めよ。というか、もともと迷子とかその前に道なんて知らないし。まっすぐ進んできただけだし」
「あるじ、かんがえなし」
「風の向くまま気の向くままってのも悪くないだろ?」
「あるじ、わいるど。……やっぱりふぃーふぃーをまったほうがよかったぞ」
迷子ってなんだよ。迷子って。既にある道をまっすぐ進んできただけだ。迷子も何もない。
大体、マップ表示機能がないのがすべて悪いのだ。ゲーム時代は好きなときにマップを確認できたし現在地もわかったのに、システムがクソすぎる。マップをよこせ。マップを。
と、そこまで考えた所で僕は目を瞬かせた。
「? どうしたんだ、あるじ?」
「……」
マップが……見える。
ゲーム内と同様、だいぶ簡略化されたものだったがマップが表示されていた。
いや、表示という言い方は語弊があるが、マップが『理解できる』
現在地がわかる。光点として光っているし向いている方向もわかる。
視界に出ているわけではないが、はっきりわかる。不思議な感覚だった。
妄想でないとは言い切れないが……そう断じるにはあまりにも鮮明に見えすぎている。
眉を顰め首を傾げる。砂漠を歩いていた時には見えなかったはずだ。
サイレントが訝しげな表情でこちらを見上げていた。
「ようやくバグが直ったのか……? 遅えよ。……拡大縮小もできるぞ、随分広いな、【ミストハイランド】」
「な、なにいってるのだ? だいじょうぶなのか、あるじ?」
どうやら道なりで問題なかったらしい。もう半分は進んでいるのでこのまま行けば無事フィールドを出ることができるだろう。
ほら見たことか。
僕はサイレントの問いを無視し、マップを非表示にして、ポケットから鍋と食材を取り出した。
ベーコンの塊にキャベツのようなものに人参のようなもの。眷属の栄養バランスにも気を使ってしまうなんて僕はなんて素晴らしい召喚士なのだ。
僕はぷるぷる震えているノルマを見て、笑いかけて言った。
「とりあえず食事にしようか。ちょっと冷えるから暖かいものでも食べよう」
§
ノルマが必死の形相でスープをがっついている。与えたのはパンだけだったので余程飢えていたのだろう。
サイレントがスプーン片手に皿を抱えこむようにしながら、僕を見た。
「あるじはたべないのか?」
「いや……食事とるとさ……排泄が必要になるみたいなんだよね。めんどうじゃん?」
「……聞かなかったことにするぞ」
僕が食事不要であることに気づいたのはこの世界にきて一週間くらいたったあたりでのことだ。
ナナシノにも一度言ったが、ゲームに食事は存在しない。最初は空腹を感じたのでちゃんとご飯を食べていたが、試しに食べずに過ごしてみたら意外といけてしまった。今では空腹感すらほとんど感じなくなっている。
もちろん食事を取ることもできるのだが、それ以来食事が億劫で仕方ない。エネルギーがどこから来ているのかは知らないけど、必要ないんだったらやらないって。
唯一食事いらない仲間であるフラーが僕の膝の上に座って足をぶらぶらさせている。僕は手持ち無沙汰だったので道中トレントから剥ぎ取った木切れを取り出し、フラーに渡してやった。
ノルマの顔色は昼間と比べて随分良くなっていた。恐らく、ふらふらしていたのは疲労や寒さの他にも栄養不足というのもあったのだろう。
下着姿に剥いた時に見たノルマの腹部にはうっすら肋が浮き出ていた。僕には関係のないことだが、どうやらどうしてなかなか苦労しているようだ。遺物なしだからなぁ。
瞬く間に食べ終わり、物欲しそうに空っぽの器を見下ろすノルマ。
僕は黙ったままノルマにパンを投げつけた。地面に落ちそうになるパンをノルマが慌てて捕まえ、僕を見る。
その小さな唇が開きかけたところで、すかさず自画自賛した。
「飢えたノルマに餌をあげてしまうなんて僕はもしや親切か?」
「どうしたんだあるじ、らしくないぞ?」
サイレントの僕のイメージは随分と下らしい。
死なれるのもちょっと……だし、試したいことがあったのだ。
それにそこまでノルマに強い恨みがあるわけでもない。ゲームの話だしね。エレナ死ね。
「いや、ちゃんと栄養与えたら胸も大きくなるかなって。ほとんどなかったから」
「…………なんかほっとしたぞ」
シャロやエレナといい勝負だろう。ナナシノとの戦力差は明白である。
ゲーム時代のノルマは遭遇数に比例して装備が豪華になり胸が大きくなるキャラだった。もしや栄養が足りないだけではないのだろうか。
ノルマが目を見開き、僕を凝視すると、唇を震わせ、ぼそりと言った。
「…………ッ……最低ッ。死ね」
なんか昔、鯉に餌をやった時のことを思い出すなぁ。
僕はのほほんとした気分で、新たなパンを取り出し、今度はちぎってノルマの方に投げつけた。
明日は山を下らなくてはいけない。さっさと食べて寝て体力を回復させよう。
§
「動くなッ」
そして、身体を持ち上げられる感触と、耳元で発せられた感情を押し殺した低い声で、僕は目を覚ました。
背中から抱きしめられるような形で身体が拘束されていた。首元に水滴のついた短剣が突きつけられている。
後ろから締め付けられているので表情は見えない。だが、その声から誰の仕業かは分かった。
そも、驚きすらしない。僕はノルマのろくでなしさをよく知っている。
ノルマが囁くように脅してくる。背筋がぞくぞくしてくる。
驚くほど冷たい刃の感触。激しい息遣いと、小動物のような速い鼓動が接した背中から伝わってきた。
「『竜玉』を……出しなさいッ!」