姉妹
その町へは、まだ夜が明けない内に出発し、近隣の大都市までは新幹線で、そこから鈍行を何本か乗り継いで、太陽が最も高く昇った頃にようやく辿り着いた。
駅前の繁華街だというのに、建物に屋根は低く、その分だけ空が高い。まるで山の中にいるかのように蝉がわんさか鳴いていた。道行く人々は、年配の方が多く、皆、急がず騒がず、ゆっくりとした時間の中で過ごしているかのようだった。
そんな中、人目を惹くような可憐な少女が、こちらに向かって手を振っていた。少女は真夏だというのに、上下ともに黒で統一しており、それが彼女の雰囲気を本来の年齢よりもずっと大人びて見せていた。思わず「お母さん」と呼んでしまいそうになるのをぐっと堪え、私は少女に駆け寄った。
「駅から出てきたときに、すぐに夏実さんだって分かりました。やっぱり都会に住んでいる人は違います。格好良いです」
そんなことを平然と言ってのける幼い少女に、私は思わず笑みが漏れる。
「こんな全身真っ黒な服を着ている人なんて、私と秋葉ちゃん以外にいないでしょ。それに、秋葉ちゃんこそ可愛いじゃない。私の住んでいる街に来れば、きっと皆があなたを見るわ」
「そんな、私なんて全然」
そう言って照れる秋葉の声は、やはり「彼女」のそれとそっくりだった。だが、昨日電話で話したときとは、また微妙なずれを感じてしまうことも事実だった。
私がじっとその顔を覗きこんでいると、秋葉も同じように私の顔を見つめ返してきた。そして不意にその笑顔を曇らせる。
「あの、夏実さん。もしかして、どこか御身体の具合が優れないのではありませんか? もしよろしければ、どこか涼しい場所で一休みなさってはいかがでしょうか」
「ううん、大丈夫。ただ最近、ショックなことが続いて寝不足気味なだけだから」
秋葉に図星を突かれ、反射的に思ったことを口に出してしまった。
秋葉はますます顔を曇らせて、今にも泣きだしてしまいそうだった。私は自分の失言に気付き、「秋葉ちゃんが気を遣うようなことじゃないよ。ただ男に振られたとか、その程度のことだから」と、最もショックの軽い事例を挙げて、落ち着かせるように秋葉の肩をに触れた。
「それじゃあ、早速、お母さんの所に案内してもらおうかしら」
そう言って先を促すと、秋葉はようやく顔を上げた。そして、待たせてあった黒塗りのタクシーに二人して乗り込んだ。
目的地に着くまでの車中で、私たちは互いの境遇には一切触れず、住んでいる土地の様子や学校のことなど、他愛のない話題に花を咲かせた。
タクシーは駅の裏手にある山の方へと向かっていった。狭くて急な坂道を、どうにか対向車に出遭うことなく上っていくと、ようやく少し開けた場所に出た。
「ここからは歩きになります」
タクシーから降りると、秋葉に案内されて、人ひとりがやっと通れるくらいのわき道に入った。その先を見上げると、複雑に曲がりくねった石畳の坂道が続いていた。
「あの、夏実さん。本当に大丈夫ですか?」
秋葉は、再度私の体調を気遣ってくれた。自分だって辛い思いをしたはずなのに、本当に優しい子だ。こんな素直な子を生み、育てたお母さんに、私は一刻も早く会いたかった。
「このくらいの坂道、運動不足の体には丁度いい刺激だよ」
私はそんな冗談を言いながら、秋葉に先導をお願いした。
坂道を上り始めると、一分も経たない内に、秋葉の首筋から汗が流れ落ちる様子が見えた。私の方はといえば、息は上がるもののどこか肌寒さを感じており、自らの体調が確かに限界に近付きつつあるのを静かな気持ちで感じていた。
視線を下げて歩くと、大量のミミズたちが灼熱の石畳に焼かれ、焦げ付いているのが目についた。おそらく私たちの向かっている先が天国への入り口だとすれば、ここが地獄の一丁目というやつなのだろう。
坂の向こうを見上げると、雲一つない青空が広がっていた。
そして、私はついにその場所へと辿り着いた。
この世に生を受けてから、二十年間求め続けた人のすぐそばに。
「お母さん」
私は自分が発した言葉の美しさに、トクンと胸が高鳴るのを感じた。
「夏実さん、どうぞ」
そう言って、秋葉が火の付いた線香を私に持たせてくれた。写真で見た母の面影を完璧に備えた少女だ。私とは違い、秋葉は何もかもが母親似だったに違いない。その容姿も、そしてその声も。
私は、今は亡き母の墓前に手を合わせた。
私の母、春枝は既に他界していた。秋葉は詳しくは語ってくれなかったが、母は自らの手で命を絶ったという。
