003 じっと見るなら俺にして
その胡散臭い笑顔に呆けているギルド長をさらっと無視し、アルダさんに近くの手頃な宿を聞き、「また明日顔を出します」と立ち上がったランに手を引かれ、ギルドを後にした。
いつの間にか日が暮れ始めている。どこからともなく漂ってきた煮炊きの匂いに、お腹が小さくくうっと鳴った。
アルダさんに紹介された宿にランを案内すると、なぜかその宿に一緒に泊まることになっていた。
受付で教えられた部屋の扉を開けると、奥に小さな台みたいなものを間に挟んで並ぶ寝台がふたつ。その手前、扉の前にはテーブルがひとつと椅子がふたつある。
「思ったよりも日が暮れるのが早いなあ。慣れるまで時間がかかりそうだ」
「その分早く寝ればいいだけだよ」
ツバサがあの綺麗な人の姿になって現れた。
ツバサが姿を現すと同時に、部屋の中が一気に明るくなる。まるで昼間のような明るさ。ツバサが何かしたのかと、首を傾げる。
「さっきみたあのうろ、気に入っちゃった。家を建てるならあのうろのそばがいい!」
「シアの家の?」
「そう。あのうろ、すごくイイ!」
「翼って狭いとこ好きだよなぁ」
「妙に落ち着くの」
「シア?」
ランに名を呼ばれるまで、ツバサから目が離せなかった。
その綺麗な人と目が合う。
──うわぁ……。すごい。綺麗な目。日の光のような色。
「シア? じっと見るなら俺にして? 俺の目もたぶん綺麗だから」
──どうしてじっと見るならラン?
よくわからなくて、思わず首をかしげる。
「まあ、追々ね。さて。ご飯にしようか。今日はなんにする?」
「私、マカロンがいい」
「翼はマカロンね。俺たちは……シア、何か食べたいものある?」
「なんでもいいの?」
「なんでもいいよ」
ランはなんでもないことのようににこやかに言うから、思い切って言ってみる。ずっと食べてみたかったもの。
「あの、ね、あの……お肉、食べてみたい」
「肉かぁ。じゃあ、ステーキにするか」
ランの鞄の中から、まずは椅子がひとつ出てきた。続いてじゅうじゅうと音が出ている、肉の塊がのったお皿のようなものが出てくる。
食欲を誘うおいしそうな匂いが部屋に充満する。ツバが溢れる。
さらに、見たこともない綺麗な器に入った白パン、スープ、生の野菜、色とりどりのころんとした丸いものが、次々と鞄から出てくる。最後にスプーンと、似た形で先がつんつんとがっているもの、小さなナイフみたいなものを取り出して、テーブルに並べる。
──あの鞄、なんだろう?
どう考えても椅子が入るような大きさじゃない。あんなにたくさんの食べ物が入っていたとは思えない。
「ん? ああ、この鞄? 俺の最高傑作。なんでも鞄。なんでも欲しい物が出てくる鞄だよ。他の人には内緒ね」
「本当、名付けのセンス皆無よね」
「わかりやすくていいだろ」
欲しい物が出てくる鞄。そんな奇妙な鞄があるか。初めて見た。きっと高価な物なのだろう。絶対に誰にも言わない。
ぎゅっと口を引き結ぶと、「他の人には使えないから、万が一の場合も大丈夫なんだけどね」とランが笑った。
「ねえ、食べていい?」
ツバサがころんとした丸いものをひとつ摘まんで、口に放り込もうとしている。あれは食べ物なのか。初めて見た。じっと見ていたら、「ひとつだけよ」と摘まんだそれを食べさせてくれた。
さくっとして甘くてふわっと溶けて、あっという間になくなった。
──すごく甘い! すごくおいしい!
初めて食べる味とさくさくな噛み心地。前にアルダさんにもらった飴よりも甘くておいしい。唇に残った甘さを舌で舐め取りながらうっとりする。甘い。すごく甘い。
「はあぁぁぁ……シア、その顔は外でしちゃダメだからね」
どんな顔をしたのだろう。外でしちゃダメな顔。きっと変な顔だ。気をつけよう。
「あんまり可愛い顔は俺の前以外ではしないでね」
──可愛い顔? 変な顔じゃなくて?
外でしちゃいけない可愛い顔ってなんだろう。可愛いは小さいじゃないのだろうか。
「ほら、食べるよ」
そうランに言われて戸惑う。
──どうしよう。食べ方がわからない。
スプーンは知ってる。けれど、こんなに細くてぴかぴかで銀貨みないな色のものは見たことがない。触ってもいいのかがわからない。
「ああ。うーんと、これがスプーン。これがフォーク。これがナイフね。こうやってフォークで抑えながらナイフで肉を切って、一口ずつ食べるんだよ。お肉がのっているお皿は熱いから気をつけてね」
言われたとおり、先がつんつんしているフォークをお肉の端に突き刺して抑え、ナイフで切ろうとするも、何度やってもうまく切れない。
いつの間にか後ろからランが両腕を回し、それぞれの手に添えてフォークとナイフを操ってくれる。
「そんなに力まなくてもいいんだよ。すっとナイフを入れる感じで。──はい、食べてごらん」
フォークに突き刺さったお肉を口に入れると、じゅわっとおいしい汁が口の中に溢れた。
──おいしい!
