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電話

 彼女の声が聞こえなくなって一週間が過ぎた。


 私の生活は、夏休みのはじめの頃と殆ど同じ状態に戻っていた。生活習慣として身についている家事労働にあてる時間を除けば、後は自室に引きこもり、何をするでもなくベッドの上で一日を過ごす。

 体調は優れない。何だかとても疲れやすく、掃除や洗濯の途中で急な眠気に襲われることもしばしばあった。また、例の嘔吐感も治まることなく断続的にやってくるので、自然と食欲も減退し、ついには炊事をするのも辛くなっていた。

 仕事に出ている父には悪いが、食事は外で済ませるか、コンビニでお弁当でも買って食べておいてと言付ける。父は何も言わなかった。いつもどおりだった。


 夜、明かりも点けずに部屋にいると、初めて彼女が私に話し掛けてきたときのことが思い出され、私はどうしても期待してしまう。あのときは、例の男に捨てられた直後で、今となっては馬鹿馬鹿しいことだが、私はかなり落ち込んでいた。

 大学の友達にも携帯電話で話を聞いてもらったりもしたが、気分は一向に晴れなかった。それどころか、ますます暗くなっていく一方だった。私はきっと携帯電話などではなく、誰かにそばにいてほしかったのだと思う。ただ、その友達も彼氏持ちだし、アルバイトが忙しいしで、あまり無理できなかったのだ。

 

 私は抜け殻のようだった。もはや何が悲しいのかも分からず、涙も乾いて、暗い部屋の中で、ただ携帯電話を握り締めていた。


 そうして一時間も経っただろうか、いや実際には五分も経っていなかったのかもしれない。時間の感覚が狂っていた。私は急にイライラして、それまでしっかりと握りしめていた、鳴らない携帯電話を壁に向かって投げつけた。携帯電話は断末魔の叫びを上げるように、短く電子音を鳴らした。


 暗闇はさらに深みを増して、私の胸の内をも黒く塗り潰してしまうかのようだった。


 そんなときだ。目の前で白いレースのカーテンが舞い上がったと思ったら、どこからともなく優しく凛とした美しい声が聞こえてきた。

 はじめのうちは、それが何を言っているのか全く理解できなかった。女性なのか男性なのかも分からない。まだ何も言葉を知らない赤ん坊が、それでもしっかりとした意志を持って、母親に話し掛けているかのような感じだった。


 だから、私も無駄だと知りながらも、気休め程度にはなるかもしれないと思い、その声の主に向かって自分の気持ちを吐き出してみた。

 すると、どうだろう。それまで全く整理できていなかった自分の思考や想いが次々と言葉になって湧き出てくるではないか。そして、私が語り終えると、それは確かにこう言った。


「辛かったよね」


 それが彼女と私の出会いだった。それから、彼女は時に私を励まし、時に辛辣な批判を浴びせ、私を外の世界へと導いてくれた。向日葵と太陽が咲き誇る真夏の風景の中に私たちはいた。


 彼女は確かにそこに存在していた。


 街中であの二人に出会うまでは。


 あのとき、二人は彼女の存在を否定した。全ては私の妄想だと決め付けていた。でも、私は確かに彼女の存在を感じ取っていた。それは言葉だけのやり取りではない。精神的なやり取りだけではなく、この肉体のどこかで、彼女との繋がりを何度も感じる場面が確かにあった。それはいつ、どんな場面だったのか。


 蝉の鳴き声が記憶の隅に蘇る。その前に、彼女は私の体のどこかを突かなかっただろうか。

 人に見せるためのものじゃない笑顔。それは体のどこを動かす笑い方だっただろうか。

 

 考えろ。思い出せ。そうすれば、きっと彼女の正体が分かるはず。それが分かれば、彼女は私の妄想なんかじゃないって証明できる。

 

 そのとき、不意に居間の方から固定電話のベルがけたたましく鳴り響き、私はビクッと体を震わせた。時計の針は夜の十時を回っていた。どうせ父からの仕事が遅くなるという連絡だろう。父は時々こういうことをする。私の携帯電話が壊れる以前にも、私が夜遅くに出歩いていないかを確認するために、わざわざ固定電話の方を鳴らすのだ。


「はい、花崎です」


 父だと思っていても一応形式的に名乗ると、これが意外な反応を生んだ。 受話器の向こう側でハッと息を呑む音がしたかと思うと、相手は急に言葉を失ってしまったかのように黙り込んでしまったのだ。


 どうやら父ではないらしい。イタズラ電話かもしれない。だったら、名乗ったのはまずかったかな。不愉快な質問なんかをされる前に、さっさと切ってしまった方が良いだろう。


 そう思って、受話器から耳を離そうとした。


 まさに、その瞬間だった。

 受話器の向こう側から、聞き覚えのある声が響いてきた。

 

 そんなまさかと、私は受話器を力いっぱい耳元に押し当てた。そこから流れてくる声はどこか震えていた。緊張を抑えるかのように、一言一言丁寧に言葉を紡ぐ。そんな調子は似合わない。でも、その美しく澄んだ声は間違いない。

 

 彼女だ。彼女の声だ。


 しかし、私が興奮して喜ぶのも束の間、電話の向こうで彼女の声はこう言ったのだ。


「あの、はじめまして」と。

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