或る男の正義と性癖
sideA
横浜線、八王子駅発桜木町行きの各駅停車は通勤通学ラッシュで混み合っていた。
発車ベルが鳴り、私は走って車内に滑り込む。
大学生が音楽を聴きながら座っているのでその前へ移動する。洒落っ気の無い女子大生の服は所々油絵の具で汚れており、足元にはカルトンバッグが置いてある。恐らくあと三駅ほどで彼女は降車するだろう。
ちょうど三駅め、最寄りに美大のある寂れた駅で、予想通り彼女は降りて行った。
こうしていつも私は確実に座れるポジションを取る。
私は女子大生の体温が残る椅子に腰掛け、ハンドバックを足元に置いた。これもまた、いつも通りの行動だ。
ハンドバックには、床から斜め上を見上げるような角度で隠しカメラが仕込まれている。
私の性癖が誰かに理解されることは無いだろう。だが、そんじょそこらの盗撮魔とは違う、とだけは主張したい。私の趣味は人間観察だ。特に油断している人間の動作は面白い。普段なら人前では絶対に見せないような間抜けな顔や手癖、個性的な貧乏揺すりなど、人間の隠された一面を覗かせる。以前、最も親しい友にその魅力を力説したら「何が面白いのかわからない」と軽蔑された。しかし、稀にカメラに映る女子高生のパンチラには、私と同様の興味と興奮を示した。
今日もその趣味を嗜むべく朝から満員電車に乗り、気が済んだところで降りようと思う。
足元のカメラの映像は、リアルタイムでスマートフォンで見ることができる。両隣から覗かれないか心配だが、大抵座っている人間は寝ているので問題無い。朝だからみんな眠いのだろう。御勤めご苦労様です。
今日も隣は寝ている。スマートフォンを取り出し、念のため画面の明るさを一番暗く調節する。
正面に立っている若い女の姿が、画面に映し出される。大学生と思われるその女は短いスカートを履いており、床から見上げるアングルゆえにスカートの中の派手な色の卑猥な布切れまで見えてしまう。顔を見てみるとやはり股の緩そうなツラをしていた。そこまで美人ではないが、不細工でもないのでこういう阿婆擦れに引っ掛けられる愚かな相手は沢山いるだろう。
だが私は興奮ではなく違和感を覚え、その股座を再び直視した。
まるで風船を鷲掴みするように、男の手が大胆に尻を掴んでいる。
痴漢か。
初めてリアルの痴漢を見る。スマートフォンを通して見ているのでテレビで見る『Gメン』ものとあまり変わらないが、やはりどこか生々しい。
よく見ると女の顔も少し困っているようだ。股は緩くても見知らぬ男にタダで触られるのは快いものではないのだろう。
さて、どうしたものか。
私はこの瞬間、空を走る稲妻のように脳内に幾つもの選択肢が浮かんだ。
選択肢と、正義と、私の中の汚い部分が、脳内で、混沌と渦巻いた。
もし私がこの男の痴漢を指摘すれば、どうして女の正面に座っている私が、背後の痴漢の存在に気づくのかと怪訝の目で見られることだろう。そうすれば私は調べられ、バッグの中の隠しカメラが公となり社会的に抹殺されてしまう。
いや待て。私が指を指して「痴漢だ!」と叫べば、辺りの注目は全て目の前の女と痴漢男に集まるのではないだろうか。そうすれば私の死角の問題など有耶無耶になり、私は英雄となり彼女から感謝される…
感謝だけで私は満足するだろうか。
もし、この場では痴漢を見過ごし、後で男を強請ることができれば、かなり金を搾り取ることもできるのではないか。男は痴漢の後ろめたさから簡単に恐喝できるだろう。英雄として女から感謝されるよりよっぽどオイシイのではないか。
しかし痴漢は現行犯で無ければ簡単にしらばくれられてしまうことも考えておかなくてはならない。やはりリスクが高い。
最悪のパターンも考えられる。女も「そういう性癖」の持ち主だった場合だ。
痴漢されることで快感を味わう人間なら、私がそれを指摘しても「何のことですか?」と二人して白を切ることだろう。そしたら私は恥をかき、 本当に最悪の場合、痴漢男に目をつけられハンドバックの中の隠しカメラも見つかってしまうのではないか。そしたら逆に私が搾り取られてしまう。
女は困った顔をしているが、そういうことをされている自分に酔っているだけかもしれない。そういう変態である可能性も捨てきれない。
どうしよう。何も言わないで見過ごそうか。そうすれば私は何も失わない。何も得ることもないが…
やがて私の頭の中で、ひとつの答えが閃いた。
「おねえちゃん、つらそうな顔してるけど、大丈夫?」
大きめの声で話しかけてみる。
初めからこうしていればよかったのだ。
私は小学一年生なのだ。中身はオッサンと変わらないが、世間から見れば可愛い男の子だ。最初からこうして話しかけていれば何の問題も起こらない。簡単に解決する問題だった。
「ありがとう…この人痴漢ですっ!」
女はくるりと振り返ると男の手を力強く掴んだ。
そのときの男の間抜けな顔を見て、私は笑う。
sideB
満員電車、なんて素敵な響きだろう。
