美しい寒さ (読み切り)
寒さは、痛みではなかった。
もっと静かなものだった。
ゆっくりと身体の奥へ入り込み、
人間という輪郭を、
時間をかけて薄く削っていくもの。
雪は降っていた。
果てなく。
空と地面の境界は消えている。
世界は白ではなく、
白になりかけている途中の色だった。
灰色。
薄青。
凍った呼吸の色。
男は、その中を歩いていた。
足を前へ出すたび、
雪が沈む。
ぎ。
ぎ。
音はそれだけだった。
静かすぎて、
自分の存在まで雪へ吸い込まれていく気がする。
頬が冷たい。
いや、
もう冷たいのかどうかも分からない。
感覚は少しずつ消えていく。
最初は指先だった。
次に耳。
唇。
身体の端から順番に、
誰かに切り離されていくみたいに。
男は自分の手を見る。
白い息の向こうで、
手袋に雪が積もっている。
それが自分の手なのか、
落ちている雪の一部なのか、
少し曖昧だった。
どうしてここにいるのか思い出せない。
思い出そうとするたび、
頭の奥に白い霧が満ちる。
遭難。
その言葉だけが、
ぼんやり浮かぶ。
だが、
誰と来たのか。
どこへ向かっていたのか。
それはもう、
雪の下へ埋まっていた。
風が吹く。
弱い風だった。
なのに身体は揺れる。
足元が不安定だった。
雪は深く、
膝まで沈む場所もある。
歩くたび、
体温が世界へ漏れていく。
吐く息は白い。
生きている証拠のはずなのに、
それはすぐ空へ消えていく。
まるで、
命そのものが薄れていくみたいだった。
男は歩き続ける。
止まれなかった。
止まれば、
自分が雪になる気がした。
遠くに影が見える。
黒い人影。
誰か立っている。
男は少しだけ足を速める。
助かる。
そんな感覚が、
一瞬だけ胸に灯る。
だが近づくほど、
それは形を失っていく。
岩だった。
雪を被った、
ただの黒い岩。
男は立ち尽くす。
その時、
自分が少し笑ったことに気づく。
おかしかった。
誰もいない世界で、
岩に期待していた自分が。
けれど笑い声は出ない。
喉が凍っていた。
歩く。
また歩く。
白い世界は終わらない。
空を見る。
雪。
視界を見る。
雪。
足元を見る。
雪。
どこまで行っても、
世界には何もない。
なのに不思議と、
この景色は美しかった。
死んでいるみたいに静かだった。
墓の中より静かかもしれない、
と男は思う。
その考えに、
少しだけ安心してしまう。
寒さは、
もう苦しみではなくなり始めていた。
身体が痛い。
だが、
痛みは遠い。
雪の向こう側で誰かが苦しんでいるのを、
眺めている感覚に近い。
自分なのに、
もう自分ではない。
指は動かない。
感覚がない。
それでも、
雪だけは綺麗だった。
白というより、
色を失った光だった。
静かに降り積もり、
世界の全てを隠していく。
失敗も。
記憶も。
名前も。
人間だった証拠さえも。
男は突然、
誰かを思い出しかける。
暖炉。
橙色の火。
笑い声。
赤いマフラー。
だが次の瞬間には、
その記憶は砕け散る。
寒さが、
全部を白く塗り潰していく。
歩く速度が遅くなる。
膝が震える。
眠かった。
異常なほどに。
雪の上へ横になりたい。
少しだけ。
ほんの少しだけ目を閉じたい。
男はそれが危険だと、
どこかで知っていた気がする。
けれど、
もうどうでもよかった。
寒さは優しかった。
何も考えなくてよくなる。
何者でもなくなれる。
白の中へ、
静かに溶けていける。
男はゆっくり膝をつく。
雪が沈む。
冷たい。
だがその冷たさは、
もう痛みではない。
まるで深い水の底へ沈んでいくような、
静かな感覚だった。
視界が霞む。
雪が綺麗だった。
泣きたくなるほど、
綺麗だった。
なのに、
その美しさには何もない。
救いも。
意味も。
ただ、
白い。
男は目を閉じる。
