第3話「新しい薬房と、森の恵み」
リーネに与えられた薬房は、領主館の隣にある小さな石造りの建物だった。
一階が調合室と診療所、二階が居住スペース。前任のベイル老薬師が使っていた設備がそのまま残されていたが、八ヶ月間手入れされていなかったため、埃が積もり、薬草の在庫はほとんど空だった。
「まずは大掃除ですね」
腕まくりをして、リーネは掃除に取りかかった。
窓を全開にして風を通し、棚を一つ一つ拭き上げ、床を磨く。期限切れの薬草は処分し、まだ使えるものは分類して棚に戻す。乳鉢を洗い、蒸留器を磨き、天秤の狂いを調整する。
作業をしていると、町の人々が次々と顔を出した。
「薬師さん、掃除の手伝いに来たよ!」
「これ、畑で採れた野菜。良かったら食べて」
「この花瓶、窓辺に置くと華やかになるわよ」
半日で薬房は見違えるほど綺麗になった。窓辺には花が飾られ、作業台の上にはお裾分けの野菜と焼き菓子が山のように積まれている。
リーネは思わず目頭が熱くなった。
王宮では十年間、誰もこんなふうに気にかけてくれなかった。薬房に来るのはいつも「薬をくれ」「早くしろ」「もっと効くやつはないのか」——それだけだった。
「……ありがとうございます」
小さく呟いて、リーネは次の課題に取りかかった。薬草の確保だ。
「レクト様、この領地の近くに森がありましたよね。薬草を採りに行きたいのですが」
「ありますが、奥のほうは魔獣が出ることがあります。案内しましょう」
「え、領主様自ら?」
「薬師不在の八ヶ月で、僕も多少は薬草の場所を覚えましたから。……役に立つかは分かりませんが」
翌朝、リーネとレクトは森に入った。レクトが腰に剣を帯び、リーネが大きな採集籠を背負う。
森に一歩踏み入れた瞬間、リーネの目が輝いた。
「——すごい」
足元に広がる草むらの中に、薬草がそこかしこに自生している。月見草、竜胆、甘草、白朮。王都の薬草園でも栽培が難しい希少種まである。
「この森、薬草の宝庫じゃないですか……!」
「そうなんですか? 僕には雑草にしか見えないんですが」
「雑草なんてとんでもない! この一帯だけで、基本的な薬の八割は調合できます。あ、あれは——」
リーネが小走りに駆け寄ったのは、木の根元にひっそりと咲く青白い花だった。
「星露草……! 解毒薬の主原料で、王都では一株金貨五枚で取引されるんですよ。それがこんなに群生しているなんて」
「金貨五枚!?」
「ええ。この群生地だけで、王宮の薬房の年間予算に匹敵します」
レクトが絶句している横で、リーネは夢中で薬草を採集し始めた。根を傷つけないよう丁寧に掘り起こし、種類ごとに籠に分ける。その手つきは迷いがなく、一つ一つの草を宝物のように扱った。
「リーネさんは、本当に薬草が好きなんですね」
「好き……そうですね。この子たちは、正しく扱えば必ず応えてくれますから」
人間と違って——とは、言わなかった。
採集を続けていると、森の奥から微かな鳴き声が聞こえた。
「……なにか聞こえませんか?」
レクトが剣に手をかけて警戒する中、リーネは音の方向に歩いていく。
茂みの奥に、小さな生き物がうずくまっていた。
銀色の毛並み、ふさふさの尾、手のひらに乗るほどの大きさ。狐に似ているが、額に小さな青い宝石のような角がある。
「これは……霊銀狐?」
「霊銀狐!? この辺りにもいたのか……」
霊銀狐は希少な魔獣で、攻撃性はないが非常に臆病で、人前にはめったに姿を見せない。魔力を帯びた薬草のそばに住む習性があるという。
この子狐は右前足を怪我しているようで、小さく震えながらリーネを見上げた。
「大丈夫。痛いのね。見せて」
リーネはゆっくりと手を伸ばした。普通なら野生の魔獣は逃げるはずだが、子狐はなぜかリーネの手をじっと見つめ、やがてそっと鼻先を近づけた。
(右前足の裏に棘が刺さっている。化膿はしていないけど、炎症を起こしかけている)
リーネの目が、子狐の体の状態を正確に読み取る。いつもの「経験と勘」——けれど、この能力は経験や勘で説明できる域を明らかに超えていた。
棘を抜き、傷口に手持ちの軟膏を薄く塗る。子狐はきゅうと小さく鳴いたが、暴れなかった。
「はい、おしまい。もう大丈夫よ」
手当てを終えて立ち上がると、子狐はリーネの足元にすり寄ってきた。ふさふさの尾を振り、離れようとしない。
「……ついてくるつもりですか?」
きゅう、と子狐が鳴いた。
レクトが苦笑する。
「懐かれましたね。霊銀狐が人に懐くなんて、聞いたことがない」
結局、子狐はリーネの肩の上に乗ったまま、薬房まで一緒に帰ってきた。
「名前、どうしましょう」
「銀色だから……ギン、とか?」
「……レクト様、ネーミングセンスは今後の課題ですね」
「えっ」
子狐はリーネに「シルフ」と名付けられ、薬房の看板娘(狐)になった。




