日傘
女は私から目を背けると、男に向かって早口で捲くし立てた。
「あなたも声を掛ける前に見てたでしょ? 一人で歩いているのに、まるで隣に誰か友達でもいるかのように、楽しそうに独り言を呟くこの子の姿を。気持ち悪いったらありゃしない。だから、アタシは取り合わないでおこうって言ったのに、これからも声を掛けようだなんてあり得ない」
その言葉の内容ゆえか、女自身の迫力ゆえか、男は苦い表情を浮かべていた。しかし、すぐにいつもの軽薄な笑顔を取り戻すと、女と私の顔を交互に見ながら、こう言った。
「まあまあ、ちょっと落ち着けよ。夏実はおかしくなんてないさ。きっと罰ゲームか何かの最中なんだ。夏実、そうだよな?」
女をというよりも、私の方を宥めるかのような言い方だった。
「だから、何でそんなに親しげにするのよ」
女がブツクサと呟いた。
二人が何を言っているのかは、私には良く分かっていた。つまり、この二人には彼女の存在が認識できないのだ。だから、私が彼女と話しているのを見て、頭がおかしくなったと思っている。とはいっても、二人とも、まだそこまで本気で疑っているというわけではないようだ。あるいは、責任でも感じてしまって、信じたくないだけなのかもしれない。いずれにせよ、彼らは案外人が良い。
それは、私だって彼女の姿をこの目で見たわけではない。彼女の名前すら知らない。でも、私は多少なりとも私のことを気遣ってくれている二人に対し、いまハッキリとこう告げよう。
「彼女は確かにここにいる!」
その瞬間、さっきから断続的に続いていた嘔吐感がついに最高潮に達した。もう我慢できない。辺りを見渡し、車道と歩道を隔てる植え込みの側に「街をキレイに」と書かれたくずかごを発見し、一目散に駈け出した。途中、白い日傘を差したおばさんを突き飛ばしてしまったが、一言謝るだけの余裕もなかった。私は円筒状のくずかごの縁に両手をついた。腐ったような臭いが鼻をかすめ、こちらも遠慮なくぶちまけた。
私は息も絶え絶えに、自分の吐き出したものを眺めながら、こんなのまだマシだと思った。さっきから嫌でも耳に入ってくる汚物に比べれば、私の出したものなんて、まだキレイな方である。
「ちょっと、あなた大丈夫?」
本当にうるさいなあと思いながら顔を上げると、そこには私の顔を心配そうに見つめる妙齢の女性の姿があった。手にした白い日傘から、さっき私が突き飛ばしてしまったおばさんだと分かった。なんて良い人なのだろう。なのに、どうしてその声は、私の耳をこんなにも不快にさせるのだろうか。
「いえ、ありがとうございます。もう、だいぶ良くなりましたから」
全然良くなかったが、これ以上、耳元でうるさくされては堪らないと思い、私は咄嗟にそう答えた。すると、おばさんは「そう?」ともう一度確認するように私の顔を覗き込むと、「今日は暑いから、くれぐれも身体に気を付けてね」とまで付け加えた。
「あなた一人の体ではないのだから、あまり無理をしてはダメよ」
何のことだか分からない。けれど、ようやくおばさんは立ち去ってくれた。私は、おばさんに、突き飛ばしてしまったことを謝りもしなかった自分の態度を顧み恥ずかしくなった。その一方で、ほっとした気分にもなっていた。
振り返ると、そこにあの二人はいなかった。いよいよ私がおかしくなってしまったのだと思ったのだろうか。多分、この先あの二人と出会うことは一生ないだろう。
そして、「彼女」と出会うこともない。私は太陽を失った向日葵のように、ゆらゆらと体を揺すりながら、ひとりで歩き出した。
おかしくなったのは私ではない。この世界だ。どうして聞こえてくる音は、全てがこんなにも汚らわしいものばかりなのか。彼女の声だけが美しかった。彼女の声だけが正しかった。彼女の声だけが真実だった。
気が付けば、私は涙を流していた。人目もはばからずに咽び泣いた。
自分の声に酷いコンプレックスを抱いていたはずなのに、そのとき漏らした嗚咽は、私の耳に決して不快な感じを与えなかった。
ただ、美しかった。