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美しい寒さ (読み切り)

作者: San
掲載日:2026/06/16

寒さは、痛みではなかった。


 


 もっと静かなものだった。


 


 ゆっくりと身体の奥へ入り込み、

 人間という輪郭を、

 時間をかけて薄く削っていくもの。


 


 雪は降っていた。


 


 果てなく。


 


 空と地面の境界は消えている。


 世界は白ではなく、

 白になりかけている途中の色だった。


 


 灰色。


 薄青。


 凍った呼吸の色。


 


 男は、その中を歩いていた。


 


 足を前へ出すたび、

 雪が沈む。


 


 ぎ。


 


 ぎ。


 


 音はそれだけだった。


 


 静かすぎて、

 自分の存在まで雪へ吸い込まれていく気がする。


 


 頬が冷たい。


 


 いや、

 もう冷たいのかどうかも分からない。


 


 感覚は少しずつ消えていく。


 


 最初は指先だった。


 次に耳。


 唇。


 


 身体の端から順番に、

 誰かに切り離されていくみたいに。


 


 男は自分の手を見る。


 


 白い息の向こうで、

 手袋に雪が積もっている。


 


 それが自分の手なのか、

 落ちている雪の一部なのか、

 少し曖昧だった。


 


 どうしてここにいるのか思い出せない。


 


 思い出そうとするたび、

 頭の奥に白い霧が満ちる。


 


 遭難。


 


 その言葉だけが、

 ぼんやり浮かぶ。


 


 だが、

 誰と来たのか。


 どこへ向かっていたのか。


 


 それはもう、

 雪の下へ埋まっていた。


 


 風が吹く。


 


 弱い風だった。


 


 なのに身体は揺れる。


 


 足元が不安定だった。


 


 雪は深く、

 膝まで沈む場所もある。


 


 歩くたび、

 体温が世界へ漏れていく。


 


 吐く息は白い。


 


 生きている証拠のはずなのに、

 それはすぐ空へ消えていく。


 


 まるで、

 命そのものが薄れていくみたいだった。


 


 男は歩き続ける。


 


 止まれなかった。


 


 止まれば、

 自分が雪になる気がした。


 


 遠くに影が見える。


 


 黒い人影。


 


 誰か立っている。


 


 男は少しだけ足を速める。


 


 助かる。


 


 そんな感覚が、

 一瞬だけ胸に灯る。


 


 だが近づくほど、

 それは形を失っていく。


 


 岩だった。


 


 雪を被った、

 ただの黒い岩。


 


 男は立ち尽くす。


 


 その時、

 自分が少し笑ったことに気づく。


 


 おかしかった。


 


 誰もいない世界で、

 岩に期待していた自分が。


 


 けれど笑い声は出ない。


 


 喉が凍っていた。


 


 歩く。


 


 また歩く。


 


 白い世界は終わらない。


 


 空を見る。


 


 雪。


 


 視界を見る。


 


 雪。


 


 足元を見る。


 


 雪。


 


 どこまで行っても、

 世界には何もない。


 


 なのに不思議と、

 この景色は美しかった。


 


 死んでいるみたいに静かだった。


 


 墓の中より静かかもしれない、

 と男は思う。


 


 その考えに、

 少しだけ安心してしまう。


 


 寒さは、

 もう苦しみではなくなり始めていた。


 


 身体が痛い。


 


 だが、

 痛みは遠い。


 


 雪の向こう側で誰かが苦しんでいるのを、

 眺めている感覚に近い。


 


 自分なのに、

 もう自分ではない。


 


 指は動かない。


 


 感覚がない。


 


 それでも、

 雪だけは綺麗だった。


 


 白というより、

 色を失った光だった。


 


 静かに降り積もり、

 世界の全てを隠していく。


 


 失敗も。


 


 記憶も。


 


 名前も。


 


 人間だった証拠さえも。


 


 男は突然、

 誰かを思い出しかける。


 


 暖炉。


 


 橙色の火。


 


 笑い声。


 


 赤いマフラー。


 


 だが次の瞬間には、

 その記憶は砕け散る。


 


 寒さが、

 全部を白く塗り潰していく。


 


 歩く速度が遅くなる。


 


 膝が震える。


 


 眠かった。


 


 異常なほどに。


 


 雪の上へ横になりたい。


 


 少しだけ。


 


 ほんの少しだけ目を閉じたい。


 


 男はそれが危険だと、

 どこかで知っていた気がする。


 


 けれど、

 もうどうでもよかった。


 


 寒さは優しかった。


 


 何も考えなくてよくなる。


 


 何者でもなくなれる。


 


 白の中へ、

 静かに溶けていける。


 


 男はゆっくり膝をつく。


 


 雪が沈む。


 


 冷たい。


 


 だがその冷たさは、

 もう痛みではない。


 


 まるで深い水の底へ沈んでいくような、

 静かな感覚だった。


 


 視界が霞む。


 


 雪が綺麗だった。


 


 泣きたくなるほど、

 綺麗だった。


 


