第6話「王宮からの使者」
ヴァルデン領に来て二ヶ月が過ぎた頃、リーネの日常はすっかり安定していた。
朝は森で薬草を採集し、午前中は調合、午後は診療。夕方にはレクトがハーブティーを飲みにやってくる。シルフは薬房の窓辺で丸くなり、子供たちが来ると尻尾を振る。
穏やかで、温かくて、自分が必要とされている——リーネにとって、初めて「帰る場所」と呼べる日々だった。
その日も、いつも通りの朝になるはずだった。
「リーネさん! 大変です!」
薬房の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、門番のおじさんだった。息を切らしている。
「どうしましたか? 怪我ですか?」
「い、いや。王都から——王宮の紋章入りの馬車が来てる! 使者だ!」
リーネの手が、薬草を刻んでいた薬匙の上で止まった。
——来た。
予感はあった。いつか来るだろうとは思っていた。けれど、こんなに早いとは。
「……分かりました。領主様には連絡を?」
「もう走って知らせに行った!」
リーネはエプロンを外し、手を洗い、静かに深呼吸した。
シルフが心配そうにきゅうと鳴いて、肩に飛び乗る。
「大丈夫よ、シルフ。何も変わらないから」
領主館の応接間に通されたとき、リーネの目に映ったのは二人の人物だった。
一人は見覚えのある男——ガルドス宰相の秘書官。あの日、リーネを大広間に呼びつけた痩せぎすの男だ。二ヶ月前は汚いものを見るような目をしていたが、今日は打って変わって卑屈な笑みを浮かべている。
もう一人は宮廷騎士の礼装を纏った若い男で、使者の護衛だろう。
リーネより一歩前に、レクトが立っていた。領主として来客を迎える立場だが、その表情はいつもの穏やかさとは違い、どこか硬い。
「お久しぶりです、ファルト殿」
秘書官がわざとらしく頭を下げた。
「宰相閣下からの書状をお持ちしました。どうぞお読みください」
差し出された封書を受け取り、リーネは黙って目を通した。
内容はこうだ。
——宮廷薬師リーネ・ファルトの解任は事務手続き上の誤りであった。ついては速やかに帰還し、宮廷薬師の職務に復帰せよ。報酬は以前の二倍を保証する。
リーネは二度読み返して、静かに書状を畳んだ。
「……事務手続き上の誤り、ですか」
「は、はい。まことに遺憾ながら、手違いがございまして——」
「あの日、大広間で宰相閣下は仰いましたよね。『時代遅れの薬草煮は不要』『大した成果も残していない』と。あれも事務手続き上の誤りですか?」
秘書官の顔が引きつった。
「そ、それは……閣下も多少感情的になっておられた部分がありまして……」
「引き継ぎ資料も不要と言われました。十年分の調合記録を『古臭い』と」
「……」
「退職金は銀貨数枚でした」
秘書官が完全に黙った。
リーネの声に怒りはなかった。淡々と事実を述べているだけだ。けれど、それがかえって重かった。
「お返事を申し上げます」
リーネは背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「お断りします」
「な——」
「私は現在、ヴァルデン領の薬師として勤めております。ここには私を必要としてくださる方々がいます。報酬の多寡の問題ではありません」
秘書官が慌てて食い下がる。
「お待ちください! これは宰相閣下の——いえ、王命に準ずる要請です! 辺境の小領地の薬師と宮廷薬師では、格が違うでしょう!」
「格?」
リーネの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「格で薬が効くなら、王宮はとっくに困っていないはずですが」
秘書官が言葉に詰まったところで、レクトが一歩前に出た。
「使者殿。リーネさんは当領地に正式に雇用された薬師です。領主である私の許可なく連れ去ることは、たとえ宰相の要請であっても領地自治権の侵害にあたります」
「あ、アッシェンバル卿……しかし——」
「お引き取りください。リーネさんの意志は明確です」
レクトの声は静かだが、有無を言わせぬ力があった。辺境領主としての風格が、そこにはあった。
秘書官は苦虫を噛み潰したような顔で、最後にもう一度リーネを見た。
「……後悔なさいますよ。宰相閣下のご機嫌を損ねたら——」
「脅しですか?」
レクトの声が、一段低くなった。
「辺境とはいえ、この領地は王国の法の下にあります。正当な理由なく薬師を引き抜こうとした上、脅迫まがいの言葉を向けるとは。宰相閣下にお伝えください。ヴァルデン領は今後一切のこの件に関する交渉に応じない、と」
秘書官は何か言いかけたが、レクトの目を見て口を閉じた。護衛の騎士も居心地悪そうに視線を逸らしている。
使者の馬車が領地を去った後、リーネは大きく息を吐いた。
「……ありがとうございます、レクト様」
「いいえ。当然のことです」
レクトは少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……正直、怖かったんです」
「え?」
「あなたが、戻ると言うんじゃないかと」
その言葉があまりに素直で、リーネは思わず目を瞬いた。
「戻りませんよ。前にも言いましたけど」
「ええ。でも、宮廷薬師という地位は——」
「地位なんかより、シルフのご飯の時間のほうが大事です」
きゅう、とシルフが同意するように鳴いた。
レクトが吹き出し、リーネもつられて笑った。
使者を追い返した後の薬房は、いつもより少しだけ温かかった。




