湿原
ホラーとはちょっと違うかも知れません。
八月。
その高層湿原がある山は、秋が始まりかけていた。
峠の登山道から登り始めて一時間ほどで、きつい登りは終わる。
登山道は次第に勾配が緩やかになり、やがて木道が始まる。
木道はまだ樹林の中。
湿原はもう少し先だ。
◇
晩夏の山は、木々の緑が深い。
木道の両脇の木々は、やがて背が低くなり、景色が開けてきた。
木道の両脇のミネカエデの深緑の葉の中に、一枚だけ真っ赤に色づいた葉を見つけた。
「気の早い葉っぱが一枚だけあるわ!」
すぐ後ろを歩く貴之さんに、大発見、みたいな顔をしながら、私は声をかける。
「……そうだね、良く見つけたね。」
貴之さんは、笑いながら答える。
ここは、一部の登山者しか登らない山。
ましてや、この先に小さな高層湿原があるなんて、普通の人はまず知らない。
「いい所を教えてくれて、ありがとうね。」
彼は黙ったまま、親指を立てて見せた。
いたずらっ子みたいた表情で、私の方を見る。
私、この笑顔にやられたんだよな。
やがて樹林は途切れ、湿原が始まった。
晩夏の青空が頭上に広がった。
みねかえで晩夏の風の渡る日に
たゞ一枚の紅き葉をつく
私は即興で短歌を詠んだ。
彼は微笑みながら聞いていた。
湿原を目指して、再び歩く。
歩きながら私は、さっきの一枚だけ紅葉したミネカエデが、何故かずっと気になっていた。
◇
やがて私達は、高層湿原の真ん中辺りにたどり着いた。
小さな湿原とは言え、その真ん中に立つと、見渡す限りミズゴケに覆われた高層湿原しか目に入らない。山の頂上の湿原だから、背景は青空。
とても気持ちが良かった。
「モウセンゴケだよ。」
貴之さんが言う。
一面を覆う白緑色のミズゴケの中に、小さな葉を真っ赤に染めたモウセンゴケが生えていた。その赤い葉には、小さな蜻蛉が捉えられていた。
かさかさ、かさかさ……
モウセンゴケに捉えられた蜻蛉が、自由の効かなくなった羽根を震わせてもがく。その脇では、モウセンゴケの小さな白い花が咲いていた。
「虫を食べながら、花粉も虫に運んでもらうのね。」
貴之さんは、黙ったまま私の話を聞いていた。
◇
やがて貴之さんは、何も言わずに私の肩を両手で掴むと、顔を近づけて来た。
私は、目を閉じた。
その時。
…………
かさかさ
かさかさ かさかさ かさかさ
かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ
かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ
かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ
かさかさ かさかさ かさかさ
かさかさ
…………
辺り一面から聞こえて来る、蜻蛉の羽音。
モウセンゴケに捉えられた数多の蜻蛉の、声なき叫び。
頭の中に、静かで残酷な光景が拡がった。
私は、目を開けた。
貴之さんの顔が見えた。
戸惑う貴之さんの顔が、突然なにか恐ろしいもののように見えた。
それから昼食を食べて、私達は山を降りた。
◇
十月。
私と貴之さんは、都内の喫茶店で会っていた。
貴之さんは、私に投資話を持ちかけた。
200万出さないかと言った。
私は、丁寧にお断りした。
何処からか、
蜻蛉の羽音が聞こえた気がした。




