不快
バスで繁華街までやってきた私たちは、とにかくあちこちのお店を回ってウィンドウショッピングを愉しんだ。愛を探しにだの何だのってのは、あくまでも彼女が私を外に連れ出すための口実に過ぎない。私たちはとにかく、話のネタが尽きないようにと歩き回った。
そうして二時間も経っただろうか。そろそろ疲れてきたから帰ろうかと、私たちは近くのバス停を目指して、相変わらずのお喋りを続けながら歩いていた。
だが、その不幸は突然にやってきた。
「あれ、夏実じゃね?」
不躾に私の名を呼ぶ声があった。
なんて下品な声だ。こんな下卑た声で名前を呼ばれるなんて、それだけで暴力を振るわれたような圧力を受ける。それに、何といっても、私と彼女の会話に割って入ってきたのだから不快極まりない。気が付かない振りをして、やり過ごそうか。
だが、何故だろう。不快な感情が徐々に不吉な予感へと変化していくような奇妙な感覚に、私は歩みを止めてしまっていた。
しまったと思った。
そうすることで、さらに不安が増大していくならば、やはり私は歩いて立ち去るべきだったのだ。
まだ間に合うだろうか。このまま何事もなかったかのように、再び右足で一歩前へと踏み出したなら――いや、それだけではダメだ。そのオトコは、無視されたことに腹を立て、私を無理やり振り向かせようと、野獣のような手を伸ばしてくるに違いない。だから、私は走り出そう。汗をかいても構わない。百メートルでも二百メートルでも遠く、遠くへ。そう、どうせなら一気に人気のないところまで行ってしまおう。
そもそもこんな街中まで出てきてしまったことが間違いだ。いや、それを言ったら、部屋を出たことがすでに大間違いだ。私は心安らかにして、ただ彼女とだけ会っていれば良かったのだ。向日葵と太陽のような関係で、二人で生きていけば幸せだったのだ。
でも、私に外へ出るように言ったのは誰だ。向日葵のゆらゆら揺れる姿に怯えたのは誰だ。
考えるな、今は考えるときではない。とにかく、今すぐここから逃げ出すことだけに集中しろ。私を呼び止めたのは、あの男に違いない。私を棄てたあの男だ。
彼女もすっかり怯えてしまって、さっきから一言も喋れなくなってしまっているではいか。ごめんなさい、私はその下品な男にアナタを紹介するつもりはないの。それよりも、少しだけ走るけど、良いかしら。
返事はない。でも、大丈夫。私と彼女は通じ合っているはずだから。落ち着け、私。まだ、間に合う。まだ、間に合うはずだから。
人波は道の真ん中で立ち止まっている私たちを避けるように割れていた。行く手を遮る邪魔者は誰もいない。
三、二、一。
フッと体を前のめりにし、地面を蹴り出す。
その瞬間、不意に世界からすべての音が失われた。まるで時が止まったかのような一瞬だった。
すぐ耳元で、ポンと肩を叩く不快な物音を聞いたかと思うと、脳の皺の一つひとつを駆け巡るように音の濁流が渦巻いた。人々の話し声、足音、車の駆動音、クラクション、恵まれない子供たちのために御協力をお願いしますと怒鳴る声、笑い声、雑貨屋の店先に吊るされた風鈴のおと、イヤホンから漏れる歌姫の曲、とおりゃんせ、心臓の鼓動、不快、不快、どれも不快。
時が止まったなんて随分な夢を見てしまったものだ。実際に止まっていたのは私の方。私だけ。一歩も前に進めていない。
不安の正体は分かっている。不快の正体も分かっている。右肩に当てられた手のひらの湿っぽさを、私の体は覚えている。だが、かつてその手に感じていたはずの感情の高ぶりは微塵もない。ただ胃袋から吐き気がこみ上げてくるだけだ。
私にとって、この男は、もはやその程度の価値しかない。ただ、この男が、何か暗くて巨大な影を運んできたということは確からしい。
「待てよ、夏実」
一層不快極まる声と共に、肩を乱暴に引っ張られる。悲鳴の一つでも上げてやろうかと思ったが、こみ上げてくる嘔吐感を堪えるのに精一杯で、ただ口をもごもごと動かすことしかできなかった。ならばと、ありったけの嫌悪を込めて睨みつけてやる。だが、そうすることで、男はようやく自分が認識されたということに満足感を覚えたのか、掴んでいた私の肩を解放し、そのままその手を挙げて「久し振り」と異様に穏やかな調子で言った。
薄気味悪いことこのうえない。
思わず目を背けると、肌を露わにした肩にほんのり紅く男の手形が浮かんでいるのが見え、この炎天下にもかかわらず、いよいよ肌があわ立つ思いがした。
ねえ、助けてよ。
しかし、彼女はやはり何も答えてはくれなかった。そうだ、彼女は結構人見知りをする子なのだ。だから、私は一刻も早くこの場を離れたい。二人きりになれば、彼女はまたあの美しい声で私に語りかけてくれる。楽しい時間が、またきっとくる。
だが、そんな私の願いを嘲笑うかのように、世界はガチャガチャと不快な音を撒き散らしている。普段は気にも留めないはずの他人の話し声や物音が何故こんなにも不快に感じられるのだろうか。分からない。分からないが、きっかけを作ったのは、この男だ。
私の思考は、男に対する憎しみで満たされていく。どうにかして、この男を消せないものか。それは死などという単純で短絡的なものなどではなく、この男がこの世に生を受けたという動かしようのない事実の消滅にまで達する。
存在してはならないのは、この男の方だ。
なんてね。どんなに本気で呪ったところで、実際にどうなるわけでもない。ただの自己満足に過ぎない。
さて、もういい加減に面倒だし、適当に愛想良く振舞って、サッサとこの場を立ち去ろう。どうにか落ち着きを取り戻した私は、ようやくそんな現実的な考えに至った。
だが、そこに新たな邪魔者が現れた。