これがお肉。初めて食べた。ずっとずっと食べてみたかった。
「おいしいでしょ。泣かなくていいから、ゆっくりよく噛んで食べるんだよ」
また泣いていた。勝手に涙が出てくる。
お肉は噛んでも噛んでもおいしくて、もったいなくてなかなか飲み込めない。でも目の前にはまだまだお肉がある! 思い切ってごくっと飲み込む。こんな塊、初めて飲み込んだ。
すっとナイフを入れるような感じで……。ランの言うとおりにナイフを入れると、今度はすっと切れた。
──んー。おいしい! お肉おいしい!
「シア、お肉ばかりじゃなくて野菜も食べなさい」
ツバサに小さく切られた生の野菜が入っている器を差し出される。
「ナイフとフォークを一旦置くときは、こんな感じ」
両方とも手に持った形のまま、お皿の上に乗せておけばいいらしい。ランの真似をしてそれらを置き、ツバサに差し出された器を落とさないよう両手で受け取る。
つるつるとして少しひんやりしている綺麗な器。初めて触った。
壊さないようそっとテーブルの空いている場所において、思わず首をかしげる。
──これ、どうやって食べればいい?
「サラダはフォークで食べるといいよ。フォークはさっきと違って右手で持っていいよ。シア右利きでしょ」
そう言ってランがサラダを食べて見せてくれる。
同じように食べると、ぱりぱりとした味の濃い野菜。かかっている汁は色んな味がして、口に入れた途端びっくりした。こんなにぱりぱりとした野菜は食べたことがない。噛むとぱりぱりしゃきしゃきと音が鳴る。
──面白い!
「シア、音が鳴って面白いのはわかるけど、食べるときは口を閉じて食べなさい」
ツバサに言われ、慌てて口を閉じる。口を閉じて食べると今度は音が頭に響いて、それも面白かった。
「はい、じゃ、次はスープね」
ツバサが目の前にあったお肉のお皿を脇にどけて、スープの器を目の前に置いた。
「スープはスプーンで手前からすくって飲めばいいよ」
スープは知ってるけれど、手前からすくうのは知らない。
やってみれば特に難しくはなかった。口に含めばまったりとして、なめらかで、体がほかっと温まる。これもおいしい。
夢中ですくっていると、ツバサが器を傾けてくれる。
「残り少なくなってきたら、こうして少し傾けて飲めばいいから」
ランが同じようにスープを飲んでいたようで、同じくらいの量になっていた。最後まで飲むと、ツバサがお肉のお皿を目の前に戻してくれた。再びお肉に取りかかる。
──お肉おいしい! 一番おいしい。
「シアはお肉が好きなんだね。明日は別のお肉料理にしようね」
そのランの一言が信じられなかった。
──明日もお肉が食べられる? いいの? 明日も食べていいの?
ランを見れば、目を細めて笑っている。
「嬉しそうだね。お肉くらいいくらでも食べさせてあげるよ」
「ありがと!」
「どういたしまして。ほら。最後まで食べて。お腹いっぱいなら残してもいいからね」
結局、お肉とスープだけは全部食べた。白パンは一口も食べられず、サラダはほとんど残してしまい、ランが代わりに食べてくれた。渋い顔をしたツバサに、野菜も食べるよう言われる。気をつけよう。
食べきれずに残すなんて初めてだ。足りないと思うことばかりで、お腹いっぱいになるってこいうことかと、初めてわかった。食べたくても入らない。
お腹がいっぱいになったからか、それとも心が一杯になったからか、なんだか眠い。
「眠そうだね、シア。もう寝る?」
ひとつ頷く。いつもよりゆっくりと頭が動いた。
「あー、でもこの寝台は……。ベッド出そうかなぁ。でもあれ仕舞うとき面倒なんだよなぁ。……今日は寝袋でいいか」
ベッドはお貴族様が使うものだ。あの寝袋はベッドではないのか。
ランが鞄から寝袋をふたつ出した。絶対にふたつも寝袋が入っていた大きさじゃない。あの鞄の中はどうなっているのか。奇妙ななんでも鞄。
「シア、おいで」
呼ばれてランのそばまで行くと、なんだか急に口の中がさっぱりした。首をかしげると、「浄化したんだよ」と言われ、体中がさっぱりしていることに気付く。
──すごい。これが魔法。
「そのうちシアにも教えてあげるよ」
──シアも魔法が使える?
目を見開いてじっとランを見る。
「シアも魔法を使えるよ」
ランがなんでもないことのように、信じられないことを当然とばかりに言う。
──すごい。シアも魔法が使える?
