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ホラー

湿原

作者: 蘭鍾馗
掲載日:2026/07/19

ホラーとはちょっと違うかも知れません。

 八月。



 その高層湿原がある山は、秋が始まりかけていた。


 峠の登山道から登り始めて一時間ほどで、きつい登りは終わる。

 登山道は次第に勾配が緩やかになり、やがて木道が始まる。


 木道はまだ樹林の中。

 湿原はもう少し先だ。


 ◇


 晩夏の山は、木々の緑が深い。

 木道の両脇の木々は、やがて背が低くなり、景色が開けてきた。

 木道の両脇のミネカエデの深緑の葉の中に、一枚だけ真っ赤に色づいた葉を見つけた。


「気の早い葉っぱが一枚だけあるわ!」


 すぐ後ろを歩く貴之さんに、大発見、みたいな顔をしながら、私は声をかける。

「……そうだね、良く見つけたね。」

 貴之さんは、笑いながら答える。


 ここは、一部の登山者しか登らない山。

 ましてや、この先に小さな高層湿原があるなんて、普通の人はまず知らない。


「いい所を教えてくれて、ありがとうね。」


 彼は黙ったまま、親指を立てて見せた。

 いたずらっ子みたいた表情で、私の方を見る。


 私、この笑顔にやられたんだよな。


 やがて樹林は途切れ、湿原が始まった。

 晩夏の青空が頭上に広がった。

 


   みねかえで晩夏の風の渡る日に

   たゞ一枚の紅き葉をつく



 私は即興で短歌を詠んだ。

 彼は微笑みながら聞いていた。


 湿原を目指して、再び歩く。


 歩きながら私は、さっきの一枚だけ紅葉したミネカエデが、何故かずっと気になっていた。

 


 ◇



 やがて私達は、高層湿原の真ん中辺りにたどり着いた。


 小さな湿原とは言え、その真ん中に立つと、見渡す限りミズゴケに覆われた高層湿原しか目に入らない。山の頂上の湿原だから、背景は青空。


 とても気持ちが良かった。


「モウセンゴケだよ。」

 貴之さんが言う。


 一面を覆う白緑色のミズゴケの中に、小さな葉を真っ赤に染めたモウセンゴケが生えていた。その赤い葉には、小さな蜻蛉が捉えられていた。


 かさかさ、かさかさ……


 モウセンゴケに捉えられた蜻蛉が、自由の効かなくなった羽根を震わせてもがく。その脇では、モウセンゴケの小さな白い花が咲いていた。


「虫を食べながら、花粉も虫に運んでもらうのね。」


 貴之さんは、黙ったまま私の話を聞いていた。


 ◇


 やがて貴之さんは、何も言わずに私の肩を両手で掴むと、顔を近づけて来た。

 私は、目を閉じた。



 その時。


 …………



         かさかさ


    かさかさ かさかさ かさかさ

  かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ

  かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ

  かさかさ かさかさ かさかさ かさかさ

    かさかさ かさかさ かさかさ 


         かさかさ



 …………


 辺り一面から聞こえて来る、蜻蛉の羽音。

 モウセンゴケに捉えられた数多の蜻蛉の、声なき叫び。

 頭の中に、静かで残酷な光景が拡がった。




 私は、目を開けた。


 貴之さんの顔が見えた。

 戸惑う貴之さんの顔が、突然なにか恐ろしいもののように見えた。



 それから昼食を食べて、私達は山を降りた。



 ◇



 十月。



 私と貴之さんは、都内の喫茶店で会っていた。

 貴之さんは、私に投資話を持ちかけた。

 200万出さないかと言った。


 私は、丁寧にお断りした。




 何処からか、

 蜻蛉の羽音が聞こえた気がした。



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― 新着の感想 ―
実は人怖? モウセンゴケの蜻蛉が自分の行く末を教えてくれたのですね。読ませていただきありがとうございました。
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