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 ジジジ、ジジ、ジーと蝉が鳴く。

 ジジジ、ジジ、ジーと夏の日差しが肌を焼く。

 信号機がチカチカと点滅を繰り返すけれど、走って渡る気力もない。

 一斉に動き出した車の群れが、ガソリンの臭気を含んだ熱い空気を捲き上げて、春先から伸ばし始めた私の髪をなびかせてくれた。


 ねえ、暑いんだけど。


 私の声は、蝉とガソリンと夏の日差しの中では溶けて消えてしまいそうなくらい、か細く低く、文章にすれば、きっとカギ括弧を付けるにも及ばない。

 それに対して、彼女の声は、高原に吹く一陣の風のように凛としてよく通る。

「カーテンを閉め切った部屋で、扇風機を回しながら、塞ぎ込んでいるよりは、健康的でしょ」

 というふうに。

 性格が違うと声も違ってくるんだろうなと私は妙に感心した。私ももっと明るく前向きな性格だったなら、きっと可愛い声で甘えて、彼を引きとめることも出来たのかもしれない。


 そういえばいつだったか、彼と彼の友人たちと一緒にカラオケに行ったとき、彼は私の頭を手で押さえつけるように撫でながら、「こいつは歌が下手糞だ。そのくせ死んでもマイクを放さない」と私を紹介したことがあった。すると、ある女の子が「死んでもマイクを放さないなら、ニュースキャスターとかに向いてそうだね」と私を優しくフォローしてくれた。ところが、彼はその言葉を待っていましたとばかりに、「いや、だから声が悪いから無理なんだって」

 あはははは――という具合に、おかげで私はすぐに彼らと打ち解けることができたのだけど、今になって考えてみれば、普通は冗談でも自分の彼女を笑い物にするだろうか。もしかしたら、彼は本気で私の声を嫌っていたのかもしれない。あのとき私をフォローすると見せかけて、彼と息の合った掛け合いを見せたあの女、何を隠そう彼女こそが彼と私を破局に導いた直接の原因なのだけど、二人はあのときすでに出来ていたんじゃないだろうか――。


 つんつんつん、と不意にお腹を突かれ、蝉の鳴き声が耳元に甦る。

「こら、また一人でつまらないことを考えていたでしょう」

 蝉の鳴き声に紛れていても、彼女の声は相変わらず耳心地が良い。

「私、そういうことには敏感なんだから。あなたが何を考えているかなんて、全部お見通しなんだから」

 しかし、言うことは偉そうでカチンとくる。そこまでハッキリと言われると、ちょっぴり反発してみたくなる。


 ええ、ええ、そうでしょうとも。私がどんなに騒がしい所にいても、あなたの声を決して聞き洩らすことがないように、あなたは私のほんのちょっとした心の動きも見逃さないことでしょうよ。


 私は皮肉のつもりで、そう心の中で思ってみた。彼女は黙して何も語らなかった。しかし、その沈黙は、私の意図が伝わらなかったことによるものなのか、それとも伝わってへそを曲げてしまったことによるものなのか。私には分からない。何だか不公平だ。


 ジジジ、ジジ、ジー。さすがに日差しが肌に痛い。私は色白で貧相なボディーの街路樹がつくる小さな木陰に一時身を寄せることにした。すると、すぐに真上から、ジジジ、ジジ、ジー。せっかく日の光を避けたというのに、これでは耳に汗をかいてしまう。


 顔を上げて、鳴き声の主を探す。それは、よく見かける茶色い羽根のやつだった。姿も声も何の面白みもないやつだ。ええい、忌々しい。追い払ってくれようか。

はじめはそう思ったけれど、そばでじっとそいつを見ているうちに、何だか親しみが湧いてきた。私は蝉が鳴くところを間近で見たのは初めてだったけれど、あんなにお腹をぷくっぷくって動かすものなんだ。小さな体で結構頑張っているんだな。

「あの、蝉はオスだね」

 気がつけば、すぐそばで彼女が言葉を発していた。


 どうして、そんなことが分かるのよ。


 私は相変わらずハッキリと断言する彼女に苛立ちを覚えながら言った。けれど、その声自体には、ついつい聞き惚れてしまう。

「知らないの? 蝉はもちろん、大抵の昆虫で鳴くのはオスだけなんだよ。何のためかって、それはメスへの求愛行動だから、頑張って鳴かないと、子孫を残せないからなんだって」

 そういえば、そんな話を小学校の理科の授業か何かで聞いたことがあるような気がするなあ。それにしても、無粋なことを言うものだ。せっかく蝉に対して抱きかけていた親近感が一気に冷めてしまったではないか。苦笑を禁じ得ない私に対し、彼女は少しだけ声の調子を落として言った。

「でも、人間の場合は、女も男も声を出せてしまうからフクザツだ」

 胸にピンとくる言葉だった。

「だから、男だけが声を張り上げていても、恋愛は成立しないんだ。女も頑張らないと、他の誰かに負けてしまう。それに大切なのは声の美しさなんかじゃない。人間は言葉を持っている。それを使って、自分の思いをいかに相手に伝えるかが大事なんだ。どんなに美しい声を持った人間でも、愛を語る言葉を持たなければ、その人に魅力はないと私は思う」

 相変わらず厳しいことをハッキリと言ってくれるけれど、そんな彼女だからこそ言葉に説得力があり、やっぱり私の心の中なんて全部お見通しなんだなって納得できた。その事実は、彼女の言葉以上に、私を安らかな気持ちにさせてくれるのだ。


 それじゃあ、私が捨てられたのは、私があの女に比べて愛を語る言葉を持たなかったってことなんだね。


 私は彼女に問い掛ける。

「いいえ、どんなことにだって例外はあるものよ。で、こういう場合の例外ってのは、大抵は男が悪いのよ」

 彼女はそう言い切った。ものは考えようと言うけれど、そういう考え方もありかもしれないなと思う。

 私は改めて思い直し、その忌々しいオスの蝉を追い払おうと足を上げた。だが、彼はそれだけで不穏な気配を感じ取ったのか、私が街路樹を蹴るより先に、青空の向こうへと飛び去っていった。

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