「ほら、寝袋に入って」
靴と靴下を脱ぎ、もぞもそと寝袋に入る。頭を撫でられると、ランの「おやすみ」が聞こえた。
ひくひくと鼻が動く。いい匂いがする。おいしい匂いだ。
──昨日食べたお肉、おいしかったなぁ。生きていてよかった。
「シア、にやにやしてないで起きなさい」
綺麗な人の声だ。
目を開けると綺麗な顔が目の前にあった。
「翼! 顔が近い!」
「なにさ。別に取らないよ」
「取られてたまるか。俺のだ!」
「小さい男」
「小さくて結構」
「ランもロルと一緒だね」
「兄貴ほどじゃない」
よくわからないランとツバサのやりとりを聞きながら、寝袋から出て、靴を履く。
「ラン、兄もいるの?」
「おはよう、シア。兄もいるんだよ」
ランの近くに行くと、また浄化された。
「もしかしてシア、力の感覚がわかる?」
「浄化したこと?」
「そっか。わかるんだね」
ランが柔らかに笑う。
「わかるといいことある?」
「魔法が早く覚えられると思うよ」
──すごい。本当に魔法を覚えられる。
魔法を覚えたら、たくさん稼いで、たくさんお肉を食べられるようになるだろうか。そうなったらいい。お肉がたくさん食べられるようになりたい。
「朝はサンドイッチにしたよ。このベーコンサンドとハムサンドがお肉のサンドイッチだよ」
昨日のサンドイッチとは違う。昨日のは白パンを横に半分に切って具が挟まっていたけど、これは白パンを薄く切って具が挟んである。形も三角だ。昨日のはパニーノって言ってたから、これがサンドイッチなのだろう。
持ち手の付いたカップには、土色のスープが入っている。
一口で食べられるほどの大きさに切られた色んな種類の果実が、小さめの器にこんもりと入っていた。果実はお貴族様の食べ物だ。時々森になる果実を見つけて食べるのが、それまでの一番の幸せだった。
揃ってテーブルにつくと、ランが「いただきます」と呟いた。首をかしげてランを見る。
──いただきますって何?
「ああ。いただきますって、ご飯を食べるときの挨拶かな。お袋の故郷の言葉なんだ」
お袋はお母さんのことだ。ランには親も兄妹もいる。なんだか胸がぎゅっとなった。その胸の痛みに目をそらし、教えてもらったばかりの言葉を呟く。
「いただきます」
「好きなものを好きなだけ食べるといいよ」
ランがサンドイッチをいくつかお皿に取って食べ始めた。好きなものを好きなだけ……まるで魔法の言葉みたいだ。
同じようにお肉のサンドイッチをいくつか取り、一口囓ると、昨日のお肉とはまた違うお肉の味がした。これもおいしい。さっきランがベーコンサンドだと言っていた。もうひとつがハムサンド。それはベーコンサンドよりさっぱりとした味だった。これもおいしい。
お肉には色んな味があることを初めて知った。まだ知らないお肉の味があるのかもしれない。
スープは昨日とは違ってさらさらとしている、色んな味のするスープだった。
「それはコンソメスープだよ」
「コンソメ?」
「そう。お肉や野菜を煮込んで作るんだったかな」
──お肉のスープ!
言われてみればよく焼けたお肉の色をしている。お肉のスープ。素敵なスープ。
「シアは本当にお肉が好きだね」
思いっきり何度も頷いた。お肉に勝るものはない。
「野菜も食べなさいよ」
「ツバサはご飯食べないの?」
ツバサは何も食べず、頬杖ついて眺めているだけだ。
「私は甘い物しか食べないの。私は甘いものでできてるの!」
「シア、それ嘘だから。騙されちゃダメだよ」
ツバサがむっとした顔で舌打ちした。
けれど、甘い物しか食べないのは本当のようで、昨日もあのころんとした丸くて甘いものしか食べてない。あれがツバサのご飯なのだろう。
十分にお肉のサンドイッチとお肉のスープを堪能した後、色とりどりの果実のうちのひとつを口に入れると、その果汁が口の中に溢れて、うっかり口の端から零れた。
こんな瑞々しい果実は初めて食べた。森で食べたことのある果実はもっとぱさぱさしていて、味もこんなにしっかりしていなかった。
すかさずツバサに綺麗な布で拭かれ、「気をつけなさい」と少し呆れたような顔で言われる。気を付けよう。
今度は零さないよう注意しながら、オレンジジュースの色の果実を少し上を向いて口に含む。噛むとじゅわっと汁が口いっぱいに溢れる。さすがお貴族様の食べ物だ。天上の飲み物と同じ味。
「それがオレンジ。昨日のオレンジジュースはそれを搾ったものだよ。さっき食べたのがイチゴ、これがキウイで、これがリンゴだよ」
ランに言われるがまま次々と口に運ぶ。キウイはイチゴと同じ食感。口に中でむにっと潰れる。リンゴはしゃきしゃきとした堅い食感。噛めば噛むほど汁が出てくる。お肉みたいだ。
──んー。どれもこれも天上の味!
「シアは果物も好きなんだね」
ランの言う果物は果実のことだろう。
お肉と同じくらい好き。違う。やっぱりお肉の方が好きだ。お肉に勝るものはない。