若い女たちと押し合いへし合い、体全身が密着してもそれは不可抗力なのだ。特にこの時間帯は高校生、大学生が多く、近くに美術系の大学があることから女子の数が圧倒的に多い。今年二十八を迎えたオッサンになりかけの俺でも、合法的に女の子に近づける。この通勤時間が、俺の退屈な日常の唯一の癒しだ。こんな性癖、絶対誰にも言えない。
発車ベルが鳴り、閉まりかけたドアに小学生が駆け込んで来る。バカなガキめ。お前のような奴がいるから横浜線は遅延が頻発するんだ。
人々を詰め込んだ電車は気怠そうにゆっくりと動き出す。
車内には人々の香水と体臭を混ぜたような匂いが充満し、むっとしていた。酸素が減り二酸化炭素が溜まっていくのを感じる。
次の駅に停車しても、全然人が降りる気配は無い。小さな駅だから仕方がない。
みなみ野で大量の高校生が降りて行き、相原で何人か大学生が降りて行った。やっと人と人との間に少し空間ができた。密着するのが癒しとは言っても、ずっとだとさすがに疲れてしまう。
俺は少し名残惜しく思いながら、今まで密着していた女から離れた。髪から香った甘いシャンプーの匂いが、見えない顔への妄想を誘った。
ふと、離れて見て気づいたがこの女、肩に掛けたカバンから財布が飛び出ているではないか。こんな満員電車の中、簡単に掏られてしまいそうだ。
辺りを見回すと、冴えない美大生風の男がノートに何かを書くフリをして女をチラチラと見ている。
見るからに怪しい。コイツ、財布を掏る気だな。なんとかしてやめさせなければ。
しかしまだ彼が本当に掏摸をするとは限らないし、未遂では指摘のしようがない。
この女に財布が飛び出ていることを教えてやろう。それがいい。さりげなく彼女にボディータッチをしつつ恩を売るという完璧な一石二鳥だ。いや、一石三鳥だ。
俺は彼女の肩に触れようと、手を上げようとしたところでガタンと電車が揺れた。
おっと。何にも捕まってなかった俺はバランスを崩す。危ない、転んでしまう。
俺は咄嗟に何かを掴んだ。それは丸くて柔らかくて、気持ちの良いボールのような感覚だった。
これはなんだろう。
恐る恐る自分の手が掴んだものを見ると、それは前に立つ女のケツだった。
その刹那、俺の中に渦巻いたのは激しい性的興奮と、犯罪を犯したという底知れぬ恐怖。欲求満足と社会的な死。天国と地獄のカオス。
それらの全てが俺の中で爆発し、彼女のケツから手が離れない。頭では早く手を離せと命令しているのだが、体が言うことを聞いてくれない。手が震えている。手だけでは無い。体全身が震えていた。
これではまるで、本当に、俺はただの痴漢みたいではないか!
「おねえちゃん、つらそうな顔してるけど、大丈夫?」
幼い声。でもやたらとでかい声量。
「ありがとう…この人痴漢ですっ!」
世界の終わり。
sideC
美大なんて入るんじゃなかった。
もうすぐ講評があるのにまだ作品ができていない。
僕は本当に絵を描くのが好きなのだろうか。そもそも絵を描くことに何の意味があるのだろう。友達にそれを言えば、お前が生きていることだって何の意味があるのかわからないだろうと言われる。意味ばかり求めてつまらない人間だと思われるのは嫌だ。
もう入る隙間なんて無いのに次々と車内に詰め込む人々。リュックを頑なに下ろさない無頓着な学生は、まるでこの世の全てがそこに詰まっているかのようにスマホに齧り付く。
学校に行きたくない。帰りたい。電車よ、発車しないでくれ。
願いも虚しく、桜木町行きはゆっくりと動き出した。
描きたいものは、ある。ただ、技術がそれに伴わない。やはり基礎的な画力を上げなくてはリアリティのある絵は描けない。
僕が描きたいのは、人間の不幸。
人は本当の不幸に直面したとき、絶望の淵に立たされたような苦悶の表情を浮かべる。僕は昔からその表情を見ると得も言われぬ快感を覚えるのだった。性格が悪いことなんてわかっている。自分でも自分の性癖に嫌気が差す。
でも人生において己の道を貫き通すことこそ正しい道義なのではないか。人助けだけが正義ではない。僕には人の不幸を描きたいという強い思いがある。
ならばそれを貫き通すことが、僕の正義なんだ。
だけど、他人の不幸など生きていてなかなか遭遇することはない。リアルな絵を描くためには肌身でその不幸を感じる必要がある。
つまり今日学校に行ってもロクなものは描けない。だから今日はサボって、このまま人物クロッキーをしていたほうがよほど有意義ではないか。うん、そうしよう。ついでに町田の世界堂にでも寄ろう。
大学の最寄り駅を通過し、僕はスケッチブックとボールペンを取り出した。
目の前の女性を速写する。
このまま町田駅に着くまでに絵の題材が見つかるだろうか。いつも通りのこの電車内で、誰かに不幸が訪れる可能性は低そうだ。
そう思った刹那。
「おねえちゃん、つらそうな顔してるけど、大丈夫?」
「ありがとう…この人痴漢ですっ!」
奇跡が起きた。
痴漢魔の絶望を、感じたままにペンを走らせる。
なんだか、良い絵が描けそうな気がした。