遠くで誰かが名前を呼んだ気がした。
だが思い出せない。
思い出す前に、
その声も雪へ埋もれていく。
静かだった。
ただ静かに、
雪だけが降っている。
世界が少しずつ白になっていく。
その途中で。
男がまだ息をしているのかどうかさえ、
もう分からなかった。
息を吸った感覚がなかった。
吸ったのか。
吐いたのか。
その境界が曖昧だった。
男は雪の上へ膝をついたまま、
しばらく動かなかった。
いや、
動けなかったのかもしれない。
身体が遠い。
腕も。
足も。
まるで厚い氷の向こう側に置かれているみたいに、
感覚が届かない。
寒さだけが残っていたはずなのに、
その寒ささえ薄れていく。
それが一番、
恐ろしかった。
冷たい。
その感覚が消えていく。
痛みが消える。
苦しさも消える。
生きようとする力だけが、
静かに剥がれていく。
男はぼんやり雪を見る。
白かった。
どこまでも。
あまりにも白すぎて、
空を見ているのか、
地面を見ているのか分からない。
世界には上下がなかった。
ただ白だけがある。
雪はまだ降っている。
一粒ずつ、
静かに。
肩へ積もる。
髪へ積もる。
睫毛へ積もる。
自分が埋まっていくのが分かった。
けれど、
払い落とそうとは思わなかった。
もう、
どうでもよかった。
男はゆっくり横になる。
雪が沈む。
柔らかい音。
冷たいはずだった。
なのに今は、
奇妙なほど静かだった。
まるで、
大きな白い布に包まれているみたいだった。
眠気が深い。
意識が沈んでいく。
目を閉じれば、
そのままどこまでも落ちていけそうだった。
男は空を見る。
雪。
ただ雪。
それだけなのに、
涙が出そうになるほど綺麗だった。
世界は最初から、
こんな色だった気がする。
白。
音のない色。
何も残らない色。
男はふと思う。
自分は本当に存在していたのだろうか、と。
暖かい部屋。
誰かの笑い声。
名前。
過去。
全部、
夢だったのかもしれない。
今この雪の中だけが、
本当の世界だった気がする。
指先はもう動かない。
呼吸も浅い。
胸が上下しているのかさえ分からない。
それでも苦しくなかった。
苦しむ力すら、
もう残っていなかった。
死は、
もっと激しいものだと思っていた。
叫び。
恐怖。
絶望。
そういうものがあると思っていた。
だが実際は違った。
ただ静かだった。
静かに、
人間が薄れていく。
雪の中で、
形を失っていく。
それだけだった。
男は薄く目を開ける。
白い空の向こうで、
誰かが立っている気がした。
ぼやけた影。
こちらを見ている。
赤いマフラー。
その色だけが、
白い世界の中で小さく揺れている。
男は名前を呼ぼうとする。
けれど、
声にならない。
唇が動かない。
いや、
もう自分に唇があるのかも曖昧だった。
影は近づかない。
ただ遠くで、
静かに立っている。
雪が降る。
その姿を少しずつ隠していく。
男は目を閉じる。
疲れていた。
何もかも。
生きることも。
思い出すことも。
寒さに耐えることも。
全部。
意識が沈む。
深く。
深く。
白の底へ。
最後に、
自分の心臓の音を探した。
けれど聞こえなかった。
雪だけが降っている。
静かに。
永遠みたいに。
雪
そう呼ばれた気がする
…
そうだった
男は自分の名前は雪だったの
思い出した
そうられだけだった
何もかも白く薄れていく中
男は思い出したのは
それだけだった
誰はその名前を読んだのかすら
思い出す力は薄れていた男の中
雪だと言う名前だけは残り
やがてその名前さえ薄れ
溶け
その時遥か彼方の空から
ある雪は落ちていた
無数のの雪の中
雪は静かに落ち
それは静かで
落ちてるのか止まってるのか知らないぐらい静かで
落ち
やがて白と
言う物の中
に
雪は
溶け込んでいた




