第8話「薬草園の芽吹き」
宮廷が混乱に陥っている頃、ヴァルデン領では小さな、けれど確かな変化が始まっていた。
リーネとレクトが計画していた薬草園が、ようやく形になったのだ。
「ここの土壌、本当に素晴らしいです。弱酸性で水はけがよくて、日当たりも申し分ない。星露草の栽培にはこれ以上ない条件ですね」
東の丘陵地帯に開かれた薬草園で、リーネは嬉しそうに土を手に取った。指の間からさらさらと零れる黒土は、薬草にとって理想的な質感だった。
「レクト様が手配してくださった開墾班の皆さん、本当によく働いてくれました」
「みんな、リーネさんのためならって張り切ってたよ。『薬師さんの役に立てるなら!』って」
レクトの横にいた農夫の一人がにかっと笑った。リーネが来てから子供の夜泣きが治ったのだという。
薬草園は十区画に分けられ、それぞれの土壌条件に合った薬草が植えられている。最も広い区画は星露草の栽培用で、リーネが森の群生地から慎重に移植した苗が並んでいた。
「星露草は繊細な植物で、環境の変化に弱いんです。でもこの土壌なら……」
リーネがしゃがんで苗を観察すると、目に見えないはずの根の状態が頭に浮かんだ。
(根の張りが良い。水分の吸収も順調。あと二週間もすれば安定する)
いつもの「勘」——いや、薬理眼が植物にも反応している。リーネ自身はそれを不思議に思うことすらなかった。十年間ずっとそうだったから、当たり前の感覚になっている。
「リーネさん、一つ相談があるんですが」
レクトが少し改まった声で言った。
「実は先日、隣のブレント領から手紙が来まして。領民の間で原因不明の腹痛が流行しているらしいんです。ブレント領にも薬師がいなくて、対処できずに困っていると」
「原因不明の腹痛……流行性ですか?」
「ええ。一人二人ではなく、数十人規模で。食あたりを疑ったそうですが、食事の内容はばらばらで共通点がないと」
リーネの薬師としての思考が動き出す。
「流行性の腹痛で食事に共通点がない場合、水源の汚染が考えられます。井戸か、川の上流に何か——」
「さすが……即座にそこに辿り着くんですね」
「薬師の基本ですよ。ブレント領から水のサンプルをいただけますか? 検査すれば原因を特定できると思います」
「分かりました。すぐに使いを出します」
三日後、ブレント領から届いた水のサンプルを、リーネは薬房で丹念に調べた。
試薬を数滴落とし、色の変化を観察する。沈殿物を分離して、匂いを確かめる。
「……やっぱり」
「分かったんですか?」
横で見ていたレクトに、リーネは小瓶を示した。
「この水に微量の毒草の成分が溶け込んでいます。おそらく、ブレント領の主要水源の上流に灰毒草が群生していて、雪解け水で成分が流れ込んだんでしょう。少量なので致命的ではありませんが、継続的に摂取すると慢性的な腹痛を引き起こします」
「灰毒草……」
「解毒は簡単です。煮沸すれば成分は分解されますし、灰毒草の群生を除去すれば根本解決になります。あと、念のため解毒薬も調合して送りましょう。すでに症状が出ている方には必要ですから」
リーネは手際よく解毒薬を調合し始めた。必要な量を計算し、薬草を計量し、煎じる。無駄のない動きは、十年の宮廷生活で鍛え上げられたものだ。
翌日、解毒薬と対処法を記した手紙がブレント領に届けられた。
一週間後——ブレント領からの返信には、深い感謝の言葉が綴られていた。原因は指摘の通り水源上流の灰毒草で、除去したところ新規の発症は止まった。解毒薬のおかげで既に症状のあった領民も回復に向かっている、と。
「リーネさん。ブレント領のクレメンス卿が、お礼にと特産のワインを三樽送ってくださるそうです」
「三樽も!? そんな大層なことはしていないのに……」
「いいえ、大層なことですよ。薬師不在で苦しんでいた領地を救ったんですから」
レクトは誇らしげに笑った。
「それと、もう一つ。クレメンス卿から提案がありまして。今後、ブレント領の薬務についてもリーネさんに顧問として関わっていただけないかと。もちろん報酬付きで。ヴァルデン領としても、近隣領地との関係強化は歓迎です」
「顧問……」
王宮では十年かけても「ただの薬師」だったのに。辺境に来てわずか二ヶ月で、隣の領地から頼られている。
「……不思議ですね」
「何がですか?」
「同じことをしているだけなのに、ここでは喜んでもらえるんだな、と思って」
レクトは少し考えてから、穏やかに言った。
「同じことじゃないと思いますよ。王宮では、リーネさんの仕事は『あって当然』のものだった。でもここでは、みんながその価値を知っている。——価値が変わったんじゃなくて、見る目が変わっただけです」
その言葉が、じわりと胸に染みた。
「……レクト様は、時々すごくいいことを言いますね」
「時々、ですか」
「普段のネーミングセンスを考慮した結果です」
「シルフの名前の件、まだ引きずってるんですか……」
きゅう、とシルフが笑うように鳴いた。




