第7話「宮廷、さらに沈む」
使者が手ぶらで帰還したという報告を受けたガルドス宰相は、執務机を拳で叩いた。
「断った、だと……! たかが薬師風情が!」
しかし怒りをぶつける相手はいなかった。
この一ヶ月で、宮廷の状況は悪化の一途を辿っていた。
まず、騎士団の戦力低下が深刻になった。リーネが常備していた傷薬と回復薬のストックがついに底を突き、訓練中の軽傷すらまともに手当てできない状態だ。
騎士団長カイゼルは何度もセレスティアに薬の調合を求めたが、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。
「わたくしは聖薬術の使い手ですの。泥臭い軟膏作りなんて、専門外ですわ」
軟膏一つ作れない薬師に、何ができるのか——騎士団の間でそんな不満が公然と語られるようになっていた。
そして、ついに無視できない事態が起きた。
「陛下。王妃殿下のご体調が優れません」
侍医長が青い顔で国王に報告したのは、ある朝のことだった。
王妃エリザベートは数日前から微熱と倦怠感を訴えていた。セレスティアが聖薬術を施したものの改善せず、むしろ悪化している。
「どういうことだ。セレスティアの薬は効かぬのか」
「……恐れながら、申し上げにくいことですが」
侍医長は言葉を選びながら続けた。
「オーランド嬢の聖薬術を、私どもの医学知識で検証いたしました。その結果——治癒効果は確認できませんでした。芳香による一時的な気分の高揚は見られますが、薬理学的な作用は皆無かと」
国王の顔が、ゆっくりと凍りついた。
「つまり……あれは薬ではないと?」
「はい。端的に申しますと——ただの、いい香りがする水です」
沈黙が落ちた。
国王は深く息を吸い、低い声で命じた。
「ガルドスを呼べ」
一時間後、宰相ガルドスは王の執務室で膝をついていた。
「説明せよ、ガルドス。余が聞いていた話と随分と違うようだが」
「へ、陛下。これには深い事情が——」
「セレスティア・オーランドの聖薬術とやらが、ただの香り水だという報告を受けた。そして前任の薬師ファルトを追放したのは、お前の独断だったとも聞いている」
「そ、それは——」
「さらに、オーランド伯爵家からの資金提供を受けていたという噂もある。これは事実か?」
ガルドスの顔から血の気が引いた。
実際のところ、ガルドスはオーランド伯爵から多額の献金を受け取っていた。セレスティアを宮廷に送り込む見返りとして。薬師の入れ替えなど些末な人事だと軽く考えていたのだ。
「陛下、お慈悲を——」
「ファルトを呼び戻せと言ったはずだが」
「そ、それが……先日使者を送りましたが、断られまして。辺境のヴァルデン領に雇われており、領主が引き渡しを拒否して——」
「それはそうだろう」
国王は冷たく言い放った。
「追放した相手に戻れと言って、はいと答える馬鹿がどこにいる。——ガルドス、お前にはこの件の全責任がある。処分は追って沙汰する」
ガルドスが退室した後、国王は侍医長に向き直った。
「王妃の症状を改善できる薬師は他にいるか」
「……正直に申しますと、王妃殿下の症状は、ファルト薬師の定期処方に依存していた部分がございます。体質に合わせた繊細な調合は、他の薬師では……」
「ファルトでなければならぬ、と」
「はい」
国王は窓の外に目をやった。遥か遠く、辺境の方角——当然、何も見えはしないが。
「……余は、あの薬師の顔も名前も知らなかったな」
その一言は、誰に向けたものでもなかった。
一方、セレスティア・オーランドは自室で震えていた。侍医長の検証結果が広まれば、自分の立場は終わる。
(どうすれば——いいえ、まだ大丈夫。お父様が何とかしてくれる。ガルドス宰相だって、わたくしを見捨てられないはず)
しかし、その「お父様」であるオーランド伯爵は、すでに形勢不利を察知して距離を置き始めていた。貴族の世界では、沈む船から逃げるのは当然の処世術だ。
セレスティアは——まだ、それに気づいていなかった。




