第2話「辺境の領地と、困った領主」
馬車を乗り継いで五日。リーネがヴァルデン領に着いたのは、夕焼けが山の稜線を赤く染める頃だった。
王都の喧騒とは別世界だ。石畳ではなく土の道、高い建物の代わりに低い木造の家々が並び、遠くに深い森と連なる丘陵が見える。空気が澄んでいて、肺の奥まで洗われるようだった。
「……いいところ」
思わず呟いた。宮廷の薬房は窓が小さく、いつも薬草の煙で霞んでいた。こんなに広い空を見たのは何年ぶりだろう。
領都と呼ぶにはささやかな町の入口に、門番が一人立っていた。中年の兵士で、リーネの姿を見ると怪訝そうな顔をした。
「旅の方ですかい? この先はヴァルデン領の領都ですが、宿屋は一軒しかありませんよ」
「はい、旅の者です。こちらで薬師を探していると聞いて参りました」
その瞬間、門番の表情が劇的に変わった。
「や、薬師!? あんた薬師なのかい!?」
「え、ええ。一応……」
「おおい! 薬師が来たぞ! 薬師だ!」
門番が大声で叫んだ途端、どこからともなく人が集まってきた。買い物帰りらしいおかみさん、仕事上がりの職人風の男性、走ってくる子供たち。あっという間にリーネは人垣に囲まれた。
「本当に薬師さん!? うちのばあちゃんの腰が——」
「子供の熱が三日下がらなくて——」
「畑仕事で手を切って、化膿しちまって——」
次々と押し寄せる声に、リーネは面食らいつつも薬師の顔になった。
「落ち着いてください。一人ずつお話を聞きます。まず、お熱のお子さんが優先ですね。今どちらに?」
結局、宿屋に荷物を置く暇もなく、リーネは町の中を駆け回ることになった。
熱を出していた子供は、診たところ季節の変わり目によくある風邪だった。手持ちの薬草で解熱の煎じ薬を作り、飲ませ方と養生の仕方を母親に伝える。化膿した手の傷は洗浄して軟膏を塗り、清潔な布で巻いた。腰痛のお婆さんには湿布薬を処方した。
一通り診終わった頃には、すっかり日が暮れていた。
「はぁ……」
宿屋の椅子に座り、ようやく一息つく。宿の女将が温かいスープと焼きたてのパンを運んできてくれた。
「薬師さん、今日は本当にありがとうね。うちの町、ベイル先生が引退してからもう八ヶ月も薬師がいなくて。みんな困ってたんだよ」
「八ヶ月……それは大変でしたね」
「隣町まで半日かかるからねえ。軽い怪我や風邪くらいなら我慢するしかなくて」
リーネはスープを一口飲んで、目を閉じた。
温かい。王宮の食事は豪華だったが、こういう素朴な温かさとは違った。
——ここの人たちには、自分が必要とされている。
その実感が、追放されてから初めて、胸の中の冷たい水を少しだけ溶かしてくれた。
「あの、薬師さん。もしよければ、明日領主様に会っていただけないかしら。ずっと薬師を探してらしたから、きっと大喜びするわ」
「領主様……」
「レクト様よ。お若いけど、とてもいい方なの。領民のことをいつも一番に考えてくださる」
翌朝、リーネは宿の女将に案内されて領主の館を訪ねた。
館といっても、王宮の一室よりも小さい。質素な石造りの建物で、庭には手入れの行き届いた薬草——いや、ただの雑草が生えていた。
(あれは薬草じゃなくて……いえ、あの草の根は胃薬になるわね。あちらの花は虫除けに使えるし……)
職業病が発動しかけたところで、館の扉が開いた。
「——あなたが、昨日町で診療してくださった薬師さんですか」
現れたのは、茶色の髪を無造作に束ねた青年だった。深い緑の瞳に、日焼けした肌。貴族というより軍人のような体格だが、その表情は穏やかだった。
「はい。リーネ・ファルトと申します」
「ヴァルデン領主、レクト・アッシェンバルです。昨日は領民を診てくださり、ありがとうございました」
領主自ら頭を下げる。その姿に、リーネは少し驚いた。王宮では、宰相はおろか下級貴族でさえ薬師に頭を下げることなどなかった。
「突然のお願いで恐縮ですが」レクトはまっすぐにリーネを見た。「よろしければ、この領地の薬師として留まっていただけませんか。報酬は……正直、王都のようにはお出しできませんが、住居と薬房は用意します。食事も領地の食材を自由に使ってください」
「……」
「実は昨夜、診ていただいた方々から話を聞きまして。皆、『あの薬師さんは本物だ』と。手を見ただけで傷の具合が分かった、顔色を見ただけで病名を当てた——と」
リーネは少し困った顔をした。
「それは……長年の経験で、なんとなく分かるだけです」
「なんとなくで分かるのは、十分すごいことです」
レクトの言葉には、お世辞の気配がなかった。本心からそう思っているのが、声の響きで分かる。
「……少し、考えさせてください」
そう言いつつ、リーネの心はほとんど決まっていた。ここには薬師が必要で、自分は薬師だ。これ以上分かりやすい答えがあるだろうか。
「あの、領主様。一つお聞きしても?」
「レクトで構いません。何でしょう」
「領主様——レクト様のお顔色、少し気になるのですが。最近、よく眠れていますか?」
レクトが目を丸くした。
「……なぜ分かるんですか」
「目の下の隈と、肌の色で。おそらく慢性的な睡眠不足で、胃にも負担がかかっています。食事を抜くこともあるでしょう」
「…………図星です」
レクトは照れたように頭を掻いた。領主業務に加えて薬師不在の問題、領境の魔獣対策と、この半年休む暇がなかったらしい。
リーネは鞄から小さな布袋を取り出した。
「これは安眠効果のあるハーブティーです。寝る前にひとつまみをお湯に入れて飲んでください。あと、食事は抜かないこと。胃薬も後で調合しますので」
「あ、ありがとうございます……あの、まだ正式に雇用したわけでは」
「薬師として、目の前に不調の方がいたら放っておけないんです」
リーネが微笑むと、レクトはしばらく目をぱちくりさせた後、ふっと笑った。
「——あなたに来ていただけて、本当に良かった」
その日の午後、リーネは正式にヴァルデン領の薬師に就任した。