その話を聞いたとき、私は本当に目の前が真っ暗になった。幼い頃から、私にとって母とは決して手の届かない憧れの存在だったのだ。写真で見る母は美しく、とても幸せそうに笑っていた。だから、私は自分の目の前にいない母が、どこかで幸せに生きているに違いないと信じて生きてきたのだ。
森村への恨み節を父から聞かされても、父への反発心もあって、私はますますその思いを強くした。その母の人生が自ら死を選ばなければならないほどの苦悩に満ちていたなんて、私には信じられなかった。母の墓前を目の前にした今も、私の胸は切なさで張り裂けそうなくらいだった。
だが、四十九日を明けたという母の命日を秋葉から聞かされたとき、私はある可能性に辿り着き、不謹慎にも興奮を覚えずにはいられなかったこともまた事実だ。
そう、母が亡くなったその日、私は「彼女」と出会ったのだ。そして、母の面影を色濃く残す秋葉の声が「彼女」のそれと酷似しているという事実からも、私は「彼女」の正体は母その人だったのではないかと結論付けた。そして、その思いは、ここにきて一層強くなっていた。
「私は母にとって望まない子だったのでしょうか?」
出し抜けに秋葉がそんなことを言ったものだから、私は吃驚してしまった。そこにどういう思いが込められているのかは分からないが、母の墓前でする話ではないだろう。しかし、秋葉は真っ直ぐな視線を母の墓に向けたまま微動だにしない。その問い掛けは、私にではなく、母に対して向けられたものだった。
それでも私は、秋葉の言葉を聞き捨てるわけにはいかなかった。そこには年上の、姉としての意地があり、また母を知らずに育った娘としての僻みもあった。
「そんなことはない。絶対にないよ。秋葉ちゃん、あなたのことを見ていれば分かる。お母さんは、あなたを可愛がって育ててくれたのでしょう。そうでなければ、秋葉ちゃんのような優しくて思いやりのある子には育たないよ」
それは、嘘偽りのない私の思いだった。秋葉は、会ったこともない私のために、お母さんの死を報せてくれた。そこにはいろんな葛藤もあったのだろう。そして、実際に出会ってからも、私の体調を気遣ってくれたり、他愛のない話をして楽しい時間を過ごさせてくれたりもした。
母にとって、それがたとえ望まない結婚だったとしても、生まれた子供に罪はないはずだ。そして、秋葉自身もその答えを欲しているのだと私は思っていた。だが、秋葉は私の予想に反して、さらに思わぬ激昂をみせたのだった。
「そんなの、どうして夏実さんに分かるんですか。夏実さんはお母さんじゃない。あなただって、お母さんに見捨てられた私と同じ子供じゃないですか。でもね、夏実さん。安心してください。母は生前、あなたの話を私にしてくれました。母は、あなたのことを語るとき、本当に幸せそうな顔をしていましたよ。もしも自分が死んで生まれ変わったのならば、あなたの娘になりたいとまで言っていました。そう、母が自殺する前日のことです。きっと母は、これ以上、自分を偽ったまま生きていくのが辛くなったのでしょう。ショックでしたよ。私にとっては、普通の仲の良い父と母だったんです。それなのに、あんな秘密を抱えていたなんて。――遺品の日記にもあなたへの思いがたくさん綴られていました。どうやって調べたのか、あなたの現住所や電話番号までメモしてありました。分かりますか、母はあなたを愛していたのです。私ではなく、あなただけを」
「それは違う。秋葉ちゃん、あなたはきっとお母さんを誤解しているよ。お母さんは、あなたを愛していたからこそ、本当のことを知ってほしいと思ったの。あなただって、私と同じお母さんの子供でしょ。どっちがとかじゃなくて、お母さんはきっとあなたのことも私のことも愛してくれていた。このままじゃあ、お母さんが可哀想。だから、お願い。私の言うことをよく聞いて――」
しかし、私はそれ以上言葉を続けることはできなかった。秋葉の心に届くようにと声を張り上げた瞬間に、急な眩暈に襲われたのだ。片膝をついて、何とか倒れずに済んだものの、今度は例の眠気がやってきた。私は駆け寄ってきてくれた秋葉の腕の中で、無責任なほど安らかに意識を失いつつあった。
沈みゆく意識の中で、私は泣き叫ぶ秋葉の姿を見た。しかし、耳に届くのは、とても穏やかで、優しくて、凛と響く美しい声だった。
ありがとう、夏実――と。