第九話 アルとアクア
目の前で船を漕いでいる少女はアクアと名乗った。僕たちが正体を明かす前に彼女はベラを指さして、神の使徒、と短く言った。ベラが顔をしかめ、僕はアクアとは反対の船の端まで飛び退いた。ベラが少し低い声で、なぜ知ってると聞いた。
「遠くから見ちゃったんです。あなたの背中に翼が生えていたところ。私、神族について調べてるんです。だからもしかしてと思って」
そう言って彼女はウインクした。ベラは相変わらず無表情で、けれど半ば怒ったような声で言った。
「なぜ使徒の存在を知っている? 普通の人の手に入るようなものに、使徒のことは書かれてないはずだが?」
「私の産まれた島にはあったんですよ。使徒について詳しく書かれた本が」
僕は神族や使徒のことについては全く知らないから、その本僕も読みたい、なんて空気を読まないことを言ってしまった。案の定、ベラがあの瞳で僕を見てくる。瞳の奥に静かな怒りを感じて、僕はひっ! と縮み上がった。ベラは小さくため息をついて、またアクアの方を見た。あの瞳を見ながら、ヘラヘラと笑っていられるアクアの図太さには感心する。もしかしたら、まともに顔を見てないのかもしれない。
しばらくの沈黙のあと、ベラが口を開いた。
「昔ボクに、神族や使徒についてしつこく話を聞いてきた女がいた。たぶんその女が書いた本だと思うが……キミは幻獣族なのか?」
ベラがそう聞くと、アクアは少し驚いた顔をしてそうですよ、と答えた。そして漕いでいたオールから手を離したかと思うと、いきなり海に飛び込んだ。僕は慌てて海を覗くが、透き通った水色の彼女の髪は海の色と混じり、彼女の姿を見つけることはできない。しかしすぐに遠くからおーい、というアクアの声が聞こえてきた。僕らは声のした方を向く。船から少し離れたところでアクアが手を振っていた。
「きっと驚くから、見ててよ!」
そう言って彼女はまた水中に消えた。そして大きな魚が僕たちの乗っている船を飛び越えた。僕はすぐに、それが魚じゃないことに気付く。それは、浴衣のような服の下から魚のヒレを覗かせたアクアだった。