 なのに、

 その美しさには何もない。


 


 救いも。


 意味も。


 


 ただ、

 白い。


 


 男は目を閉じる。


 


 遠くで誰かが名前を呼んだ気がした。


 


 だが思い出せない。


 


 思い出す前に、

 その声も雪へ埋もれていく。


 


 静かだった。


 


 ただ静かに、

 雪だけが降っている。


 


 世界が少しずつ白になっていく。


 


 その途中で。


 


 男がまだ息をしているのかどうかさえ、

 もう分からなかった。


 息を吸った感覚がなかった。


 


 吸ったのか。


 吐いたのか。


 


 その境界が曖昧だった。


 


 男は雪の上へ膝をついたまま、

 しばらく動かなかった。


 


 いや、

 動けなかったのかもしれない。


 


 身体が遠い。


 


 腕も。


 足も。


 


 まるで厚い氷の向こう側に置かれているみたいに、

 感覚が届かない。


 


 寒さだけが残っていたはずなのに、

 その寒ささえ薄れていく。


 


 それが一番、

 恐ろしかった。


 


 冷たい。


 


 その感覚が消えていく。


 


 痛みが消える。


 


 苦しさも消える。


 


 生きようとする力だけが、

 静かに剥がれていく。


 


 男はぼんやり雪を見る。


 


 白かった。


 


 どこまでも。


 


 あまりにも白すぎて、

 空を見ているのか、

 地面を見ているのか分からない。


 


 世界には上下がなかった。


 


 ただ白だけがある。


 


 雪はまだ降っている。


 


 一粒ずつ、

 静かに。


 


 肩へ積もる。


 


 髪へ積もる。


 


 睫毛へ積もる。


 


 自分が埋まっていくのが分かった。


 


 けれど、

 払い落とそうとは思わなかった。


 


 もう、

 どうでもよかった。


 


 男はゆっくり横になる。


 


 雪が沈む。


 


 柔らかい音。


 


 冷たいはずだった。


 


 なのに今は、

 奇妙なほど静かだった。


 


 まるで、

 大きな白い布に包まれているみたいだった。


 


 眠気が深い。


 


 意識が沈んでいく。


 


 目を閉じれば、

 そのままどこまでも落ちていけそうだった。


 


 男は空を見る。


 


 雪。


 


 ただ雪。


 


 それだけなのに、

 涙が出そうになるほど綺麗だった。


 


 世界は最初から、

 こんな色だった気がする。


 


 白。


 


 音のない色。


 


 何も残らない色。


 


 男はふと思う。


 


 自分は本当に存在していたのだろうか、と。


 


 暖かい部屋。


 


 誰かの笑い声。


 


 名前。


 


 過去。


 


 全部、

 夢だったのかもしれない。


 


 今この雪の中だけが、

 本当の世界だった気がする。


 


 指先はもう動かない。


 


 呼吸も浅い。


 


 胸が上下しているのかさえ分からない。


 


 それでも苦しくなかった。


 


 苦しむ力すら、

 もう残っていなかった。


 


 死は、

 もっと激しいものだと思っていた。


 


 叫び。


 


 恐怖。


 


 絶望。


 


 そういうものがあると思っていた。


 


 だが実際は違った。


 


 ただ静かだった。


 


 静かに、

 人間が薄れていく。


 


 雪の中で、

 形を失っていく。


 


 それだけだった。


 


 男は薄く目を開ける。


 


 白い空の向こうで、

 誰かが立っている気がした。


 


 ぼやけた影。


 


 こちらを見ている。


 


 赤いマフラー。


 


 その色だけが、

 白い世界の中で小さく揺れている。


 


 男は名前を呼ぼうとする。


 


 けれど、

 声にならない。


 


 唇が動かない。


 


 いや、

 もう自分に唇があるのかも曖昧だった。


 


 影は近づかない。


 


 ただ遠くで、

 静かに立っている。


 


 雪が降る。


 


 その姿を少しずつ隠していく。


 


 男は目を閉じる。


 


 疲れていた。


 


 何もかも。


 


 生きることも。


 


 思い出すことも。


 


 寒さに耐えることも。


 


 全部。


 


 意識が沈む。


 


 深く。


 


 深く。


 


 白の底へ。


 


 最後に、

 自分の心臓の音を探した。


 


 けれど聞こえなかった。


 


 雪だけが降っている。


 


 静かに。


 


 永遠みたいに。


 


 雪

  


そう呼ばれた気がする



そうだった


男は自分の名前は雪だったの


思い出した


そうられだけだった


何もかも白く薄れていく中


男は思い出したのは


それだけだった


誰はその名前を読んだのかすら


思い出す力は薄れていた男の中


雪だと言う名前だけは残り


やがてその名前さえ薄れ


溶け


その時遥か彼方の空から


ある雪は落ちていた


無数のの雪の中


雪は静かに落ち


それは静かで


落ちてるのか止まってるのか知らないぐらい静かで


落ち


やがて白と


言う物の中



雪は


溶け込んでいた

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