崩壊
「ちょっとお、タケシい」
また一つ不快な音が増えたと思ったら、どこか見覚えのある女が、男の腕に絡みつき、自分の縄張りを主張する猫のような視線を私に投げ掛けてきた。
誰かと思えば、前に会ったときとは態度が随分違うから、すぐには気が付かなかったが、カラオケで私をフォローしてくれて、彼と絶妙な掛け合いを見せた彼の友達、今では恋人のあの女だ。
だからといって、今さら彼女に対して何の恨みもない。
ただ、お願いだから、その警戒心を露わにした目で私を見るのは止めてくれないだろうか。
こちらは一刻も早くアナタたちと別れたいのだし、そもそも呼び止めたのは、あなたの隣にいる男だ。文句があるなら、その男に言ってほしい。ただし、私が立ち去った後でだ。これ以上、世界が汚れた音で満ちてくると、流石に耳が腐って落ちてしまうだろう。きっと彼女もそう思っているに違いない。
ねえ、私は早くあなたの声が聞きたいの。
やがて女は、凡そ私の希望に叶う形で男に抗議した。私に向けていた視線を、そのまま男の顔に移すと、何も言わず、男の腕に絡めた自らの両腕にぐっと力を入れたようだ。すると、男の体は操り人形みたいにクッと女の方へと引き寄せられる。
そのままどこかへ行ってしまえば完璧だったのに、どうやら女は自分では何も言わないが、男に何かを言わせようとしているらしい。厄介な性格だ。本当に迷惑だ。
男の方も困ったように顔を引き攣らせ、私に対して愛想笑いを寄越してきた。何のつもりだと思っていると、男は臆面もなくこう言った。
「別れたからって、急に他人ぶるのは嫌なんだ。見掛けたら、声を掛けるくらいしたって良いだろう。友達として」
私は思わずぷっと吹き出してしまいそうになる。だが、笑いと一緒に例の嘔吐感も口内にまでせり上がってきたため、何とか口を押さえて堪えた。
本当に愉快で不快な男だ。
その隣では、見る見るうちに怒りで赤くなっていく女の顔が見て取れた。共感するわけではないが、その気持ちは良く分かる。オンナという生き物は、総じて疑い深いものである。いや、疑うことが好き。疑うことが生き甲斐であると言っても良いだろう。男のどんなに些細な言動も、すぐに浮気な情と結び付けたがる。だかといって、別に疑心暗鬼なわけではない。ただ、そうすることで、自分の平凡で退屈な恋愛にメリハリが生まれることを知っている。
逆にオトコという生き物は、そういう愉しみ方を知らないようだ。常に自分は正しいのだと、正直者であるのだと、大真面目に考えている。そういう意味では、目の前の男のさっきの発言は、猫に毛糸玉を与えるような行為に近かった。女は明らかに興奮し、そして高揚していた。
「バッカじゃないの」
女は声を張り上げて喚き散らした。不快だから止めてほしい。通行人たちがギョッとした表情で振り返るも、女は全くお構いなしに男に向かって口やかましく小言を浴びせ続けていた。
それに対して、男はいちいち真面目に反論をする。完全に二人の世界に入っており、私のことなんてまるで見えていない。立ち去るには絶好の機会だ。
もはや頭痛も激しい嘔吐感もない。世に溢れる数多の音、女の金切り声に対してさえ、不快だとも何とも感じない。ようやく、私は解放されたのだ。
さあ、行こう。
私は怯える子供にそっと手を差し伸べるような気持ちで彼女に語りかけた。彼女は今度こそ応えてくれるだろう。また、あの美しい声を聞かせてくれる。私たちは、私たちの存在を脅かす全てのものたちと永遠にオサラバする。
そのはずだった。
「だいたい、この女――」
突然、眼前に女の白い指先が現れた。
気が付くと、ガチガチガチガチ、世界は再び不快な音で満たされていた。いや、違う。その音は、主に私自身から発せられていた。つまり、私は震えていた。この炎天下、歯をガチガチと鳴らしながら。
それは、さっきまでとは比べものにならない恐怖だった。女の白い指先は、漆黒の銃口と同じ意味を持っていた。その引き金は、男が女を誘惑するときに使う殺し文句などよりもはるかに軽いことだろう。
女と視線がぶつかった。その瞬間、私たちはお互いに、この先も決して分かり合えないだろうということを悟った。
私はもう一度だけ、彼女の声が聞きたいと強く願った。
世界は不快な音で満ちている。
女が叫んだ。
「この女、さっきからブツブツ独り言ばっかりで、絶対頭がおかしいよ」